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尼港事件の現場を訪ねて その9 尼港資料館

  
ニコラエフスク資料館には、

尼港事件に纏わる数々の資料が展示してありました。

尼港事件は、1918年(大正7)に始まった

シベリア出兵がもたらした負の代償といえるもの。

もともとは連合国側からの要請でロシア革命への干渉が目的でしたが、

連合国が引き揚げても日本軍は単独で駐留するという、

その背景に領土的野心を疑われてもしかたがありません。

 当時、日本の属国だった朝鮮はソ連と国境を接していました。

今の北朝鮮の清津(ちょんじん)から海岸線を北へ向かい、

豆満江を渡ると、そこはソ連領内です。

張鼓峰事件で有名なハサン駅があり、

そこから約200km東がウラジオストックになります。

ウラジオストックからハバロフスクを過ぎて

ニコラエフスクまでの約1600kmの区間で、

ウスリー川東側とアムール東側を当時は沿海州と呼びました。                          

この沿海州の中心地が尼港(事件後はハバロフスク)であり、
日本政府はこの沿海州に白系ロシア人による傀儡政権の立ち上げを計画していたのです。



ロシア沿海州
           ロシア沿海州


でも、その代償が尼港事件であったならば、

それはあまりにも大きな犠牲を払ったと言わざるを得ません。

資料館はセンター街、といっても、

この付近にショピングセンターのような大きな店舗があるわではなく、

個人店舗が数店と銀行が一つ、それに市役所があるだけの貧相なものです。


市内にある銀行
             市内にある銀行



ニコラエフスク市役所
           ニコラエフスク市役所


その中にあって資料館は悠然と一角を引き立てていました。

この町に旅行者が頻繁に来るわけでもなく、

ひっそりと静まりかえっているのに、

なぜか資料館には5人以上の女性スタッフが働いているという奇妙な現象。

ソーニャ元館長に言わせれば、

女性の就職先のないこの町で資料館はあこがれの仕事場なのだそうだ。

それだけに競争も厳しく、

ちょっと失敗するだけでクビになるというから恐ろしい。


たぶん、共産党支配時代の名残かも。


ニコラエフスク資料館
          ニコラエフスク資料館                              


我々一行が久しぶりの見学者だったのか、

スタッフ全員が「おもてなし」するというサービス振りにびっくり。

ちょっと過剰なくらいでした。

この町の創立は1850年。

その頃の日本は攘夷か開国かで揺れ動いている時。

ペリーが浦賀に黒船艦隊を率いてやってくる3年前のことです。

ここ尼港は軍事拠点としての重要な役目を果たしながらも漁業基地として栄え、

鮭や鰊の加工工場として日本からの投資も盛んに行われていました。



魚の加工工場で働く人々
          魚の加工工場で働く人々
           (ニコラエフスク資料館所蔵)



資料館で立ち話をしていると、

1階の隅に椅子が並べられた20畳ほどの部屋を発見しました。

この部屋は映写室だそうで、

ロシアの歴史やニコラエフスク市の歴史や変遷を

映画で勉強するための部屋なのだそうだ。             

館長の話によると、

この部屋は当時も島田商会の映写室だったそうです。

リフォームされているとはいえ、

当時の日本商工会のリーダー的存在だった島田商会が、

日本居留民を集めては、ここで祖国の映像を見せて皆で懐かしがっていたのかと思うと、

何だか心が締め付けられてきます。



映写室 当時も同じ場所で映像を楽しんでいました。
     映写室  当時も同じ場所で映像を楽しんでいました。


さて、

時代は変わって尼港事件から25年後、

日本は敗戦を迎えることになりますが、

当時、満州や樺太、千島列島にいた日本兵はソ連兵に抑留されて

ソ連領内で強制労働を強いられます。

その抑留者の数、何と約80万人というからその惨劇が思い浮かばれます。



抑留者は鉄道の施設や森林開発のため、

ハバロフスク、イルクーツク、コムソモリスクナアムーレなどはもちろん、

モンゴルや中央アジアの奥深くまで送り込まれたようです。

それも劣悪な環境下での強制労働、

さぞ苦しかったことでしょう。

そしてニコラエフスク(尼港)にも抑留者が送り込まれてきたのです。

今から30年くらい前

日本から遺骨収集団が来て

当時の抑留者の埋葬現場を調査したそうです。

ソーニャさんも加わって探したらしいんですが、

なかなか見つらなくて苦労した覚えがあると言ってました。


結局、正確には分からず、

たぶんこの辺だろうということで

日本から連れて来たお坊さんがお経をあげて帰って行かれたとのこと。

私がその場所に案内してくれと頼むと、

気持ちよくOKしてくれたのはよかったのですが、

その場所が市内のはずれで遠いのにびっくり。

ガタガタ道と水たまりに車は往生しました。

写真の場所が埋葬現場への入り口です。

この藪から2キロほど入ったその周辺ということしか分からなかったそうです。



拘留者の埋葬現場入り口
           抑留者の埋葬現場入り口


いくら当時の時代背景があったとはいえ、

こんなところに抑留されて、

それも極悪な条件下での強制労働

「その末に亡くなったら人里離れた地面にただ埋められるだけなんて、人道的に許されるのか!」 

墓参りに行く人など皆無。

こんなシベリアの果てで、どんな思いで眠っているのか。

居ても立っても居られない心境です。



これから、いよいよ尼港事件最悪といわれる悲劇の現場、監獄に行ってみたいと思います。






大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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尼港事件を訪ねて その10 悲劇の尼港監獄 1

1920年(大正9)3月12日、

日本隊による赤軍パルチザン本部への夜襲は

残念ながら失敗に終わってしまいました。

生き残った人たちは、守備隊兵舎か日本帝国領事館に退却したわけですが、

領事館に逃げた人たちは、

翌日の13日、赤軍パルチザンへの投降拒否が決まり全員が死の道を選びました。

では、

守備隊兵舎に逃げ込んだ同胞たちはその後どうなったのでしょうか。

守備隊兵舎には、逃げ込んだ兵士を合わせて100名ほどの居留民が、

その後も赤軍相手に応戦していました。

が、3月18日になると、

これ以上の戦闘は無理と判断して武装解除を行ってしまいます。

果たして、この投降がどうだったのか。
その意味するとことは、生か死か。
                             

そこには病院関係者や学校の教師、商店経営者、

そして労働者などが兵士に混ざって、

全員が獄舎に繋がれてしまいました。

先に収容されていた人と合わせると、

尼港の獄舎には132名の日本人が収容されたのです。

事件前に尼港で生活していた日本人は734名。

しかし、

この時点で残った日本人は132名です。

そんな時、

ハバロフスクで正式に革命政府樹立が宣言されました。

1920年(大正9)3月14日のことでした。

立ち上がったばかりのハバロフスク司令部は、

日本軍司令部からの強い要請で現地に休戦指令を出します。が、

尼港の現状など露ほども知り得ません。                                    

日本側はもちろんのこと、革命政府にしたって、

訓練を重ねた熟練の日本軍守備隊が烏合の衆のような赤軍パルチザン兵士らに、

こんな敗戦を期しているなどと夢にも思っていなかった。が、

連絡は途絶えていて消息は依然として不明のまま。                               

ハバロフスク日本軍司令部と東京の陸軍本部は本気になって救出部隊を編成します。                

早く助けに行かなければ同胞たちが危ない・・・。

救援部隊は2方向から尼港を目指します。

1隊は、樺太からアムール川の河口をさかのぼる部隊で、

陸軍本部の命令で北海道第7師団が抜擢されて

尼港派遣隊長には多聞二郎大佐が任命されました。

もう1隊は、ハバロフスク指令部が編成した救援部隊で、

ハバロフスク港からアムール川を下って尼港へ向かう部隊です。


アムール川に架かるシベリア鉄道鉄橋(ハバロフスク)

アムール川に架かるシベリア鉄道の鉄橋。(ハバロフスク)


ロシア沿海州地図

          ロシア沿海州と樺太 
                                                      

しかし、3月という季節は雪と氷に閉ざされ

尼港に近づくのは不可能です。

案の定、

多聞二郎大佐率いる第7師団は氷で動けなくなり、

樺太のアレクサンドロフスクで立ち往生する始末となります。

その時でした。

尼港から逃げてきたという3人のロシア人が、

救援隊の野営地に助けを求めて来たのです。

そこで、初めて尼港の現実を知ることになります。

多聞大佐は天を仰ぎ、

「まさか、こんなことになろうとは・・・、」

言葉を失うほどの衝撃が走ります。

アムール川を下って行く部隊は、

4月の末になると、もう一歩のところまで近づきました。

すると、事もあろうに

一部の赤軍パルチザン部隊が攻撃を仕掛けてきたのです。

日本軍の精鋭部隊はさすがに強い。

なんなく追い返したまでは良かったのですが、

彼らが逃げ去るときに置いていったとされる毛布に、

日本人の名が書いてあったのです。

「もしや、全滅したのでは・・・」

救援部隊の皆に嫌な予感が過ぎります。


その頃、尼港の状況は考えられない事態に陥っていました。


廃墟となった尼港の町(ニコラエフスク資料館所蔵)1920年当時

          破壊された尼港の町(1920年) 
          ニコラエフスク資料館所蔵


日本軍が2方向から尼港に迫っていることを知ったトレピーチンは、

町を廃墟にすることを決意。

木造の家にはガソリンで火を付け、

レンガ造りの建物にはダイナマイトで破壊するという暴挙に出たのです。

それに輪を掛け、監獄に収監されていた白系ロシア人の処刑を始めたのです。                   

女子や子供も関係なく、アムール河畔に引き出して殺す、

その残虐な殺し方はとても人間のすることとは思えない、

それほど残忍非道な方法でした。

そして、日本人が収監されている房にも、いよいよ魔の手が忍び寄ってきました。                                                                       
当時の監獄 現在も使用されている

       当時の監獄 現在も使用されている。           


イーゴリーは監獄の前に立って、

「これが当時の監獄か!そのままじゃないですか。

彼らの悲痛な叫びが聞こえてくるようだ」

イーゴリーの呟きに、ソーニャさんが一言、


「たしかに獄舎は当時のまま使用されています

でも、今は拘置所ですがね」

                           続く





大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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尼港事件の現場を訪ねて 悲劇の尼港監獄 2

トレピーチン一党が尼港を包囲したのは1月の中旬でした。


それから3ヵ月に及ぶ死闘の末、

尼港の町は廃墟と化してしまいました。

3ヵ月間で2500人以上の白系ロシア人が虐殺され、

邦人の死者も600人以上に上りました。

残った邦人は獄舎に収監されている
132名だけ。

その日本人獄舎にも魔の手は
容赦なく迫っていました。


そして5月24日

ついに獄舎から引きずり出された邦人たち。

そこで彼らに待っていたものは・・・。

赤軍パルチザンは獄舎では殺さず、まずは半殺しに・・・。

そしてアムール川河畔でサーベルで刺し殺したのです。 


当時のニコラエフスク

     当時の監獄 (現在はニコラエフスク拘置所) 

                                
現在のアムール湖畔

           現在のアムール河畔                                             

四方から聞こえてくるる悲鳴、悲痛な叫びは町全体を包み込みます。

「助けて!」

と泣きじゃくる女性や、逃げ惑う邦人を追いかける赤軍兵士。


あたりは地獄絵図へと変貌し、

そして、邦人は皆殺しの運命に・・・

ここで赤軍パルチザンは、町を破壊する行動に出ました。

トレピーチンは逃げなければならない。

日本の派遣隊が近づいているし、

こんな虐殺を新たに樹立された革命政府も容認するはずがないからだ。

トレピーチンは焦った。

「全員、ケルビに向かうぞ!」

それは退却の合図でした。

ケルビは尼港から350キロ西へ行ったところの小さな町。

尼港とケルビの地図

            尼港とケルビの地図


日本の派遣隊は過酷な状況を乗り越え、少しでも早く尼港へと全力で進んでいました 。

「もう少しで尼港に上陸だ!」

尼港派遣隊の声が聞こえました。


第7師団、多聞大佐が尼港に上陸したのは6月3日のことでした。

続いてアムール川を下ってきたハバロフスク派遣隊も5日遅れで到着。


アムール川の河口を望む

          アムール川の河口を望む 

                                          
上陸した派遣隊が尼港の町で見たものは・・・。

それは想像を絶する光景でした。

あたりは瓦礫の山、おびただしい死体の山。

これを地獄絵と言わず何と表現すればよいのか。

最大の悲劇は、日本人が収監されていた獄舎に派遣隊が入ったときのことでした。

壁に書かれた血みどろの文字。 

死ぬ直前、収監者の誰かが書いたと思われる最期のメッセージです。

「大正9年5月24日午後12時を忘れるな!」

同胞たちの死を目のあたりにする派遣隊員の悔しさは、

とうてい言葉に表現できるものではありませんでした。

1人の将兵が嗚咽交じりに、
                                         

「もう少し、早くに来てあげることができれば・・・」


それは、兵士全員の気持ちでした。

派遣隊一人一人に無念の涙が溢れていました。

イーゴリーは監獄の前に立ち、憤る表情で、


「こうやって当時を振り返ると、亡くなった人たちの悲痛が聞こえてくるようです」

続いてソーニャ元館長が、

「廃墟となった尼港の町には7人の生存者がいましたが、中国人が4人とアメリカ人が1人。
あとはロシア人の牧師が2人でした。
残念ながら日本人の生存者はいなかったんです」


尼港事件の全容を知ったイーゴリーは唇を噛みしめた。

「冬の閉ざされた尼港で4000人の無頼漢たちに囲まれたんじゃ、

所詮、日本側に勝ち目はないですよ。

革命の状況を考えれば、もう少し守備隊人数を

充実させておく必要があったんじゃないですか」                                


破壊された尼港の町

    破壊された尼港の町(ニコラエフスク資料館所蔵)


尼港にいた日本人居留民は守備隊を合わせて734名でした。

しかし、この事件で全滅。

日本政府は、発足したばかりの革命政府に補償の要求をしますが、

革命政府は係わっていないの一点張り。

最後まで赤軍パルチザンとの関係を全面否定したのです。

果たして、
尼港事件の結末はどうなったのでしょうか。







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尼港事件の現場を訪ねて  さらば尼港

尼港事件は歴史的に

どんな意味を持っていたのでしょうか。



日本側から見れば、漁業や木材などの資源確保はもちろん、

防共拠点としての地理的要因があったことは確かです。

ただ、居留民の安全を図るという立場から考えると、

防備の点でどうだったのか。

海軍電信隊と守備隊を合わせて350名の配置で十分だったのだろうか。

領事館を置く重要地域で、且つ冬の間は氷で閉ざされて移動が出来ないのです。

隣の町までは50㎞以上もあるんですよ。

でも、この町を歩いてみればわかります。

本当に小さな町なんです。

普通の感覚から言えば、350名の熟練度の高い守備隊がいれば、

居留民の安全は十分に保たれると誰もが思うでしょう。

 しかし、この時代は何が起こるかわからない。

特にこんな辺境地では逃げるに逃げれないのだから・・・。

韓国併合の時もそうでした。

現地では反対運動が激化しているにも拘わらず、

意外にも日本国内ではその反響を無視する傾向があった。

つまり、

他国のナショナリズムを軽んずる傾向のあったことは否定できないでしょう。

まさか、こんなことが起こるとは誰も想像してなかったのです。

当時の尼港(ニコラエフスク資料館所蔵)

     当時の尼港 (ニコラエフスク資料館所蔵)


