尼港事件の現場を訪ねて その7
ニコラエフスク空港から市街地に入ると、アムール川沿いに大きな空き地が見