もともと、シベリアへの出兵はチェコ・スロバキア軍の救援とロシア革命への干渉が目的でした。

しかしながら、ロシア革命が成立して第1次世界大戦が終結すると、

潔く連合国は自国へ引き揚げてしまったのに、

何故か、日本軍だけはシベリアに居座った。


その代償がこの事件なのか。

それにしては、あまりにも犠牲が大き過ぎた。

尼港の町を臨む


        尼港の町を臨む


尼港事件から11年後に勃発する満州事変、

そして17年後には大陸浸出のきっかけとなる盧溝橋事件が起きますが、

すべて軍隊駐留に対する相手国の反発が根底にありました。

盧溝橋事件の3週間後に起きた通州事件は、

よく第2の尼港事件と言われますが、

あの時も日本の居留民と通州守備隊が中国保安隊に襲われ、

ほぼ全滅となって尊い命が失われてしまいました。

これ、すべて侵略を前提とする
帝国主義的発想がもたらしたものではないだろうか。

大日本帝国の根底を成す領土拡張主義、

結局はその発想が時代を踏み越えて大東亜戦争まで拡大してしまった。

尼港事件は、大日本帝国が満州に隣接する

ロシア沿海州に傀儡国家の建設を夢見た代償であり、

帝国が終焉を迎える大東亜戦争までの一過程で起きた事件の一つです。

その特異性はロシア革命の真っ只中にあったことと、

シベリアのはずれで冬の交通手段が遮断されるという特殊要因でした。

尼港がいくら日本から近くても、

また軍事上の利点があるからと言っても、他国の領土なのです。

居留民の保護に関しては、もう少し防衛上の配慮が必要なのではなかったか。

尼港事件が起きる5年前もそうでした。

第1次大戦中に第2次大隈内閣が中国に強要した

という権益拡大の要求、

「対華21ヶ条要求」

中国国民を団結させてしまい、

反日、抗日の主たる原因をつくってしまったことを思い出してみましょう。

あの時も、列強諸国が第1次世界大戦の最中で

自国の方に目が向いているのを余所に、

どさくさに紛れての要求でした。

その結果、

中国では一般市民による五・四運動が起き、

最終的には日中全面戦争へと発展してゆくわけです。

他国への配慮が欠如している時代だった、
と言ってしまえばそれまでですが・・・。


赤軍パルチザンの幹部達(ニコラエフスク資料館所蔵)

赤軍パルチザンの幹部たち 中央にトレピーチン、左がレベデワ
     (ニコラエフスク資料館所蔵)


さて、その後のトレピーチンはどうなったのでしょうか。

発足したばかりのハバロフスク革命政府は、

日本との関係悪化を恐れてトレピーチン一味の逮捕に乗り出しました。

革命政府の追討軍はケルビまで追いかけ、

隠れていたトレピーチンら幹部を発見すると、

形式的な裁判で終わらせて死刑を宣告します。

日本側の引き渡し要求には応ぜず、

かつて彼らがしたようにアムール川河畔で処刑したのです。

日本政府はソビエト政府に猛然と抗議しました。

犯人の引き渡しと賠償金の請求。

しかし、解決には至りませんでした。

日本政府は解決するまで、北樺太を保障占領して抵抗の意を示しますが、

それでも関係なしの一点張りで押し通されてしまいます。

そうこうしているうちに、連合国側は次々とソビエトを承認してしまいます。

各種条約を革命政府との間で再締結して

双方のメリットを享受する行動に出たのです。

日本政府は焦りました。

帝政ロシアと結んでいた条約の継続や改廃、

漁業権などの経済的確保が急がれたからです。

結局のところ、1925年(大正14)1月、

日ソ基本条約が締結され、日本はソビエトを承認することになります。

その席で、ソ連側が事件について遺憾の意を表明すると、

どういうわけか、そこで決着がついてしまいました。

日本政府は賠償金も取れず、

5年間に渡って保障占領していた北樺太からも撤退するという、

苦渋の選択でした。

無益なシベリア出兵がもたらした悲劇の尼港事件。

この事実をしっかりと心に刻み、後世に語り継ぎたいものです。

帰る前日、

私たちはソーニャ元館長の自宅で尼港事件のことについて語り合いました。

革命下での動乱とはいえ、

この事件では邦人734名の尊い命が犠牲になりました。

そればかりではありません。

白系ロシア人に対する虐殺も

3000人を上回るという暴挙だったのです。


彼らの慰霊碑は、アムール側に沿った市民公園の中に建てられましたが、

邦人についてはどうなったのでしょうか。


白系ロシア人の慰霊碑(ニコラエフスク市民公園)


    白系ロシア人の慰霊碑 (ニコラエフスク市民公園) 


尼港派遣隊が遺体を回収すると、当地でだびに付し、

尼港と関係の深かった北海道小樽市が引き取ることになりました。

小樽市・手宮公園の中に納骨堂と慰霊碑が建立され、

現在も静かに遠い海の向こうを見つめています。


尼港事件・慰霊碑


   尼港殉難者追悼碑についての説明板(小樽・手宮公園内)


小樽・手宮公園


   尼港事件・慰霊碑(小樽・手宮公園内)


この事件が起こる10年前、

日本は韓国併合という植民地政策を実行しました。

ここに日本帝国主義の出発点があります。

今回の事件もシベリア出兵を口実に、

ロシア沿海州に傀儡国家を建設しようとした儚い夢の代償となってしまいました。

この事件を風化させてはならない。

それが私たちの努めではないでしょうか。

次の時代を担う若い人たちにこそ、事件の真相を知ってもらい、

尼港事件を語り合うことで犠牲者の鎮魂としたいものです。

翌日の早朝、ソーニャさんたちの見送りを受けながら、

再びこの地に訪れることを祈って、

イーゴリーと共にハバロフスクへ戻りました。

さらば尼港よ!



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日露戦争の現場を訪ねて その1 203高地の攻防戦

2011年の8月、日露戦争の激戦地の一つである旅順要塞、203高地を訪ねてみました。

あの山が203高地か


203高地を望む

          203高地を望む


想像していた「はげ山」と違い、樹木が生い茂っているのにまずはびっくり。

でも、あれから107年も経っているのだからあたりまえか。

旅順港は中国海軍の基地になっているので、

それを見下ろす203高地は長い間立ち入り禁止区域となっており、

20年くらい前から観光が許可されたそうです。

203高地へ入る案内看板

       203高地へ入る案内看板


203高地入り口に建つ石造りの案内オブジェ

     203高地入り口に建つ石造りの案内オブジェ



203高地の入り口には、写真のような立派な案内オブジェが建っており、

ここから麓にある管理事務所までは整備された道路が続きます。

山頂に行くには専用バスに乗り継がなければならず、

管理事務所で150元払って専用バスで頂上を目指しました。

残念ながらあいにくの雨模様、果たして旅順港は見下ろせるでしょうか・・・。

曲がりくねった山道を、うっそうとした樹木の間を専用バスは進みます。


(ここが203高地か・・・、あの壮絶な戦いがあった場所なのか、と思っただけで胸が締めつけられる思いに・・・)


そして、発車してから10分ほど経った時である。

バスが急に止まるので、 (どうしたのかな) と思っていたら、

ガイドの趙さんが、

「乃木さんの息子さんが戦死した場所を見に行きましょう」

と言うので、 専用バスを降りてみると、廻りは木々に覆われた崖。

下の方を見ると石碑が建っていました。

石段を降りて行くと、結構大きな石碑なので再びのびっくり。


乃木保典陸軍少尉の慰霊碑が見える

乃木保典(やすすけ)少尉の慰霊碑が見える。(ここで戦死したのか!)


乃木希典大将の次男、乃木保典陸軍少尉のまぎれもない石碑でした。


乃木保典少尉は、1881年(明治14)12月16日に乃木希典・静子夫妻の次男として生まれました。

1904年(明治37)2月8日の仁川上陸を皮切りに日露戦争が勃発すると、乃木希典大将は第3軍の司令官に抜擢され、旅順包囲戰を指揮しました。

遼東半島の戦場に2人の息子を送り出した乃木将軍。

2歳上の長男の乃木勝典(かつすけ)陸軍少尉は第2軍に配属され、

大連の北方に位置する金州南山の攻撃に参加して、すでに5月27日に命を落としています。

次男の保典は、父と同じ第3軍に配属されました。

203高地への凄まじい突撃の中で、

伝令として司令部と前線を行ったり来たりの任務を遂行。

しかし、203高地陥落寸前の11月30日、

ロシア軍の砲弾を至近距離に受けて崖から滑落、

大きな岩に頭をぶつけての即死でした。


ここがその現場だったのか!


乃木保典陸軍少尉の殉職の地に建つ慰霊碑

       乃木保典少尉の殉職の地に建つ慰霊碑


上を見ても木々が覆っていて山頂なんか見えない。

当時はここから頂上に陣取るロシア兵のトーチカが見えたんでしょうね。

今、この場所にいると、

映画のシーンにある山肌を駆け上る日本兵の突撃の様子が脳裏を駆け巡ってしまいます。


日露戦争とはいったい何だったんだろう!


ここで戦争に至った原因を考えてみましょう。

今から遡ること107年。

日清戦争(1894~1895)に勝利した10年後のことです。

三国干渉で辛酸をなめた日本政府は、大国ロシアと一戦を交える決意をします。

でも、その背景には何があったのか。

「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ!」

この文面、実は連合艦隊参謀・秋山真之が草案し、

東郷平八郎総司令長官がバルチック艦隊を迎えた1905年(明治38)5月27日、

旗艦三笠にZ旗を揚げて全艦に打電した言葉でした。

Zはアルファベットの最後の文字。

この後はない、という背水の陣という意味。

全艦の士気を高揚させる目的で使ったものでした。

実はこのZ旗、最初に使ったのは英国のネルソン提督だったそうです。

日本海海戦の100年前、1805年に起きたトラファルガーの海戦ではじめて用いられたといわれています。


Z旗

                Z旗


この日露戦争での勝利が、大日本帝国の礎をつくる出発点になろうとは誰が想像したでしょうか。


5年後には大韓帝国を併合。


日本はアジアの覇権を狙う新たな帝国として頭角を現すのです。

日本は何故、ロシアと戦わなければならなかったのか。

ロシアは1891年(明治24)の5月からシベリア鉄道の敷設に着工します。

最終目標はモスクワからウラジオストックまでの約9300㎞です。


ウラジオストック駅

       ウラジオストック駅


ウラジオストック駅にあるシベリア鉄道終着地点看板

ウラジオストック駅にあるシベリア鉄道終着地点の看板。


ウラジオストック駅のホーム

    ウラジオストック駅のホーム


その時点で、ロシアにとって喉から手が出るほどほしかったのが、

シベリア鉄道に連結する満州を縦断させる鉄道、東清鉄道でした。

本線はシベリア鉄道のチタから満州里、哈爾浜を通ってウラジオストックへ。

支線は哈爾浜から長春を通って大連・旅順へと続く路線です。


南満州鉄道

            遼東半島の鉄道図


そんな時、ロシアにとって予想外の事が起こったのです。

朝鮮の支配権を争って日清両国が激突したからです。

1894年(明治27)に朝鮮国内で減税や排日を訴えて東学党の乱が発生すると、朝鮮政府は清国に出兵を依頼。

それに対し日本も天津条約と日本公使館の保護という名目で出兵。日清戦争の勃発でした。

結果は日本軍の圧倒的勝利に終わります。

当時の清国は、アヘン戦争やアロー戦争で国力を消耗してるところに、

追い討ちをかけるように太平天国で混乱し、

国家への求心力は急速に衰え国民の信頼はすでに失墜していたのです。

講和条約は山口県の下関(昔は馬関)で行われたので下関(馬関)条約とも言われます。

清国代表は北洋軍閥を代表する李鴻章が全権を努め、

日本側は伊藤博文が全権を握って交渉に当たりました。

この条約によって日本は数々の利権を獲得することになります。


春帆桜1

        春帆楼(しゅんぱんろう)(下関市)
(1895年(明治28)4月17日に締結された日清講和条約(下関条約)の締結会場として知られている)


春帆桜2

         日清講和条約締結碑


朝鮮の独立を認めさせた日本。


台湾の獲得と遼東半島の割譲に成功し、この直後、朝鮮は大韓帝国と名を変え独立を宣言することになります。


李鴻章の道  講和交渉のため、李鴻章はこの坂道を利用して春帆楼に通いました。

        李鴻章の道 (下関市)
(講和交渉のため、李鴻章はこの坂道を利用して春帆楼に通いました)


実はここからが問題なのです。


下関講和条約が締結された6日後の1895年(明治28)4月23日、ロシアは満州への鉄道建設を目指しており、

日本に遼東半島の放棄を勧告してきたのです。

これに同調したのがフランスとドイツでした。


世に言う三国干渉です。


日本は3国を同時に相手にすることは出来ず、5月5日、苦渋の選択として、

この勧告を受諾せざるを得ませんでした。

三国干渉は日本にとって屈辱の一語だった!

ロシアは三国干渉の見返りとして、清国から満州に鉄道施設権を獲得します。

そればかりか

遼東半島の最南端にある旅順(旅順港を含む)を租借地とし、

大連の町づくりを開始したのです。

このやり方は、衰退する清国の足元を見ての、

言わば脅しでの権益確保でした。


大連大広場 現在は中山広場と呼ばれている

     大連大広場  現在は中山広場と呼ばれている。


ロシアはシベリア鉄道のチタから満州里、哈爾浜、綏芬河(すいふんが)までの本線と、哈爾浜から長春、奉天、大連、旅順までの南満州支線の2経路を1903年(明治36)に完成させ、特に哈爾浜から旅順の線を東清鉄道と呼びました。


大連駅

              大連駅


三国干渉に物を言わせたロシア。


遼東半島に鉄道を敷き、ロシア陸軍を西から極東方面へと大移動できるよう画策し、沿線の町々をロシア色に染め始めたのです。

50年前、クリミア戦争でセバストポリ要塞を放棄した苦い経験を糧に、

今回は本腰で満州の利権確保に乗りだしたというわけです。

日本国民は怒った!

ロシアへの報復が国民感情として高揚し、臥薪嘗胆の思いが募るばかりとなっていきます。

しかし、日本が単独でロシアと戦うのは苦しい。

そこで、ロシアとの一戦を窺いながらも、同じ中国権益確保を狙う英国と急接近し、

ロシアの極東への進出を牽制しようと、1902年(明治35)1月30日、軍事応援を伴う攻守同盟をイギリスと締結しました。

日英同盟の締結です。

ロシアが満州へ侵出したことは、朝鮮半島に君臨する大韓帝国の身の振り方にまで影響を及ぼし、

当時、日本が水面下で進めていた韓国併合計画までもが頓挫する憂慮すべき事態に・・・。

ついに我慢の限界に!


1904年(明治37)2月8日、日本はロシアと国交を断絶! 


ここに日露戦争が勃発したのです。


日本軍は2月8日の夜、第1軍が朝鮮半島の仁川に威嚇の意味を込めて上陸し、鴨緑江を越えて満州に進出します。

そこでロシア軍と交戦状態に入り、鴨緑江会戦が始まりました。

2月10日には両軍が宣戦布告を行い、緒戦は日本軍が勝利して兵は満州の奥へと進軍して行きます。

当時、旅順港はロシア太平洋艦隊の基地となっており、

故に日本帝国艦隊に脅威を及ぼし、日本陸軍による遼東半島への上陸を阻めていました。

しかし、鴨緑江会戦に勝利したのを機に日本兵の士気は大いに奮い立たちます。

ロシア側の総司令官は陸軍大臣だったクロパトキン大将。

満州軍総司令官として赴任すると、ロシア陸軍を鉄道を使って遼東半島へ移動する計画を立てます。

それに対し、日本側は大山巌元帥が満州軍総司令官に抜擢され、

児玉源太郎大将が満州軍参謀総長という、薩長派閥が二人三脚として立ち向かいます。


旅順港を封鎖せよ!


旅順にいるロシア太平洋艦隊を撃滅しない限り、

日本帝国連合艦隊が黄海の制海権を確保することは出来ません。

バルチック艦隊が動き出すという情報はすでにキャッチしており、

早急に対処する必要がありました。

そこで考えたのが、旅順口(旅順港の入り口)の閉塞作戦でした。

旅順口の幅は狭く(約240m)、大型艦船が通行できるのは、

その内でも中央部分の約100mだけです。 

そこで海軍は、その付近に貨物船などを沈めたり、

廃船を爆破したりして旅順口を封鎖しようと考えたのです。

ロシア太平洋艦隊が旅順港から出られなければ、

日本の連合艦隊がバルチック艦隊との挟み撃ちにあう危険性がなくなるからです。

旅順口閉塞作戦は失敗に終わる。

1回目は2月24日、2回目は3月27の未明に実行しましたが、

いずれも失敗に終わってしまいました。

この時、広瀬武夫少佐が敵の砲弾をもろに受けて戦死。

のちに軍神として崇められます。

そして3回目は5月2日の夜に行われましたが、

いずれも戦艦や陸上からの集中砲火が激しく旅順口の中央まで行けなかったのです。

残念ながら、旅順口閉塞作戦は失敗に終わりました。


旅順駅

              旅順駅


鴨緑江の会戦に勝利した第1軍は遼陽に向かい、第2軍は遼東半島に上陸して渤海に面する金州城を攻略、南山を確保しました。

 
これでロシア満州軍の本隊と旅順要塞部隊とは完全に分断されたわけです。


金州周辺地図2

            金州周辺地図


その時、日本海軍はどうしていたのか。


何としてでもバルチック艦隊が日本海に到達するまでに旅順艦隊を叩かなければならない。

それでないと完全な日本側の勝利とはならないからです。

しかし、旅順口閉塞作戦は失敗に終わっています。

では、どうすればよいのか。

旅順港にいるロシア艦隊に背後の山から砲撃してはどうか、

という作戦が生まれるわけです。

旅順要塞へ突撃!

ロシア太平洋艦隊を潰すのには、

旅順港の裏手に聳える山々から旅順港に停泊しているロシア艦船に砲撃を加えるしかありません。

大本営は5月に第3軍を編成し、司令長官に乃木希典(まれすけ)を任命します。


乃木希典司令長官率いる第3軍は、6月6日に遼東半島に上陸。


しかし、この戦いが日本戦史に残る膨大な死傷者を出すとは、

この時点では予想もしていなかったことです。

8月19日から11月26日までに計3回の総攻撃が行われ、

約2万3千名の死傷者を出す結果となってしまいました。

この時、大本営は旅順港を見渡せる203高地の奪取を命令しますが、

乃木司令官はロシア旅順要塞の中でも中枢をなす二龍山や東鶏冠山攻略に

大軍を投入するという失敗を繰り返すという有様。

日清戦争から10年も経つと、要塞の構造や敵の武器も進歩するもの。

遮二無二突っ込んだところで死体の山を築くだけでした。


その間、遼東半島では遼陽周辺で日露の地上戦、遼陽会戦が勃発!


大日本帝国の歴史の中でも、これほどに大規模な地上戦は、後に行われる奉天会戦を除いて記憶にない。


日本軍の主力は第1軍と2軍。ロシア満州軍本隊との一大決戦です。


8月24日から9月4日にかけて首山堡をめぐる一大攻防戦が繰り広げられたのです。

遼陽会戦といわれるこの戦闘、日露両軍合わせて35万の大軍が衝突し、

日本軍の死傷者は2万5千名に及ぶ苦戦を呈してしまいました。

それでも9月1日には首山堡を確保するという、日本陸軍の辛勝ながらもロシア軍を北方に押し返したのです。


首山峰 車窓から眺める首山峰

       首山峰 (車窓から眺める首山峰)


9月4日、退路を断たれると思ったクロパトキン大将は全軍に撤退を指示、奉天へ移動させますが、日本側にそれを追撃する余力はありませんでした。

秋山好古少将が率いる騎兵旅団の活躍はこの会戦でした。

また、首山堡の争奪戦では8月31日に橘周太少佐が戦死するという、日本軍苦戦の程度が感じられます。

しかし、この戦いは金州の南山占領と同じく、ロシア満州軍本隊と旅順要塞部隊とを分断するわけで、

これで日本軍は一気に旅順要塞攻略を仕掛けることが出来ます。

黄海海戦で制海権を掌握!

遼陽会戦が展開される直前のことでした。

旅順要塞を攻撃中の第3軍に同行している海軍特殊部隊が旅順港に

散発的に砲弾を撃ち込んだのです。

すると、海面に凄まじい爆発音と波しぶき。

ロシア太平洋艦隊は動揺してパニックに陥ってしまいます。

結局、二転三転した上でウラジオストックに向かうために旅順口を出たのです。

そこで待っていたのが日本の連合艦隊でした。

8月10日に起きた黄海海戦です。

黄海海戦と言えば、普通は1894年(明治27)9月17日に起きた日清戦争時の日本連合艦隊と清国の北洋艦隊の衝突を指しますが、ロシア太平洋艦隊との海戦も歴とした黄海海戦なのです。

結果は日清戦争と同様に大勝利。

1日で勝負がつき、日本連合艦隊は旅順口閉塞作戦の失敗を余所に黄海の制海権を確保したのです。

ロシア太平洋艦隊は損傷した上で再び旅順港へ逃げ帰り、それ以降、黄海に出ることはありませんでした。


その後、旅順要塞攻防戦はどうなったか。


乃木司令長官の攻め方に不安を持った満州軍総参謀長の児玉源太郎大将は、

大山巌元帥の代理として第3軍の司令部に赴き、

乃木3軍司令官と会談。

自ら第3軍の指揮を取ると言い出して前線へ。

今度は、203高地への集中的な攻撃を行ったのです。

それでも一進一退を繰り返す有様で、一度は占領した高地も再度奪回されるという苦戦を呈します。

旅順港の裏手にある山々には、ロシア軍が港を守るために頂上各所に要塞を築いており、約4万人のロシア陸軍が展開していました。


203高地を望む

          203高地を望む



日本軍が203高地の攻撃に集中すると見たロシア軍は、各所から兵を移動させ、ここに両軍入り交じっての壮絶なる戦いが展開されたのです。


金州周辺地図

           203高地周辺の地図


203高地攻略に成功!


弾丸が底をつき始めた日本兵の攻撃は絶体絶命の様相、

その奮戦ぶりはまるで阿修羅のごとく。

12月5日、第3軍がやっとのことで山頂を制圧すると、ロシア兵は浮き足立って雪崩の如くに敗走する始末でした。

こうして日本軍は203高地の攻略に成功しますが、

その代償は莫大なものになりました

結局のところ6万5千の兵力を投入して、死者5千、負傷者1万2千という膨大な犠牲者を出しての占領でした。

標高が203mだから203高地と名付けられたこの山も、

双方の砲弾で3mは低くなったと言われています。

突撃と退却を何度も繰り返した壮絶なる戦い。多くの死傷者を出したことで、日本人にとっては忘れられない死闘として後世に語り継がれるようになります。


さて、バスは203高地山頂の専用駐車場に着きました。


少し歩いて頂上へ。



山頂にあるロシア軍が使用したカノン砲のオブジェ

 山頂にあるロシア軍が使用したカノン砲のオブジェ


ロシア軍の使用したカノン砲の詳細

     ロシア軍の使用したカノン砲の詳細


203高地頂上のど真ん中には、爾霊山(にれいさん)と書かれた銃弾の形をした忠魂碑が建っていました。

これは、日露戦争が終結した1905年、戦場で亡くなった将兵たちの霊を慰めるために、

乃木大将が付近にあった砲弾や薬莢を集めさせて鋳型に流し込んで作らせたものです。

1913年に完成しましたが、203を中国語に訳すと爾霊山となるので、その名を刻ませたそうです。


霊山と刻まれた大砲の弾をもじったオブジェ。乃木大将がつくらせたものです。

爾霊山と刻まれた大砲の弾をもじったオブジェ。(乃木大将がつくらせたものです)


しかし、今日はあいにくの雨。

案の定、旅順港は見渡せません。残念でした。


この方向に旅順港が見えるはずなのに、雨では無理か!

(この方向に旅順港が見えるはずなのに、雨では無理か!)


晴れていたらこんな写真が撮れていたんでしょうね。

 (晴れていたらこんな写真が撮れていたんでしょうね)


この頂上に立って、先人たちが107年前、ここを占領しようと壮絶な戦いをしたのかと思うと、


つい目頭が熱くなって・・・。


旅順攻囲戰における全死傷者は、

日本側が約6万人(内、戦死者は約1万6千)、ロシアが約4万人(内、戦死者は約1万人)という凄惨な数字となり、まさに両国の死闘が繰り広げられた一戦でした。


日露戦争の現場を訪ねて 








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日露戦争の現場を訪ねて その2 奉天会戦とその後

旅順要塞の攻略が終わっても、日露戦争の決着はつきませんでした。

旅順要塞を占領されたクロパトキン大将率いるロシア満州軍は、

「戦略的撤退」

と銘打って奉天へと退却を開始しました。

この段階に至っても、ロシアはシベリア鉄道を経由して

続々と援軍を送り込んでくる余力があったのです。

1905年(明治38)1月下旬、日本軍は旅順から奉天を目指して北上を開始します。

いよいよナポレオン戦争以来の地上戰、

双方合わせて55万の兵力が激突する

という陸上での史上最大の戦い、奉天会戦の火蓋が切られるのです。


1932年頃の絵はがき

   瀋陽駅(旧奉天駅) 1932年頃の絵はがき


奉天会戦の結果はどうなったのでしょうか!

日本軍は総力で25万。

迎え撃つロシア軍は30万。

両軍合わせての一大決戦です。


乃木大将率いる第3軍がロシア軍の右翼、鴨緑江軍がロシア軍の左翼を狙い、

第1軍、第2軍、第4軍は正面から奉天を攻撃する計画です。

1905年(明治38)の3月1日、

日本軍の総攻撃で奉天会戦は開始されました。

その範囲は60㎞以上に及ぶ広域戰となります。

1904年2月からの開戦以来、1年間で日本軍は多大な犠牲を払ってきましたが、その状況は人員的な面だけでなく、財政的にも負担が響いて、これ以上の戦争継続が難しくなっていました。

しかし、ロシア側はバルチック艦隊が日本へ向けて航行中だし、今、ここで講和に乗る状況ではありません。

こうした事情から、日本の首脳陣は、一刻も早くロシア軍の主力を撃破して

相手の戦争能力にダメージを与え、

講和への道を切り開かねばならなかったのです。

結果は日本軍の逆転勝利、辛勝か!

塹壕を掘って日本軍を迎え撃つロシア軍。

包囲網を徐々に狭めていく日本軍。

その白兵戦は凄まじいものとなりました。

特に正面攻撃の第1軍、第2軍、第4軍が苦戦し、

総攻撃の初日だけで第2軍に約5千人の損害が出ました。

奉天会議における両軍配置図

         奉天会戦における両軍の配置図


ロシア軍がやや優勢で展開される中、3月9日のことでした。

突然とロシア軍が後方に退却を始めたのです。

これには日本軍の方が驚きました。

3月10日の夜、日本軍が奉天の町に入城することで、奉天会戦は終了しますが、日本軍としては兵力的にも経済的にもすでに限界にきており、

ロシア軍を追撃する余裕などありませんでした。

クロパトキン大将は、この決断によって満州軍総司令官を罷免されますが、

何故、優位な立場であるのに後方に退く命令を出したのか。

よく考えてみると、

これはロシアの伝統的な作戦だったのです。

ナポレオン戦争の時もそうでした。

後方に退くことで敵を懐奥まで誘い込み、疲弊させて最終的に勝利を導くという、戦略的撤退といってロシアの常套手段だったのです。

しかし、ロシア本国では、

そんな悠長なことはやってられない状況が発生していました。

民衆の経済的困窮からデモが相次ぐという、

ロシア政府も冷静な視点で受け止める余裕などなくなっていたのです。

1905年の1月9日には首都・ペテルブルグで労働者が立ち上がり、

日露戦争の中止、基本的人権の確立などを掲げて

ニコライ2世に直訴するというデモがありました。

その時、軍隊が非武装のデモ隊に発砲するという事件が発生。

世に言う「血の日曜日事件」です。

このように、ロシア国内で社会不安が増大している中、

奉天会戦での撤退を伝統的撤退などと言ってはおれず、

したがってクロパトキン大将の更迭は当然の措置だったのかも。

奉天会戦での両国の損害は、

死者だけでも日本側が1万6千人ロシア側が9千人という膨大な数字になり、負傷者に至っては日本側が6万人
ロシア側は5万人
という大激戦でした。


日本は旅順攻略から奉天会戦に至るまで相次ぐ勝利を重ねたものの、

常備兵員が20万人と言われる中、100万人以上の兵力を動員せざるを得ない総力戦は、すでに国力の限界に達し、あまつさえ戦費のほとんどは戦時国債でまかなうという苦しい状況では、これ以上の戦争の継続は困難でした。

この結果を受けて、


日本政府はアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト和平交渉の斡旋を依頼しますが、


ロシア政府は間もなく日本海に接近するバルチック艦隊に最後の望みを託しており講和を拒否します。

いずれにしても陸上での戦いは奉天会戦をもって終了し、あとは艦隊決戦にすべてを託すだけとなります。


今の奉天はどうなっているのでしょうか。


当時の奉天は瀋陽と名を変え、中国国内でも目覚ましい発展を遂げています。

日露戦争の激戦地の一つ、現在の瀋陽にこれから行ってみましょう。

大連から瀋陽までの距離は約380㎞。

列車は瀋陽へ向けて発車しました。


大連駅構内(1)

            大連駅構内


大連駅構内(2)

             大連駅構内


大連駅構内 遼東半島を南北に走る鉄道は、当初、ロシアが清より租借して東清鉄道と名付けました。

旅順・大連から奉天、長春を経て哈爾浜へ。

そこからは満州北部を通ってシベリア鉄道のチタまで連結しています。


車窓の景色

            車窓の景色


ロシアの時代が東清鉄道。

1905年のポーツマス条約によって大連から長春までの区間は

ロシアに代わって日本が清より租借し、南満州鉄道と名付けました。

その後、辛亥革命で長春以北は中東鉄道と名を変え、満州国が成立すると、今度はソ連から全線を買い取って北満鉄道と名を変えます。


革山駅に近づくと、煙突が見え始める。

       (鞍山駅に近づくと、煙突が見え始めた)


列車は鞍山に到着しました。


革山駅ホーム

             鞍山駅ホーム


鉄鉱石の産地でもあり、満州国時代は満鉄が鉄の生産を一手に引き受け、

当時は鉄鋼技術者を中心に日本人が多く住んでいたところです。

鞍山の次はいよいよ遼陽ですが、この列車は特急なので止まりません。

この一帯は遼陽会戦が繰り広げられた場所で、その中でも首山堡の戦いは歴史に残る激戦でした。

両軍の主力がはじめて激突したのが遼陽会戦。

ロシア軍20万人が展開する防御陣地に15万人の日本陸軍が挑んだ激戦です。

日本軍にとっては近代陸軍を相手にした始めての衝突でした。


両軍合わせて4万人以上の死傷者が出たのです。


首山峰が窓越しに見えてきました。

あれが首山峰か!



車窓から見る首山峰

           車窓から見る首山峰


列車は瀋陽北駅に到着!

さすがに瀋陽は大きいですね。

瀋陽北駅は新しい駅ですが、再開発が進み、この一帯は新しい開発地区として発展を遂げています。


これが昔の奉天駅か!


現在の瀋陽駅(旧奉天駅)

          現在の瀋陽駅(旧奉天駅)


瀋陽駅(旧奉天駅)を見ると、まるで東京駅にそっくりではありませんか。

でも、それもそのはず、当時の満鉄と関東軍が協力して東京駅を真似てつくったというのだからあたりまえか。


旧奉天大広場(中山広場)

          旧奉天大広場(現中山広場)


大連大広場と並んで比べられるのが、現・中山大広場(奉天大広場)です。

毛沢東の像が北京を指さして立っていますが、

広場の大きさは当時のままだそうです。


旧千代田公園(中山公園)

          旧千代田公園(中山公園)


当時の千代田公園は中山公園と名を変えても、今もその姿は昔のまま。

満州時代の給水塔がその面影を残しています。

107年前、この一帯で両軍合わせて55万の兵たちが死闘を繰り広げたんですね。それを思うと感慨も一入です。


奉天会戦のその後は?

三国干渉の雪辱を果たす!



1905年(明治38)5月27日、7ヵ月に及んだ航海の末にバルチック艦隊は日本海に姿を現しました。


旅順港を基地としていたロシア太平洋艦隊は、日本陸軍の旅順要塞攻撃によって湾外に出ることは出来ません。

日本海を舞台にしたロシア・バルチック艦隊と日本帝国連合艦隊の激突、まさに雌雄を決する戦いでした。

結果は欧米列国の予想を覆し、バルチック艦隊がほとんどの艦船を失うという惨敗で幕引き。

ロシア司令長官までもが捕虜に

なるという近代海戦史上、例を見ない

日本帝国連合艦隊の圧勝で終わったのです。

頼みの綱と見られたバルチック艦隊の完敗は、ロシア政府を講和に引き込むきっかけとなり、9月5日、セオドア・ルーズベルト大統領の仲介でアメリカ東部の港湾都市、ポーツマスで日露間での講和条約が締結されました。

その結果、賠償金は取れなかったものの、10年前の日清戦争での苦い経験、

遼東半島を返還した三国干渉の借りを返すという雪辱を果たしたのは大きな成果でした。

旅順・大連から長春までの東清鉄道は南満州鉄道と名を変え、

その後の満州進出への足がかりとなってゆくのは周知の通りです。


その代償は?


日露戦争は1904年(明治37)の2月8日の仁川上陸に始まり、

1905年(明治38)9月5日の講和条約まで約1年半の戦いでした。

戦争に勝利したとは言え、


日本軍の戦死者は8万8千人

病死者は2万7千人

負傷者は何と15万人

という莫大な数字で、合わせて26万5千人

という途方もない犠牲を払ってのことでした。

それに比べてロシア側の損害は、

戦死者だけなら日本側の40%というから

日本軍の消耗の程度がわかります。


大日本帝国は日露戦争で獲得した様々な利権によって、その後は満州の開発を促進し、やがては大東亜戦争へと階段を上り詰めてしまうのです。








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張作霖爆殺事件の現場を訪ねて(張作霖の足跡を追う)

瀋陽駅(旧奉天駅)を降り、待ち合わせの車に乗って20分ほど走ると

張作霖爆殺事件の現場に到着しました。


当時の新聞を読んでいたので、上を走る旧南満州鉄道と

下を通る京奉線の交差する陸橋の写真が頭に浮かんだ。

やっぱりそのままだ!

周囲こそ、ビルが建ち並び、アパート群が密集して当時とは違いますが、

線路の形態や陸橋の橋桁は当時のまま。

半分は爆発で崩れ落ちて新設したそうですが、

半分は当時のコンクリートがそのまま残り、

爆薬が仕掛けられた橋桁の回りはススで黒ずんでいました。


事件現場の陸橋の橋桁部分

         事件現場の陸橋の橋桁部分


事件現場となった陸橋の爆薬が仕掛けられたと思われる橋桁周辺には、

当時の爆薬のススがしみ込み黒ずんでいるのがわかる。

中国側はこの事件を皇姑屯事件と言いますが、

隣接するアパートの非常階段を上って踊り場から見ると、

確かに線路内の敷地に「皇姑屯事件の碑」と書かれた石碑が見えます。


皇姑屯事件と書かれた石碑

      皇姑屯事件と書かれた石碑が遠くに見える


1928年(昭和3)6月4日の早朝、

張作霖元帥の乗った特別列車はこの陸橋の下を通り抜けた瞬間、

橋桁に仕掛けられた爆薬によって列車が吹き飛ばされ、

奉天軍司令部内にある張作霖の自室に担ぎ込まれました。

1週間後に死亡の発表がありましたが、

張作霖の死が何者の仕業によるものだったのか。

そして何の目的があったのか。

いずれにしても、張作霖の死が帝国日本の進路に

多大な影響を及ぼしたことは間違いない。

張作霖とはどんな人物だったのか。

事件に至るまでの足跡を追ってみました。

張作霖は馬賊出身の頭目であった!

日露戦争の最中、スパイ容疑で日本軍に1人の男が捕らわれました。

その男、小柄な恰幅ですが、

双眸の奥に秘められた鋭い光は到底凡人とは思えない何かを感じさせていた。

日本側はこの男に死刑を宣告しますが、

使える男と見た日本帝国陸軍・満州軍総参謀長の児玉源太郎は、

その男の命と引き替えに「味方になれ」と誘うのでした。

その男の名は張作霖

遼寧省海城県出身の馬賊上がりの熱血漢でした。

海城は遼陽の南50㎞ほどにある、旅順から哈爾浜まで続く

東清鉄道・南満州支線の沿線にある小さな町です。

遼東半島の鉄道地図

          遼東半島の鉄道地図


1875年(明治8)に貧しい農家の家に生まれた張作霖は、

父と死に別れてからは継父に育てられますが折り合わず、

突然、家を飛び出して吉林省に渡り馬賊に身を投じます。

しかし、1904年(明治37)に日露戦争が始まると、

満州の中でも遼寧省や吉林省は戦場となり、

張はロシア軍のスパイとして活躍していました。

児玉源太郎大将の計らいで命拾いした張作霖。

でも、そう簡単に逆スパイを承知しません。

そこで児玉は、ある部下に張作霖を説得するよう命じるのですが、

その部下こそ、

後に政友会から首相となって張と大きく関わる田中義一(当時は少佐)でした。

張は田中少佐の執拗な説得に促されると、その旨を承諾。

今度は日本軍のスパイとしてロシア軍の駐屯地へ潜入し、

数多くの有益な情報を日本軍にもたらせました。

満州(東3省)という地域は、

もともと清朝・中央政府の命令や統制が浸透しにくいところであり、

警察力も弱く、非合法の組織が乱立するという、

そんな中で張作霖は成長します。

日露戦争が終結すると、張は日本軍を離れて清朝に帰順。

それは清朝政府が馬賊や軍閥に優遇政策をとった為で、

この行為で張は2000人以上の清朝軍を率いる部隊長に昇格。

すると、張のもとには各地から人が集まり、

顕然たる勢力に拡大してゆきます。

その時、張は阿片売買で財源を稼ぎ出し、

その金を目当てに再び人が集まるという好循環を繰り返し、

見る見るうちに大軍閥に成長してゆく。

地域の大軍閥として君臨する張作霖。

小軍閥を吸収して満州の事実上の支配者にのし上がると、

日本とは持ちつ持たれつの関係を保ちながら

満州全体を席巻していく姿勢をみせます。

日本の満州政策は南満州鉄道が基盤に!

ポーツマス条約の締結後、

吉林省・長春以南は南満州鉄道として日本側が管理運営することになり、

鉄道運営や沿線のインフラ整備を行う会社として、

1906年(明治39)に南満州鉄道株式会社(通称・満鉄)が設立されました。


南満州鉄道株式会社の本社跡 (大連市)

      南満州鉄道株式会社の本社跡 (大連市)


1911年10月10日、孫文による辛亥革命が勃発すると、

清朝に代わって中華民国が成立し、孫文の後を引きついだ袁世凱は

満州の支配者になりつつあった張作霖に一目置くようになります。

しかし、袁世凱が1916年に死去すると、

待ってましたとばかりに張作霖は満州の覇権争いに乗り出します。

40万の兵力を擁し奉天軍と名付け

日本側の顔色を窺いながらも北京政権にちょっかいを出し始めたのです。

一方、日本側は1919年(大正8)に関東州(旅順・大連周辺の租借地)の

防衛と満鉄の権益保護のために旅順に関東軍司令部を設置し、

満鉄が行う沿線の町づくりに協力して体制を強化してゆきます。


関東軍司令部跡  大連市旅順区

         関東軍司令部跡 大連市旅順区


満州東3省の地図 1931年頃

        満州東3省の地図 1931年頃


1924年(昭和3)には東3省の人口は3000万人を

越える勢いを見せていました。

張作霖、大元帥に就任。

中華民国の主権者に!

張作霖という人物、いったいどうやって中央政界に打って出たのか。

袁世凱が1916年(大正5)に急死してからは、

中央政権を担う北洋軍閥にまとまりがなくなってしまいます。

すると、北洋軍閥は直隷派と安徽派に分裂し、直隷派の代表、

馮国璋と安徽派の代表、段祺瑞の2大勢力が対立しながら北京政権を担っていました。

そんなところに奉天派を代表する張作霖が顔を出したもんだから、

政権は大混乱に。

3者牽制する中、張は自分が政権を奪取して中国の覇者になろうと、日本を味方につけて優位に立とうと画策します。


紫禁城 北京市

          紫禁城 (北京市)


1924年1月24日、混乱する北京政府を余所に、

孫文は中国国民党第1回大会を広東州・広州で開催したのです。

第1次国共合作と呼ばれるこの大会、

ここで始めて共産党を引き入れた中国国民党が成立し、

軍閥を主体とした北京政府に対抗するため、「北伐」と称して

華北への進攻を宣言しました。

この大会には湖南省を代表して参加していた1人の青年がいました。

その人の名は毛沢東、言わずと知れた将来の中国共産党の指導者でした。


1920年の安直戦争に始まり、

1922年と24年には第1次、2次奉直戦争を経て、

1924年10月23日には馮玉祥が北京政変を起こして孫文に北上を要請すると、

孫文は北京に入り、

北京政府には一時的にせよ統一という一文字が見え始めてきました。

しかし、ここで予想外のことが起こってしまいます。

体調を崩して孫文が急死してしまうのです。

その後は再び軍閥同士の勢力争いに・・・。

孫文の後継者と目された蒋介石は国民革命軍を率いて動き出だします。

1926年7月1日、国民政府は第1次北伐を発表。

と同時に北京を目指して進攻が開始されたのです。(第1次北伐)

張作霖に運が向いてきた!

孫文の死後は奉天派が実権を握りつつ、

張作霖はこれなら「国民革命軍に勝てる」と思ったのか、

自分が中国を統一しようと考え始めました。

それは北上してくる国民革命軍が寄せ集め軍隊だったからです。

北京政府は張作霖の一人舞台に!

蒋介石の国民革命軍は共産党を引き入れていたために、

背後のソ連と共産党の影響を考え、日本政府は張作霖を支援してきました。

この考えは欧米列強にも共通することです。

そんなこともあり、1926年(昭和元年)12月に

張作霖は北京で大元帥に就任。

自らが中華民国の主権者であることを宣言したのです。

ここで、張は将来を見据えて、何かと注文つけて

うるさく言ってくる日本よりも、このところ自分に好意を寄せる

欧米への歩み寄りを優先しようとします。

この辺から張作霖と関東軍との間に確執が見え隠れするようになります。

張作霖の勢いはここまでだった!

蒋介石の国民革命軍が北伐を開始し、

1927年3月に南京を占領したときのことでした。

革命軍の一部の兵隊が日・英・米などの領事館を襲撃する事件が起きます。

南京事件です


新聞 南京事件

 南京事件の記事  1927年(昭和2)3月26日 東京朝日新聞


蒋介石はこの事件を共産党分子の仕業と判断。

国民党内部の共産党勢力の拡大を憂慮し、

また、欧米諸国を味方につけるためにも共産党は排除すべきと決意します。

そして翌月、4月12日に

上海で共産党を弾圧するクーデターを起こしたのです。


新聞 上海クーデター

上海クーデターの記事  1927年(昭和2)4月13日 東京朝日新聞


蒋介石は内部を固めるために北伐の中止を決定。

南京に戻って北京政府とは別に新たな国民政府を樹立したのです。(南京政府樹立)

ここに第1次国共合作は崩壊。

背後に潜む共産主義を排したことで、蒋介石は欧米諸国からの

信任を得ることに成功します。

それに答えるように欧米諸国は、張作霖から蒋介石へ乗り換える姿勢を見せ始めます。

日本の山東出兵!

日本政府は張作霖の援護と居留民保護を名目に

第1次山東出兵を敢行しますが、このときは国民革命軍が山東省に入らなかったために撤兵。

    
新聞 1927年5月29日  第1次山東出兵の記事

           第1次山東出兵の記事 
     1927年(昭和2)5月29日 東京朝日新聞



1928年4月、蒋介石は改めて国民革命軍を改編し、

今度は欧米の指示を取り付けて再び北伐を開始したのです。(第2次北伐)

このとき、日本政府は第2次山東出兵を決めました。

日本軍が山東省の省都、済南城を包囲すると、ちょっとした情報の錯綜で、

日本軍と国民革命軍との間で武力衝突が発生。


5月8日には日本軍が済南市を総攻撃するという済南事件が発生してしまいました。


しかし、城内を占領してみると、そこに国民革命軍の姿はなし。

蒋介石率いる国民革命軍はすでに脱出して北京へ進軍していたのです。

日本軍は無防備な済南市民だけを殺戮するという、

非難こそあれ、益はなし。

中国国民にさらなる抗日・反日の口実を与えてしまう、

とんでもない事件だったのです。

どうしてこんな事件を起こしてしまったのか。

普通なら敵であっても相手は大軍。

軍の移動は察知できたはずなのに・・・。

そんなことがあってか、

蒋介石と日本軍部の中枢とで暗に密約が交わされていたのではないか、

という情報まで飛び交う始末に・・・。

果たして蒋介石との密約はあったのか・・・。


それは、蒋介石が中国統一を成し遂げるのを日本軍は邪魔しない。

それと引き替えに満州へは国民党軍を差し向けないとする条件の取り決めです。


済南城の景色

            済南城の景色 
(超然楼から眺める大明湖と済南市街。 城内で凄まじい日本軍の攻撃がありました)


張作霖の北京脱出が決定!

日本政府は張作霖政権を応援するため山東出兵を計3回繰り返しましたが、

この時の首相が、日露戦争の当時、児玉総参謀長の命令で

張作霖の命を救ったあの田中少佐、政友会の田中義一なのです。

田中首相は張作霖の命を救ったのは自分である。と、

何かにつけて御託を並べる。

何としても生かして再起を図らせようとする首相と、

張作霖は今や不要と判断した関東軍との間に大きな確執が生じていました。

関東軍に不穏な動きが!

この動きを一番心配していたのが宮中の側近たちでした。

元老・西園寺公望を筆頭とする宮中穏健派と呼ばれる陛下の信任が厚い人たちです。

何か事件が起きなければ良いが、と軍部に度々の注意を促していました。

張作霖が中央政権を担って2年4ヵ月が経った今、

張作霖元帥は蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)に追われ、

奉天へ逃げ帰るしか手立てがなくなりました。

帰還する途中で何か異変が起きるのでは・・・。

そんな懸念の中、元帥は安全な飛行機に乗らず、

あえて鉄道を使って帰る手段を選びます。

張作霖元帥ついに北京脱出!

6月2日午後11時、北京・正陽門駅の貴賓室では張作霖元帥が奉天まで帰るまでの警備体制の話し合いが行われていました。


旧・正陽門駅 現在は鉄道博物館になっています (北京市)

 旧・正陽門駅 現在は鉄道博物館になっています (北京市)


1928年(昭和3)6月4日  東京朝日新聞

1928年(昭和3)6月4日 東京朝日新聞



6月3日午前1時、小柄な大元帥は、軍楽隊の演奏と儀仗兵による礼砲に送られ、見送りの人たちと握手を交わして車中の人に・・・。

午前1時20分、張作霖を乗せた20両編成の特別列車は、満天の星空の下、

汽笛を鳴らして北京を後にします。

正陽門を出ると、環城線を使って北京城を一周して京奉線へと入っていきます。そこからは天津、山海関、錦州、新民府、奉天へと続く約750㎞の道程。


北京城の周囲を走る環城線

         北京城の周囲を走る環城線


北京~奉天  鉄道地図

           北京~奉天  鉄道地図


警戒心の強い張作霖は列車を通常通りには運行させませんでした。

天津までは一気に突っ走り、そこで2時間の休憩をとったり、

5本の列車をダミーとして先に行かせるなどして用心を怠りません。

山海関に到着した時は予定時間を大幅に過ぎていました。

ここからはいよいよ満州入りです。

6月4日午前5時30分、張作霖の乗った列車が奉天瀋陽駅から1つ手前の駅、

皇姑屯駅を通過して南満州鉄道との立体交差の陸橋に差し掛かります。



皇姑屯駅(瀋陽市)

        皇姑屯駅(瀋陽市)


張作霖の乗った貴賓車は先頭から8両目、

鮮やかなコバルトブルーの車両が爽快に陸橋に入りかけた時、

その時でした。

「ドドッ、ドカーン」

強烈な爆発音が地響きをともなって、

瞬く間に炎と黒煙が暁暗を破って空に突き上げたのです。

現場は京奉線と満鉄本線が立体交差する陸橋で、

上を満鉄本線が通り、下を京奉線がくぐる形になっていました。

皇姑屯駅と奉天瀋陽駅の中間辺りでした。


爆殺現場の地図 奉天 1928年頃

       爆殺現場の地図 奉天 1928年頃


1928年(昭和3)6月5日 東京朝日新聞

     1928年(昭和3)6月5日 東京朝日新聞


現在の張作霖爆殺現場列車は脱線

       現在の張作霖爆殺現場


列車は脱線。


付近は火薬の匂いと黒煙が充満し、

怒号と銃声が鳴り響く極度の緊張状態になりました。

煙の間から見えてくるのは、焼けただれて外枠だけが残り、

上部の屋根が破壊された無残にも脱線した貴賓車でした。

張作霖大元帥は偶然にも通りかかった奉天軍の憲兵司令車に

乗せられて奉天城へ担ぎ込まれます。

そして帥府からは重体との発表が。

実はこのとき、元帥はすでに死亡していたのではないかとの憶測が・・・


現存する奉天城の城壁

          現存する奉天城の城壁


張氏帥府

          張氏帥府(奉天軍司令部)


新聞は

「南軍便衣隊の仕業か、怪しき支那人捕らわれる」

などど報道しましたが、この事件、だれが見ても関東軍の仕業としか思えませんでした。

事件が落ち着くと、奉天軍からは張作霖の死と、長男の張学良がその跡を引き継ぐことが公表されました。

張作霖爆殺事件は、昭和という時代の幕開けに起きた事件です。

その後の日本の方向性が、この事件によって形づけられたといっても過言ではないでしょう。


3年後の1931年9月18日、満州事変の勃発とともに大日本帝国は中国大陸にどっぷりと足を踏み入れ、

延いては太平洋戦争へと突入してしまうのです。






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満州事変の現場を訪ねて

 1931年(昭和6)9月18日午後10時20分、奉天駅の北東約7、5㎞の地点、

柳条湖付近の南満州鉄道脇で日本の歴史を変える爆音が起こりました。

柳条湖事件です。

柳条湖と言っても湖があるわけでなく、この付近の地名がそうなのです。


柳条湖事件の歴史的現場

          柳条湖事件の歴史的現場


1931年(昭和6)9月19日 東京朝日新聞

      1931年(昭和6)9月19日  東京朝日新聞


張作霖爆殺現場から3㎞ほど北に進んだ所が爆発現場ですが、張作霖爆殺事件から3年が経ち、関東軍は用意周到の末、政府の了解を取らずに独断で決行に踏み切ったのです。

 張作霖爆殺事件では関東軍の挑発に乗らなかった張学良。

柳条湖事件の時は奉天を留守にしており、北京から自軍に対して関東軍には抵抗するなとの号令を出しました。

関東軍の行為を国際連盟に提訴しようと考えたからです。

その為か、関東軍は奉天軍が駐屯する北大営を簡単に占拠しただけでなく、未明には奉天城も攻略、あっという間に奉天市を制圧してしまいました。

そればかりか翌日には長春、営口の各都市を占領、満州全域に攻撃を仕掛けたのです。

占領したからには市政も取って代わらなければならない。

奉天市の臨時市長には関東軍の特務機関長、土肥原賢二大佐を据えるという、電光石火で満州領有の既成事実をつくろうとしました。


満州事変・現場地図想像図

           満州事変・現場地図想像図


柳条湖事件から満州事変へ!

この事件についての列強諸国の反応はどうだったか。

当初のうちは日本政府も局地的な紛争として捉え、また、列強を代表するアメリカのスティムソン国務長官も比較的柔軟な姿勢を示しました。が、

3日後の9月21日、

林銑十郎中将率いる朝鮮軍1万余りが鴨緑江を越えて満州・吉林省へ侵攻した時点でアメリカの態度は激変しました。

パリ不戦条約に反する行為は断固として認めない、と日本政府を糾弾するようになります。

 パリ不戦条約とは、1928年8月にアメリカとフランスが中心となり、国際紛争の解決は戦争ではなく平和的手段に訴えることを約した条約です。

アメリカの国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンによって調印されたのでケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれるこの条約、15ヶ国が参加し、日本もこの条約を批准していたのです。

この条約は現在も続いており、60ヶ国以上の国が調印しています。

ただ、欠点として、国際連盟(現在は国際連合)の制裁として行われる戦争や個別に行う自衛戦争は、この条約の対象から外れてしまうことが後に物議を醸し出すことになります。


1931年(昭和6)9月22日 東京朝日新聞

       1931年(昭和6)9月22日 東京朝日新聞


 林銑十郎中将率いる朝鮮軍部隊は1万を越える大軍でした。

この部隊が他国に侵出したということは、この事態が局地的な事件ではなく国際的な事変へと姿を変えることを意味します。

他国で軍隊を動かすには天皇陛下の裁可が必要。

朝鮮軍の行動は大命を待たずしての行動で、こんなことが許される訳がありませんでした。

その林銑十郎中将が6年後(1937年2月)には首相に就任するわけですから、日本の政治はどうかしていると言われても仕方がない。

戦前の時代でもこんなことがまかり通ったんですね。

でも、この首相、4ヵ月で解散に追い込まれ、期間中に何もしなかったということで「食い逃げ解散」と揶揄されたことも事実でした。


  満州時局地図

    1931年(昭和6)9月23日 東京朝日新聞  満州時局地図

政府や宮中の不拡大方針、軍中央の局地的解決の指示を無視した関東軍の侵攻は、自衛のためと称してどんどん戦線を拡大していきました。

 10月8日には錦州を爆撃、11月18日にはチチハル占領。

1932年(昭和7)1月3日には「万歳」、「万歳」と喚声を上げながら錦州を占領してしまいました。尚も騎虎の勢いは止まらず、ついには熱河省を通り越して万里の長城の東端、山海関にまで日章旗を立ててしまったのです。

 歴史を変える爆音は日中戦争15年の幕開けを意味することになり、延いては太平洋戦争への階段を駆け上るきっかけとさえなってしまいます。

こんなことになるとは、誰が予想し得たでしょうか。

これが自衛戦争として通用するのか、それとも侵略への序曲だったのか。

この問題は、中国が提訴した国際連盟に委ねられることになります。

現在も、この鉄道は中国東北部の南北を走る幹線として使用されています。

この場所で起こった柳条湖事件は、その後の日本をとてつもない方向に進めてしまいました。

歴史の現場に立って当時を振り返ってみましょう。


線路脇に建つ9・18記念館

          線路脇に建つ9・18記念館


9・18事件の記念塔

           9・18事件の記念塔

 
 柳条湖事件は中国側では9・18事件と呼んでいます。

この記念館に入ると、それはそれは悲惨な光景が目に入ってきます。

柳条湖事件から満州事変に至る過程や、翌年に建国された満州国、4年後の華北分離工作に伴う冀東防共自治政府の成立、そして盧溝橋事件へと、日本の中国本土侵出への過程が目を覆いたくなるような表現でアピールされているではありませんか。

中国側の見方である以上、仕方ない面があるにしても、何でこんな事になってしまったのでしょうか。

 記念館の敷地の隅には、日本軍が満州事変を記念して建てたオブジェが見せしめのために投げ捨てられていました。


無造作に横たわる記念碑

           無造作に横たわる記念碑


 暴走する関東軍

日露戦争を勝利した日本はロシアから遼東半島南端部の旅順、大連の2つの港湾、そして軍港を含む約3400k㎡に及ぶ範囲を租借地として、当時の清国の承認を取って継承しました。

日本はこの地域を関東州と名付けて統治し、1919年(大正8)には旅順に関東庁と関東軍司令部を新設して、南満州鉄道付属地とともに満州支配の拠点としたのです。

しかし、日本政府が南満州鉄道(旅順から奉天)や軽便鉄道・安奉線(安東から奉天)に対して、線路の長さ10㎞につき15人の兵隊を駐留するという権利を獲得したり、沿線の付属地では中国人の介入を許さない行政権まで付与させると、鉄道を管理運営する満鉄と、満州の支配を狙う関東軍は切っても切れない関係になっていきます。

満州の面積は日本の約3倍。

人口も3000万人と増える傾向にありました。

遼寧省、吉林省、黒竜江省の東3省から構成され、鉄鉱石、錫、マンガンなどの鉱物資源が豊富で、その資源的魅力は世界から注目を浴びていました。

そんな満州で独自の統治権が確立されれば、当然、その権利を満州全土に拡大したくなるのは帝国主義の性というもの。本土の経済的困窮を考えれば当然の成り行きか。案の定、関東軍には政府や軍中央の指示を無視する傾向が強まり、独立独歩で一人歩きする要素が顕在化してゆくのでした。

 3年前の張作霖爆殺事件では、関東軍の高級参謀、河本大作大佐が首謀者として断定されましたが、河本大佐は、「もし、私を軍法会議にかけるなら、陸軍の謀略をすべて暴露する」

と爆弾発言。

陸軍中央は「これは大変なことだ!」

と関係者一同を穏便な処置ですませてしまいました。

このことも関東軍の増長を促す原因の一つになったんでしょう。

結局、この頃から関東軍は陸軍中央の強硬派と連んで満州の武力占領を考え始めます。

 そこに現れたのが、陸軍きっての秀才と言われた男、関東軍作戦主任参謀として旅順に赴任してきた石原完爾中佐でした。

その後に高級参謀の板垣征四郎大佐が着任し、この2人、政府や陸軍中央の思惑を余所に独断で柳条湖事件を引き起こし、満州事変の立役者となったのです。

      
旅順の関東軍司令部跡

           旅順の関東軍司令部跡


柳条湖事件を画策した石原完爾中佐は、1929年(昭和4)に「満蒙領有計画」なる私見を陸軍中央に提出していました。

満蒙を領有することは中国4億人の民を救うことになるし、それによって日本の国力は養われ、日本の商工業は発展する。

それが日本の生きる道である、と説いたんです。

その理論に幾多の陸軍中央強硬派が共感を持ち、政府の軟弱外交(幣原外相のワシントン会議精神)に反発するかのように板垣・石原ラインが主導して満州事変は引き起こされてしまいました。


さて、このような日本の進路を決定づけるような重大な決断が、関東軍内部でどのようにして決められていったのか。

 ここに面白いエピソードを紹介しましょう。

石原完爾作戦主任参謀が9月18日の作戦決行を板垣征四郎高級参謀に迫ると、板垣高級参謀は事の重大性に躊躇していまい、決断を猶予してしまいます。

翌日、板垣高級参謀は関係者を自室に集め、今度は鉛筆を転がして決めようと言い出す始末に一同は唖然。

それでも六面体の鉛筆は日本の運命を背負って転がったのです。そして出た目は・・・。

この場面を「大日本帝国の轍」6章101ページから引用してみました。


石原は、憤る気持ちを抑えながら念を押した。

「板垣さん、ここまで来て弱気になってどうするんですか。

延期したら終わりですよ。建川少将と話したって何にもなりません。

そもそも満蒙を領有しないでこの地域の安定、平和、延いては日本国の繁栄などあり得ない。

わかっているでしょう。

中国国民党政府は、もともと満蒙などは中国の領土とは考えていなかった。

だから蒋介石だって満蒙問題よりも反共を重視しているのが何よりの証拠です。

孫文にしたって満蒙を金銭で日本に割譲する条件を考えていた。

だから日本政府だってそれを暗黙の了解のもとで彼を援助したんです。

張学良があまりにも満蒙地域に固執するんで、蒋介石だって本当は迷惑しているかもしれない。

満蒙は漢人の国とは歴史的にも違うんですから。

張学良は南満州鉄道に平行した独自の鉄道を建設して満鉄に大打撃を与えようとしている。

排日運動を煽って、何が何でも日本人をこの満蒙の地から追い出そうとしています。

今、叩いておかなければ、満蒙における日本の権益が損なわれることは明白だ。

ロシアだって機械化部隊を育成して満蒙への侵出を狙っている。

満蒙の領有こそ、日本が生きる唯一の道だと私たちは信じているじゃありませんか。

マスコミ対策にしたって、3年前の二の舞はしないということで各新聞社にも根回しをしてきた。

今、まさに、その時が来たんです」 板垣はじっと目を閉じて聞いていたが、それでも最終決断は出来なかった。
「君の言うことはわかっている。しかし、これは日本の運命を変える決断になるんだ。もう少し考えさせてくれ」

翌日、16日の夜、板垣は関係者に再招集をかけた。

今度は石原中佐の他に花谷少佐、今田大尉、松村大尉らの実行部隊も参加した。

決行か中止か、議論は丁々発止となり翌朝未明まで続いた。が、結論は出ない。

ここで、しびれを切らした板垣が突拍子もないことを口にした。

こうなったら「鉛筆を転がして決めようじゃないか」、と言い出したのだ。

これには周囲も驚いた。しかし、時間は刻々と迫ってくる。

結論が出ないのだから仕方がないと思ったのか、渋々と松村大尉が六面体の鉛筆に印をつけ始めた。

しばらくすると、運命の鉛筆が転がった。しかし、出た目は中止の面だった。

この計画、一度は中止と決められ、一同は解散しかかったのである。

でも、今田や松村らの行動派たちが、どうしても諦めきれないでいた。

そうこうしているうちに、「やっぱりやるか」という雰囲気になり、最終的には決行することになった。

石原は、「あとの事はお願いする」と言い残して、関東軍司令部の本庄繁大将を説得するため急ぎ旅順へ戻った。

日本の運命を動かす決断がこんな経緯で決まったとは、ちょっと意外でした。

 ここで満州事変が起こった時代的背景を考えてみましょう!

1 世界から閉め出された日本

第1次世界後の世界経済は急速にブロック化(スターリングブロック、ドルブロック、フランブロックなど)が進み、世界貿易が縮小されてゆく中、蚊帳の外に置かれた日本は世界市場から閉め出されてしまいます。

それが故、海外市場の確保は急務と考えられ、特に満州の利権は日本の生命線と認識されるようになります。


2 日本国内の不況

1930年(昭和5)1月に浜口内閣が実施した金解禁は、日本に強烈なデフレーションを招きました。

当時、アメリカは1920年代を評して永遠の繁栄と高をくくっていましたが、第1次世界大戦で戦場になったヨーロッパが終戦となり、農産物を自国生産してくると、アメリカの輸出は当然の如く激減し、それが祟ってか、ついに1929年(昭和4)10月、ニューヨーク株式市場は大暴落を起こしてしまいます。

世界大恐慌の始まりでした。

日本の農村経済は米と繭の2本柱で成り立っていたため、アメリカ国内の不況が原因で生糸の輸出量は大幅に減り、それに加え米価の下落状態が続くという不運が重ねって、特に東北の農村を中心に大不況に陥ってしまいました。

1年間で生糸は約30%、米は37%の下落という異常なまでの暴落ぶりでした。

農村では来年の収穫を見越して先売りする青田売りや、家族が生きるための口減らし、娘の身売りといった痛ましい様子が現実に起こってしまったのです。

その煽りは都市圏にも波及し、株式市場の暴落、労働争議の増大と中小企業の倒産、大学を卒業しても3分の1が就職さえできない状態が続き、その捌け口を満州に求める国民世論のコンセンサスが出来上がりつつありました。


1932年(昭和7)6月9日  東京朝日新聞

       1932年(昭和7)6月9日 東京朝日新聞


3 万宝山事件

万宝山事件は関東軍が日本領事館と示し合わせて発生した事件でした。

 1931年(昭和6)7月2日、長春の北方30㎞にある万宝の町はずれで、吉林省の間島(従来の移住地)を追われた朝鮮人移住者が開墾のために水路を建設しようとしたところ、地元の中国人農民の反対にあって双方が発砲騒ぎになったという事件です。

 死者が1人も出ていないのに、関東軍は朝鮮人記者を使って800人の移住朝鮮人が中国人農民によって殺されたという記事を捏造させました。

それが原因で朝鮮半島では中国人に対する報復運動が起こり、在朝鮮中国人が100人以上殺されるという大惨事に発展したのです。

関東軍は朝鮮人の反中国感情を最大限に煽り、日本政府の方針を対満蒙積極外交に転換する口実にしたというわけです。


1931年(昭和6)7月7日 東京朝日新聞

        1931年(昭和6)7月7日 東京朝日新聞


万宝山事件の碑

             万宝山事件の碑


万宝の町  長春の北方30㎞にある万宝

        万宝の町  長春の北方30㎞にある万宝の町


4 中村震太郎大尉殺害事件

 陸軍参謀の中村震太郎大尉が1931年(昭和6)の6月中旬、軍属の井杉延太郎氏と通訳兼道案内3名を連れて太興安嶺という山岳地帯を軍用調査していたところ、張学良配下の関玉衛率いる屯墾軍に拘束され、射殺された上に遺体が焼き捨てられるという事件が発生しました。

その時、焼死体は耳がそぎ落とされ、手足が切断されていたというから事態は大きく変貌することになります。

 幣原喜重郎外相はこの事件を外交交渉で結着つけようとしていましたが、それでは埒があかぬ、と踏んだ関東軍は8月17日、旅順の関東軍司令部で当該事件を独断で発表したのです。

現役の日本陸軍参謀が中国軍によって虐殺されたのです。

これが日本の世論に火をつけ、満蒙の確保は日本の生命線であるという意識が蔓延するようになります。

ただ、中村大尉が探索していた太興安嶺は、日本人の立ち入り禁止区域となっていたことは事実です。


1931年(昭和6)8月18日  東京朝日新聞

     1931年(昭和6)8月18日  東京朝日新聞


 これらの要素が重なり合ってか、日本の窮状を打開するには満蒙の確保以外に道はなし、という勝手な空気が関東軍の中に充満していきます。


満州国とリットン調査団

このような状況のもと、9月18日の夜10時20分、南満州鉄道の線路脇で日本の運命を決める爆発が起こったのです。

 夜11時過ぎには長春発の大連行き列車が通過するのはわかっていました。

しがって線路を爆破するわけにはいきません。

線路から少し離れた所を爆発させ、それを奉天軍の仕業と見せかけて奉天軍駐屯地の北大営を急襲、満州全域に戦線を拡大させたのです。

これ、すべて自衛の処置だとして国際世論に訴えたのでした。


北大営跡

              北大営跡


蒋介石率いる国民党も、この事件を黙って見ていたわけではありません。

国際連盟への提訴に始まり、米英を味方につけて頑なに抵抗の意思を見せつけました。

当然、日本も一歩も引くことは出来ない。

双方の駆け引きが列強諸国を巻き込み、国際連盟内は騒然とした雰囲気に包まれます。

そんな中、1932年(昭和7)3月1日、関東軍の主導で満州国が建国され、執政には清朝最後の皇帝だったラストエンペラー、愛新覚羅溥儀が就任したのです。

 満州国の首都が長春(新たに新京と名称変更)になったことで、関東軍司令部も長春(新京)に移転しました。


1932年(昭和7)3月9日  東京朝日新聞

      1932年(昭和7)3月9日  東京朝日新聞



満州国・国務院

             満州国・国務院


 
旧関東軍司令部跡 満州国建国とともに司令部は旅順から新京に移された。(吉林省・長春市)


          旧関東軍司令部(長春)


国際連盟からはリットン調査団(海外の有識者5名で構成、イギリスのリットン卿が主任に選出されます)が派遣され、日本の満州侵攻は自衛として正当なのか、それとも侵略だったのか、果たして満州国は国際的に承認されるのかどうか、正念場を迎えることになります。

 その答えがリットン調査団から出される2週間前のことでした。

1932年(昭和7)9月15日、大日本帝国と満州国との間で日満議定書が取り交わされ、日本は満州をいち早く承認して独立国として認めてしまったのです。


1932年(昭和7)9月16日  東京朝日新聞

    1932年(昭和7)9月16日  東京朝日新聞


そして1932年(昭和7)10月1日、リットン報告書がついに連盟に提出され、2日には世界に向かって公表されたのです。


報告書の内容は、柳条湖事件以後の日本の軍事行動を正当と認めず、満州国も中国人による自発的な独立運動の結果ではないと位置づけ、中国の主権の範囲とした上で、自治政府を樹立することを提言してきたのです。

この条件を日本が承諾するなど、当時の情勢下では天地がひっくり返ったって出来っこありません。

そこで関東軍のとった行動は前進あるのみ、万里の長城に接する熱河省を、満州国へ吸収するための工作を仕掛けることでした。

世界から孤立する日本、満州だけで満足すれば絞れば良かった!


関東軍は、万里の長城を越えて関内作戦と称する軍事行動を実行します。

何と言っても北京の近郊まで攻め上がってしまったのですから、中国人民の反日感情は激昂し、列強の我慢もここまでだったのでしょう。

 1933年(昭和8)2月24日、国際連盟の本部(スイス・ジュネーブ)で総会決議が行われました。

結果は予想通り、日本の主張は認められませんでした。

満州の主権は中国にあるとされ、日本の占領を不服とする決議が、44ヶ国の中、42ヶ国が賛成し、反対は日本の1票のみ、棄権が1票(シャム・現在のタイ)ということで採択されたのです。


1933年(昭和8)2月25日東京朝日新聞

    1933年(昭和8)2月25日 東京朝日新聞

これによって日本は国際連盟を脱退することになります。しかし、ここからが問題でした。


満州国の建国だけで止めておけば良いものを、中国本土に侵出する計画が組まれていたのです。

関東軍はこれらのお膳立てを緻密に行い、自衛処置、緊急避難と大義名分を付けてはその事態を閣議に追認させるという図式を貫き、日中戦争は泥沼の状況下に陥ってしまいます。

 1933年(昭和8)に締結した塘沽停戦協定によって河北省の一部は非武装地帯となり、1935年(昭和10)には、その地に日本の傀儡政権、冀東防共自治政府が成立します。

1937年(昭和12)7月に起きた盧溝橋事件。この事件が日中全面戦争のきっかけとなりますが、その後も上海、南京、武漢三鎮と侵出し、最後は広東、香港へと火の手を上げていきます。

 盧溝橋事件から第2次上海事変と続き、南京を占領する時点で、蒋介石は国民政府の首都を四川省の重慶に遷都しました。

 時政治的には、1938年(昭和13)1月16日に発表された第1次近衛声明といわれる、「爾後(じご)国民政府を相手にせず、真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待し・・・」という声明によって、日中講和への道はすべて閉ざされてしまいます。 

 この声明によって、日本は中国国内で交渉相手をなくしたも同然となってしまいます。


1938年(昭和13年)1月17日  東京朝日新聞

     1938年(昭和13年)1月17日  東京朝日新聞


満州事変から6年が経ち、日本は日中全面戦争という泥沼に足を踏み入れてしまったのです。


結局、1940年(昭和15)3月30日、重慶国民政府を脱退した親日派の汪兆銘による南京国民政府が立ち上がり、日本は満州国だけでなく、中国本土にも大きな傀儡政権を打ち立ててしまいました。これで、いよいよ中国から足を抜けない状況をつくってしまったんですね。

世界から孤立してゆく日本、アメリカとの一大決戦の幕が開きます。


1940年(昭和15)3月31日 東京朝日新聞


     1940年(昭和15)3月31日  東京朝日新聞


1931年(昭和6)9月18日に起きた柳条湖事件。この爆発音が日本の運命を決めたんですね。ここが太平洋戦争への原点だったのではないでしょうか。


柳条湖事件の歴史的現場

            柳条湖事件の歴史的現場





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226事件の現場を訪ねて・ 前編

226事件の背景                                          

世の中が、やれ満州移住だ、天皇機関説はけしからん、国体を明徴化するんだと云々される中で、1935年(昭和10)8月12日、陸軍内部で衝撃的な事件が発生しました。

陸軍省内で統制派のリーダーといわれた軍務局長、永田鉄山少将が、執務室で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されるという前代未聞の事件が起きたのです。

この背景には、陸軍内部に燻る統制派と皇道派の対立に派生した陸軍士官学校事件、それに真崎甚三郎教育総監の更迭問題が絡んでいました。


陸軍省・参謀本部跡地  陸軍省・参謀本部跡地にある国会前庭洋式庭園の一角 (千代田区)



陸軍省・参謀本部跡地
陸軍省・参謀本部跡地にある国会前庭洋式庭園の一角(千代田区)

       
参謀本部跡地  国会前庭洋式公園内にある水準原点

参謀本部跡地  国会前庭洋式公園内にある水準原点(千代田区)
 

大日本帝国と書かれた水準原点の建物
                  
大日本帝国と書かれた水準原点の建物(千代田区)

 

相沢中佐事件  


陸軍士官学校事件は1934年(昭和9)11月20日、皇道派に属する歩兵第26連隊付、村中孝次大尉と、野砲兵第1連隊付、磯部浅一一等主計が突然、憲兵隊に検挙されたことにはじまります。

その理由は、村中、磯部の両名が政府転覆の軍事クーデターを計画しているとの情報が陸軍省にもたらされたからです。

容疑に関しては、陸軍士官学校生徒を動員して、岡田啓介首相、斎藤実内大臣(前首相)、西園寺公望元老らを暗殺、警視庁を襲撃して荒木貞夫、真崎甚三郎両大将を中心とした軍事政権樹立を目指すクーデターと断定されたのです。

しかし、事実はそうではありませんでした。

事の真相は、士官学校の教官となった辻政信大尉が、生徒を囮に使って村中や磯部のもとへ潜入させ、彼らが不穏なクーデターを計画しているかの如く、デッチ上げの報告をさせたことにありました。

村中と磯部は、事件そのものが統制派が仕組んだ罠だと察し、

辻政信や、そのバックである陸軍省軍務局長・永田鉄山の陰謀であると決めつけ、各方面に意見書や嘆願書を出しますが、まったく梨の礫で取り上げてくれないのです。

結局は拘禁されて取り調べを受けた挙げ句、最終的には解職処分となってしまいました。


陸軍士官学校跡  現在は防衛省 (新宿区)

     陸軍士官学校跡  現在は防衛省 (新宿区)


この事件は、士官学校事件とか11月事件といわれますが、陸軍省軍務局長・永田鉄山の息の掛かった辻政信大尉が士官学校教官の立場を利用して、皇道派の急先鋒、村中孝次大尉と磯部浅一一等主計らを追い落とす策略だったといわれています。

それからまもなくのこと、皇道派の重鎮、真崎甚三郎教育総監が更迭されたのです。 

相沢三郎中佐は自他共に認める剣道の達人でした。

陸軍戸山学校時代には剣道の教官をしており、その時、交流した仲間に村中孝次や磯部浅一らがいました。

思考的には、「陛下に対する絶対的なご奉公」を信条とする皇道派のバリバリです。

相沢中佐の言い分は、真崎教育総監更迭問題は統帥権干犯に抵触することであり、

村中、磯部が主犯とされた士官学校事件についても、解職というのは著しく不当で、彼らの無実を訴えたのです。

その根底には政財界が腐敗している昨今、軍の関係者の中には、軍の威光を借りて陛下の軍隊を私兵化している者がいる。

その代表が永田鉄山であるとの認識をもっていました。

台湾転任の前にした8月10日、相沢中佐は広島県福山から上京し、12日の午前9時30分、三宅坂にある陸軍省の門をくぐりました。

 
旧陸軍省正門前通り (千代田区)

       旧陸軍省正門前通り (千代田区)


9時45分、軍務局長の室のドアは開けっ放しになっていました。

相沢中佐は2階の廊下を歩いて局長室の前で止まります。

衝立ごしに中を確認すると、永田軍務局長の他に2人おり、3人で打ち合わせの最中でした。

相沢中佐はまず軍刀を抜き、一呼吸してから息を止め、いきなり部屋に飛び込みました。

「天誅!」

と叫びながら真っ先に永田局長に斬りかかったのです。


1935年(昭和10)8月14日 東京朝日新聞

     1935年(昭和10)8月14日 東京朝日新聞



すべては一瞬の出来事でした。 



永田軍務局長は52歳、相沢三郎中佐は47歳。

局長室に相沢中佐の軍帽が落ちていたので身柄はすぐに憲兵隊に確保されましたが、白昼堂々と、それも陸軍省の軍務局長室で局長を斬殺するという、何ともおぞましい事件でした。



皇道派と統制派の対立



226事件ではよく陸軍の皇道派の青年将校が中心となって引き起こされたといわれますが、

皇道派とはいったいどのような人たちのことを言うのか。

そして統制派とは・・・。

 
陸軍内部に潜む新興勢力としての改革派、その中が2つのグループに分かれ、一つが皇道派でもう一つが統制派です。

特に柳条湖事件が起きた翌月、陸軍の若手将校が中心となって「10月事件」という、未遂に終わったものの軍事政権樹立を目指したクーデターが計画されましたが、この頃から2つのグループは目立って対抗するようになります。


荒木貞夫、真崎甚三郎両大将(柳条湖事件当時は中将)を中心とした皇道派。

それに対し、「10月事件」を中止させた頃から、永田鉄山少将を筆頭に総力戦態勢の確立を目指すのが統制派といわれました。
  
統制派の考えは、軍による統制経済の上で、高度国防国家の観点から財閥や官僚と力を合わせ国家総動員体制を目指すことにあります。

それに対し、皇道派は最終的に総力戦を目指すのは同じでも、その手段が統制派とは大きく違うのです。

あくまでも天皇制を中心とした一君万民の思想による国体至上主義というか、言い換えれば天皇の傍にいて助言をする君側の妖たちを排除し、政財界との癒着を断ち切り、最終的には天皇が大権を発動して、軍部が政治・経済を動かす体制をつくることが目的になっていました。

皇道派のバイブルとなっていたのが、北一輝の執筆した

「日本改造法案大綱」です。

この本の言わんとしていることは、天皇の大権を強調して私有財産の制限と大資本の国有化、すべての資本を国家管理とする国家社会主義革命を説いています。

両派の違いは軍事政権の確立と総力戦態勢づくりは同じであっても、そこに到達するまでの方法論に違いがあります。

ソ連主戦論(皇道派)と中国主戦論(統制派)に分けられるとも言われますが、近代型戦争を手本とする統制派と、天皇を頂点として上下一貫、強い精神的な結束を基本とした古典的タイプの皇道派は、とても相容れられるものではありませんでした。

皇道派青年たちの怒りは頂点に!  

1935年(昭和10)を振り返ると、天皇機関説に始まって2回に及ぶ政府の国体明徴声明、そして相沢事件と、日本が軍国主義に突っ走る姿が浮き彫りになった年と言えます。

また、この年は国号問題が帝国議会で取り上げられ、

日本の国名が正式に「大日本帝国」と統一された年でもありました。

皇道派将校の不法逮捕が問題になった陸軍士官学校事件。

それに続くのが皇道派の重鎮、真崎甚三郎教育総監の更迭問題です。

これには統帥権干犯の疑いがあるとして、皇道派は猛然と抗議をしました。


1935年(昭和10)7月16日  東京朝日新聞

       1935年(昭和10)7月16日  東京朝日新聞                   


ここまで来ると皇道派の怒りはもう尋常ではなく、ついに堪忍袋の緒を切らした1人の愛国の志が出現しました。

相沢三郎中佐です。

相沢事件によって林陸相は辞任。

新たな陸軍大臣として、中立派の川島義之大将が就任します。


935年(昭和10)9月6日  東京朝日新聞

    1935年(昭和10)9月6日  東京朝日新聞  
                    

これら一連の事件に対し、皇道派の青年将校たちは義憤や憂国の念にかられ、機会ある事に皇道派の重鎮たちに面会を求め、意見を交わしては同調を求めました。

そういう行動に、軍部や政府関係者、そして宮中までもが、皇道派の青年将校たちのただならぬ雰囲気に危機感を感じ取っていたのです。


 
ロンドン軍縮条約からの脱退



さて、皇道派の一部の青年将校たちに決起の懸念が高まる中、国際的な問題として世界を揺るがす、さらなる日本を孤立化させる事態が発生しました。

1933年(昭和8)に国際連盟を脱退した日本が、もう一つの世界条約である海軍軍縮条約の本会議から脱退するというニュースが飛び込んできたのです。

1936年(昭和11)1月15日、日本は予備交渉での不調を理由に正式に脱退を表明しました。


1936年(昭和11)1月16日  東京朝日新聞

       1936年(昭和11)1月16日  東京朝日新聞


これで世界は、海軍軍備を自粛制限する時代に終わりを告げ、今度は他国からの干渉を受けることなく自由に海軍力を増強できる、いわゆる健艦競争の時代に突入することになります。

特に日本の場合は、米英に対する戦争への準備が背景にあり、世界における立場はますます孤立、以後、難しい舵取りを迫られることになります。



決起への前段階



陸軍士官学校事件の首謀者と見られた村中孝次と磯部浅一は、1935年(昭和10)8月2日付けで陸軍を免官となり、その後は仲間の青年将校たちと陸軍上層部の反応を探るために数々の幹部と接触していました。

主だった幹部だけでも、川島義之陸軍大臣、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、荒木貞夫、真崎甚三郎両軍事参議官など錚々たる顔ぶれでした。


ここでの問題は、青年将校たちに陸軍の重鎮たちが何れも好感触を示したので、決起に対して彼らが理解を示したものと思い込んでしまったことです。

年が明けた1936年(昭和11)1月20日、皇道派の青年将校たちが多く所属する第1師団に、追い討ちを掛けるように満州派兵の決定が下されました。

この命令に青年将校たちの心は揺れ動きます。

決起、すなわち昭和維新を早めるべきか、それとも断念すべきなのか、意志統一を図るためにも、彼らは皇道派の重鎮たちのところを慌ただしく訪問し始めます。


第1師団司令部跡地  歩兵第1連隊、第3連隊を統括する司令部

第1師団司令部跡地
(歩兵第1連隊、第3連隊を統括する司令部。青山1丁目の交差点から青山霊園に向かう通りに面しています。)現在の青葉公園周辺。



ここで、村中や磯部が皇道派と称される重鎮たちと、どんな話をしていたのでしょうか。



「大日本帝国の轍」176ページに磯部浅一が真崎甚三郎大将宅を訪問した時の様子を書いていますので引用してみましょう。

閣下もご承知のことと存じますが、政府は2度の統帥権干犯をしております。

1930年の第1回ロンドン海軍軍縮条約の調印、そして閣下の更迭問題です。

これはまさに陛下の大権をないがしろにする行為であり、断じて許されるものではありません。

我々としては、これらの諸問題に対して決死的な努力をする所存があります。

相沢中佐の公判も始まりますので、今日はお願いがあって参りました」
 
真崎は、磯部の表情がいつもと違うのに気づいた。

「いいか磯部!決死の覚悟とか、決起などという言葉は軽々しく出してはいかん。前にも言ったが、くれぐれも慎重に、そして冷静に対応することが必要だ。気持ちはわかるが早まったらいかんぞ。で、頼みとは何だ」

磯部は相手の目をじーっと見つめ、

「少し、ご用立て出来ないかと思いまして」

磯部が本気で金を借りようとしたのか、それとも真崎の本心を探ろうとしたのかは定かではない。

しかし、真崎は人を介して金銭面での応援を約束したのである。

この一件が、決起の暁には真崎大将が内閣首班の受け皿になるという風評が伝わり、青年将校たちに自信と勇気が湧き出たことに間違いはない。

この話を聞いた第1師団歩兵第3連隊第6中隊長の安藤輝三大尉は、磯部や村中の情報だけでは、まだ決断する材料が不十分だとして、10人ほどを引きつれて2月上旬、山下奉文少将の自宅を訪ねた。

山下は、彼らを自室に案内すると、

「君らの言わんとすることは、よーくわかる。理もあると思う。士官学校事件は永田一派の小細工にして軍の意図するものではないし、真崎閣下の更迭問題も統帥権干犯だ。統制派が仕組んだものに間違いない」

と言ったもんだから、安藤大尉らの一行は、村中、磯部の見解は、やはり間違っていなかったと再認識し、当然、この話は第1師団の中で最も急進派で知られる歩兵第3連隊第7中隊長の野中四郎のもとにも伝わった。

この一説からもわかるように、青年将校たちは、重鎮たちが決起を認めたものと解釈してしまったところに大きな間違いがあったようです。

青年将校たちの思いはどこにあったのか。

何のために決起、すなわち昭和維新を断行する必要があったのか。

それは偏に天皇陛下がお喜びになると思ったからに他ならない。

その根底には、北一輝が執筆した「日本改造法案大綱」があり、そこで説かれている国家主義的国家改造の必要性を認識していたからです。

国家主義的改造の主旨とは「日本は明治維新によって、天皇と国民が一体となった民主主義国家が実現した。

しかし、現在は財閥や官僚などによって、その一体性が損なわれているのが現状だ。

その原因を取り除くためにも、天皇が指導する国民クーデターが必要であり、天皇は大権を発動して憲法を3年間停止する必要がある。

その後、衆議院と貴族院を解散させて戒厳令を敷き、普通選挙の実地によって国家改造が可能な議会と内閣が誕生する」これらの内容に関し、皇道派の青年将校たちは、この国民クーデターこそが昭和維新であり、それによって初めて軍部が政治と経済を支配する体制がつくれ、日本の窮状を救えるものと信じていました。

しかし、青年将校の頭の中には、1932年(昭和7)に起きた5・15事件で時の総理を暗殺し、実行者に死刑の判決が出なかったのは、昭和維新実行の気概が陛下に伝わったからであり、直々に情状酌量を賜ったものと理解していたのも事実です。

したがって、今回、決起を起こしても、5・15事件と同じように情状酌量が認められると思い込んでいたのです。



226事件発生



1936年(昭和11)2月26日の未明、前夜から降り続く雪の中で、陸軍の一部の決起部隊がクーデターを起こしました。


1936年(昭和11)2月26日  東京朝日新聞

     1936年(昭和11)2月26日  東京朝日新聞  

                        

第1師団の歩兵第1連隊と歩兵第3連隊、それに近衛師団の歩兵第3連隊が加わり、少数ながら陸軍豊橋教導学校、野戦重砲第7連隊などの生徒も混じった総勢1400人余りの反乱でした。


連隊では、下士官によって兵隊たちに非常招集がかけられ実弾が配布されました。

出動目的は都心で起きた暴動鎮圧ということで、全員が靴の内側に3銭切手を貼って一斉決起の午前5時に間に合うように出動したのです。

そんな時、一般の下士官や兵隊たちには本当の目的は知らされていなかったのです。永田町、霞ヶ関界隈を占拠した場合、3銭切手を貼っていない者は通すべからず、という命令だけが下されていました。


皇道派青年将校たちに率いられた下士官・兵約1400人は、午前5時、一斉に目標への攻撃を開始します。

永田町の総理官邸、

赤坂の高橋是清大蔵大臣私邸、

四谷の斎藤実内大臣私邸、

荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸、

麹町の鈴木貫太郎侍従長私邸、

神奈川県湯河原に宿泊していた牧野伸顕前内大臣などを襲撃し陸軍大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部を占拠しました。




襲撃目標



1936年(昭和11)2月27日  東京朝日新聞

    1936年(昭和11)2月27日  東京朝日新聞 


陸軍省周辺地図

            陸軍省周辺地図                              


東宮御所周辺地図

          東宮御所周辺地図




その1  首相官邸襲撃



歩兵第1連隊は、六本木と乃木坂の中間に位置していました。

外苑東通りを六本木から青山方向に向かって右側です。現在の東京ミッドタウンの場所になります。

元は防衛庁でした。


第1師団歩兵第1連隊の跡地

第1師団歩兵第1連隊の跡地
(現在は東京ミッドタウンとなっています。)(港区)


第1連隊に所属する栗原安秀中尉に率いられた291名は雪の降る中、首相官邸を目指して出発しました。

官邸玄関前で撃ち合いになったため、

外の異変に気づいた岡田首相は、青年将校の決起だと咄嗟に感じ、

「やりおったか」

と言って女中部屋に逃げ込み、そのまま押し入れに隠れて時期を待つことにしました。

その間、秘書官で義弟の松尾伝蔵が総理と間違えられて射殺されるという悲劇が起きてしまいました。

総理を殺害したと思った決起部隊は、首相の死亡を発表しますが、

当の首相は30時間以上もじっと押し入れの中で息を潜めていたのです。


旧首相官邸跡

旧首相官邸跡
(現在の首相官邸内に保存建物として残っています。)(千代田区)




その2  高橋大蔵大臣私邸襲撃



赤坂にある近衛歩兵第3連隊、中橋基明中尉に率いられた138名の将兵は、

連隊近くにある高橋是清蔵相私邸へと向かいました。


近衛歩兵第3連隊跡

近衛歩兵第3連隊跡
(現在はTBS・赤坂ビズタワーになっています。)


警備の警官を制圧して屋内に入り、2階で寝ている蔵相を見つけると、中橋中尉は軍刀を抜いて斬りつけ、

その場で射殺してしまいました。

高橋蔵相が目標となったのは、陸軍の予算を削減したのが原因とみられています。


高橋是清大蔵大臣の私邸跡にある銅像

     高橋是清大蔵大臣の私邸跡にある銅像 (港区)


小金井公園内にある「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸


小金井公園内にある「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸(小金井市)


「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸内部

「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸内部。
この部屋で蔵相は刺殺されました。 (小金井市)



その3  鈴木貫太郎侍従長邸襲撃



第1師団歩兵第3連隊は、外苑東通りを挟んで第1連隊とは反対側に位置していました。

その距離はわずかに歩いて5分程度。


歩兵第3連隊跡

歩兵第3連隊跡
現在は、政策研究大学院大学と国立新美術館になっています。(港区)


安藤輝三大尉に率いられた約150人は、麹町区三番町にある鈴木貫太郎侍従長邸を襲いました。

決起部隊は、塀を乗り越えて怒濤の如く乱入し、侍従長に銃弾4発を撃ち込んで立ち去ったのです。

運良く一命は取り止めましたが、4発の銃弾のうち、1発は生涯、体の中に残ったままでした。


千鳥ヶ淵にあった鈴木貫太郎侍従長邸跡


千鳥ヶ淵にあった鈴木貫太郎侍従長邸跡 (千代田区)



その4  斎藤実内大臣私邸襲撃



斎藤内大臣の私邸跡  東宮御所正門前の坂を登り切った所に学習院初等科

斎藤内大臣の私邸跡
東宮御所正門前の坂を登り切った所に学習院初等科がありますが、その裏手に内大臣の私邸がありました。 (新宿区)


時を同じくして、歩兵第3連隊の分隊、坂井直中尉以下約200人は、営門を出て青山1丁目、信濃町、四谷仲町を通って斎藤実内大臣邸に到着。

斎藤実内大臣が襲撃の目標になったのは、天皇の側近たる地位、内大臣にあったからです。

決起部隊は警察官を制圧して室内に乱入。

そこで内大臣を発見すると、

「春子」夫人が横にいて、「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃で狙う青年将校らの前に立ちはだかります。

が、将校らの銃は一斉に火を噴き、斎藤内大臣の体内に40発以上の弾丸を撃ち込んでしまいます。

「春子」夫人も内大臣をかばって腕に貫通銃創を受ける重傷を負ってしまいました。



その5 渡辺錠太郎教育総監私邸襲撃



渡辺錠太郎教育総監の私邸跡

渡辺錠太郎教育総監の私邸跡
荻窪駅から青梅街道を立川方面に向かい、環状八号線を通り越して少し進んでから左に曲がります。
中央線線路にぶつかる手前に教育総監私邸がありました。(杉並区)


斎藤内大臣を襲撃した後、高橋少尉らは30人ほどの下士官兵を引きつれ、トラックで杉並区上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へと向かいました。

外で警官が大声を出すので、飛び起きた渡辺教育総監は、すぐに机の中から拳銃を取って外へ出てみると、決起部隊と警官が撃ち合いになっていました。

総監自身も応戦しますが、衆寡敵せず、急いで部屋へ逃げ込みます。

それを機に決起部隊は玄関から突入し、夫人の「すず」さんが必死で制止するも無視、渡辺教育総監を狙い撃ちしたのでした。



その6 牧野伸顕前内大臣襲撃



湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘(神奈川県・湯河原町)

 湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘(神奈川県・湯河原町)                        

河野寿航空兵大尉に率いられた別働隊8名は、伊豆の湯河原伊藤屋旅館別館・光風莊で静養していた牧野伸顕前内大臣を襲撃しました。

その時、数日前から渋川善助が絹子夫人と牧野前内大臣の動向を探るために伊藤屋旅館本館に宿泊していました。

河野大尉は裏木戸に回って、「電報です」と声をかけると、扉がわずかに開きました。

泊まり込みで警護に当たっていた警官、皆川義孝巡査が中にいたのです。

河野大尉は扉を蹴り破って乱入し、辺りに火を付けると、皆川巡査との間で銃撃戦が展開。

狭い室内なので、奥で異変に気づいた牧野伸顕伯爵は女性用の着物を頭からかぶって、ともに宿泊していた妻子と看護婦を連れて旅館の従業員の手引きで脱出を図りました。

近所の旅館店主が光風荘から煙が出ているというので、地元の消防団が駆け付けつけると、牧野伯爵夫妻らはちょうど外へ出ようと必死で逃げ回っているところでした。

消防団たちは伯爵一行を裏の山に逃がして無事に助けることが出来ましたが、旅館内には銃弾2発を受けて即死した皆川巡査が倒れていました。

5・15事件の時も自宅に手榴弾が投げ込まれ、その時も留守で運良く助かった牧野伸顕伯爵。

狙われたのは、かつて内大臣として天皇の側近であったことと、欧米協調主義を貫いていたことが標的の理由であったといわれています。


光風荘玄関前に設置してある226事件に関する看板

光風荘玄関前に設置してある226事件に関する看板
当時の模様が記されています。 (神奈川県・湯河原町)



後編は、陸軍省一帯と警視庁を占拠した決起部隊に対する天皇の決断。


その結末は如何に! 







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226事件の現場を訪ねて・後編

警視庁を占拠した第3連隊


陸軍省跡地(憲政記念館の庭)から警視庁を望む

     陸軍省跡地(憲政記念館の庭)から警視庁を望む                      


桜田門にある警視庁には、第1師団第3連隊第7中隊長の主犯格、野中四郎大尉に率いられた兵約500人が向かいました。

何でこんなに多くの兵を終結する必要があったのか。

警視庁では最近の不穏な情勢に対処するため、特別警備隊を編成して治安の維持に取り組んでいたので、それが決起部隊には脅威に映っていたからです。

午前5時、警視庁を取り囲んだ決起部隊は一気に中へ突入。

しかし、警視庁では相手が陸軍将校に率いられた軍隊とあっては抵抗しても無駄だと判断し、始めから警察による鎮圧は断念していました。

したがって、決起部隊は抵抗を受けずに占拠し、全館を掌握して一部は屋上に上がって指示を待ちました。


陸軍省・参謀本部・陸相官邸を占拠した決起部隊


陸軍省跡地にある憲政記念館  (千代田区)

陸軍省跡地にある憲政記念館  (千代田区)


参謀本部跡にある水準原点

参謀本部跡にある水準原点
日本に現存する建物で、当時の大日本帝国の文字を残すのはここだけです。            (千代田区)


陸軍大臣官邸、陸軍省、参謀本部は国会議事堂の正面斜め前にあって同じ一角にありました。

午前5時、歩兵第1連隊の丹生誠忠(にうよしただ)中尉の指揮する約170人の部隊がその周囲を囲みました。

丹生中尉を先頭に、香田清貞大尉、村中孝次、磯部浅一らは陸相官邸に突入すると、6時半過ぎに川島義之陸軍大臣が玄関に姿を現しました。

香田大尉が「決起趣意書」なるものをその場で読み上げ、7項目からなる要望書を手渡します。

陸相に昭和維新の断行を迫り、速やかに天皇陛下に奏上してご裁断を仰ぐことを要求します。この時点で、決起した青年将校たちの頭には、真崎甚三郎陸軍大将を首相にしたい考えを持っていましたが、当の本人の意思については確認が取れておらず、了承する確証はなかったのです。

その時、主力部隊は、官邸表門に陣取って裏門と道路を封鎖、陸軍省、参謀本部の各門には機関銃分隊が配備されていました。

「決起趣意書」の差出人は、陸軍歩兵大尉、野中四郎と同志一同と記されており、その内容は、2度に及ぶ統帥権干犯と3月事件の対処への批判、そして血盟団事件、515事件、相沢事件の正当性を述べたものでした。

そして午前8時を過ぎると、真崎甚三郎大将と山下奉文少将が陸相官邸に到着します。

真崎大将は村中や磯部を宥めると、川島陸相には天皇に拝謁することを勧めます。

その後は加藤治海軍大将とともに軍令部総長の伏見宮博恭王宅へと向かいましたが、その目的は天皇に新内閣の組閣と昭和維新の大詔渙発を伏見宮にお願いすることでした。
 
この時点での真崎大将の脳裏には、もし、天皇が新内閣を組閣する気があるのであれば、自分が内閣首班に名乗り出ようとする気持ちがあったのでは・・・。


その頃、宮中では何が起こっていたのでしょうか。


皇居二重橋   正面が鉄橋で、その向こう側が二重橋

皇居二重橋  正面が鉄橋で、その向こう側が二重橋 (千代田区)


鈴木侍従長の妻、「たか」夫人は、兵士たちが出て行った後、医者を手配してもらうために宮中へ電話をかけました。

すると、電話を受けた甘露寺受長侍従は咄嗟の話に仰天し、震えた声で、

「大変なことが起きました」と、天皇陛下に報告したのが5時30分を過ぎた頃でした。

陛下は事情を聞いて、

「とうとうやったか。これは陸軍の反乱である」

と言われ、いつもは平服なのに、この日は大元帥の軍服に身を固めて執務室へ向かわれます。
  
午前9時前、真崎大将の一行が宮中に到着しました。

さっそく伏見宮が新内閣の話を上奏すると、陛下は意外な表情で、 

「宮からそのようなお言葉を聞くとは、これ心外である」

と、機嫌を悪くされ、取り合う隙もありませんでした。

つまり、天皇はこの決起を反乱と決めつけていたのです。

それに輪を掛けたのが川島陸相の言動でした。

9時過ぎに宮中に到着すると、すぐさま天皇に拝謁を許されたまでは良かったのですが、事もあろうに決起部隊が渡した「決起趣意書」を読み上げ、状況の説明に入ったもんだから天皇は激怒。

「何故、そのようなものを読み聞かせるのか。早く反乱部隊を鎮圧せよ」

と一喝される始末でした。
 

2月27日午前3時、戒厳令が施行!                                             



当時の戒厳司令部(当時は軍人会館で、終戦後は九段会館として使用)

当時の戒厳司令部(当時は軍人会館で、終戦後は九段会館として使用)(千代田区)            


午後8時になると、早朝の襲撃時に留守で命拾いした後藤文夫内務大臣が臨時首相に指名され、鎮圧に強い意思を持たれる昭和天皇の意向を背景に、翌27日の午前3時をもって戒厳令を施行することが決まりました。

戒厳司令部は九段の軍人会館に設立され、香椎浩平中将が戒厳司令官に、そして戒厳参謀には、あの満州事変で主役を演じた石原完爾参謀本部作戦課長が任命されました。

しかし、27日になっても、軍上層部は依然として皇軍同士の衝突を避けようと交渉を続けていました。

それでも、天皇の鎮圧の意思は予想以上に固く、軍との唯一の窓口である本庄侍従武官長に、幾度となく鎮圧の動きを問い質すようになります。

それに対し、本庄侍従武官長がしきりに陛下に決起した将校らの精神だけでも汲んでほしいと奏上しますが、陛下は、「股肱の老臣を殺戮する将校の精神を、何で認める必要があるのか!」

と、機嫌を損なわれるだけでした。

27日の午後になって、川島陸相が拝謁に訪れた時も、陛下は強い意思を表明され、決起部隊を鎮圧するよう何度も指示を繰り返されますが、終いには痺れを切らされて、

「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧にあたる。馬を引け!」

と席を立たれる始末に。

これには関係者一同も真っ青。

すぐに止めに入って事なきを得ますが、それだけ事態を収拾できない軍部に対して憤りがあったのでしょう。


2月28日午前5時、大元帥命令発動!


1936年2月28日   東京朝日新聞

    1936年2月28日   東京朝日新聞 



「戒厳司令官は、三宅坂付近を占拠している将校以下を原隊に復帰させよ」との発令が出ました。

この瞬間から、もし退去しない場合、決起部隊は奉勅命令違反によって逆賊となり、反乱軍になってしまいます。

この事件は、この段階で万事休すか。

午後4時、戒厳司令部が武力鎮圧を表明すると、決起部隊の一般兵士たちに動揺が起こります。

それもそのはず、決起部隊1400人といっても、たった数十名の青年将校たちに率いられた部隊です。

下士官や一般兵士のほとんどは目的も何もわからず、ただ連れてこられただけなのですから。


2月29日午前5時、討伐命令が発令!


討伐命令は8時30分に攻撃命令と変わります。

反乱部隊の襲撃に備えるため、愛宕山の日本放送協会には憲兵隊を派遣して警護し、空からはビラが捲かれ、周辺のビルにはアドバルーンが上がります。

ラジオ放送では午前9時、香椎戒厳司令官の名で、「兵に告ぐ」と題した勧告が放送されました。

「勅令が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである・・・」

2機の飛行機からは、赤坂見附周辺にビラが投下され、「下士官兵に告ぐ」という主題で以下の文面が書かれたありました。


1 今からでも遅くはないから原隊へ帰れ。 

2 抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。

3 お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いているぞ。


2月29日 戒厳司令部 



1936年(昭和11)2月29日  東京朝日新聞・号外

1936年(昭和11)2月29日  東京朝日新聞・号外 
                

師団長をはじめとする上官たちは、執拗な説得を何度も繰り返します。

しかし、討伐命令が発せられた以上、陸軍中央は実力行使に出なければなりません。

東京近郊の連隊を続々と周辺に集結させ、戦車隊が音を立てて永田町界隈を走り出すと、一瞬、緊張した空気に包まれますが、天皇陛下が決起軍の行動を認めないのであれば、彼らがそこに留まる理由はありません。

正午過ぎには続々と下士官兵たちは原隊へ帰り始め、これで事件はあっけなく幕引きとなってしまいます。 


青年将校たちへの処分


警視庁を占拠した歩兵第3連隊第7中隊長、野中四郎大尉は陸軍省で自決。

鈴木貫太郎侍従長を襲撃した歩兵第3連隊第6中隊長、安藤輝三大尉は下士官兵に原隊復帰を命じた後、山王ホテルで自決を図りますが失敗。

その他の青年将校たちも午後5時頃までには全員が逮捕され、民間人の北一輝、西田税、渋川善助も同様に逮捕されます。

湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘で牧野伸顕前内大臣を襲撃した河野寿航空兵大尉は、負傷して熱海の陸軍衛戌病院に収容されましたが、3月5日、病院の庭で切腹、6日に死亡しました。


1936年(昭和11)3月11日 東京朝日新聞

   1936年(昭和11)3月11日 東京朝日新聞  


この事件の報道は、皇道派の大将クラスが事件に関与している可能性があるのに、

「不逞の思想家に吹き込まれた、血気盛んな陸軍青年将校たちの暴走」ということで世に公表されました。

裁判は3月4日の緊急勅令によって、代々木の練兵場で4月28日から始まりましたが、戒厳令の解除がされていないために通常の軍法会議ではなく、一審制、非公開、弁護人なし、上告なしという暗黒裁判で行われました。
民間人を含めて125名が起訴され、首謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一、民間人の北一輝、西田税、渋川善助ら19名に死刑が宣告されました。

それに有期禁固54名、無罪47名の判決が下ったのでした。
 
事件の黒幕とされた皇道派の真崎甚三郎大将(前教育総監)は、1937年(昭和12)1月25日、反乱幇助ということで軍法会議で起訴され、論告求刑は禁固13年でしたが、9月25日、証拠不十分で無罪となります。
さらに、青年将校たちに理解を示した皇道派の将官たちも全員が不問となり、この事件のすべてが終了しました。


226事件慰霊塔 渋谷税務署内にある慰霊塔です。

226事件慰霊塔 渋谷税務署内にある慰霊塔です。
当時の銃殺現場がこの辺りといわれています。( 渋谷区)



渋谷のNHK前に渋谷税務署がありますが、その一角に226事件の慰霊塔が建っています。

常に花が手向けられているこの場所、実は代々木練兵場の跡地であり、慰霊塔の周辺で刑が執行されたといわれています。


二十二士の墓」  麻布の賢崇寺

     「二十二士の墓」 麻布の賢崇寺 (港区)


麻布の賢崇寺には、226事件で処刑された人、自ら命を絶った人の「二十二士の墓」が建立されています。この中には、226事件の先駆けとなった相沢三郎中佐も含まれています。


226事件の及ぼした影響


4年前にも、これと同じような事件が起きました。

軍の一部の青年将校、当時は海軍士官が主でしたが、犬養首相を官邸で暗殺し、宮中側近の一部を殺戮しようとした515事件です。

それは、世の中の不況を背景に政財界癒着に対する警鐘と満州への強硬姿勢の貫徹。

政党政治の腐敗と農村を窮乏させた政治への喝、という意味で青年将校たちが個別に参加し、民間人が武器を手配するという、いうなれば「3月事件」や「10月事件」の延長のようなテロ的性格をもったクーデターでした。
これに対し226事件は、首謀者である青年将校たちが、北一輝の執筆した「日本改造法案大綱」に思想的な影響を受け、国家改造を主唱して皇軍としての軍隊を動かし、昭和維新の名目で軍の粛清、天皇を中心とした絶対的軍事政権樹立を目指した本格的なクーデターでした。

それは、20人程度の規模で遂行した515事件に比べれば、1400人もの組織だった軍人が出動し、政府、宮中の要人をことごとく襲撃、殺戮の限りを尽くしたという、日本の歴史上でも例を見ない大規模なものといえます。
 
天皇陛下の股肱の老臣をことごとく殺害し、又は傷つけ、自分たちの真意が陛下に伝わるとでも思っていたのか、その認識自体、理解に苦しむところです。このクーデターは、陛下の逆鱗に触れた時点で、すでに勝負あったと見るべきでしょう。

軍事政権を目指したわりには、首班指名や組閣の内容が不明確だし、1400人もの兵を動かした大がかりなクーデターなのに、革命の緻密性や計画性は杜撰でした。

いくら第1師団の満州移駐が決まって決起を急ぐ必要があったとはいえ、リーダーの不在、皇道派の軍首脳部に対して事前に同意を取り付けていなかったのも腑に落ちません。

それでも、彼らの天皇への忠誠心は厚く、天皇を中心とした軍事政権を純粋に目指していたことは確かです。

いずれにせよ、この事件のあとは陸軍統制派が実権を握り、軍部を中心に戦時体制確立へと軍事国家の基礎が築かれていきます。








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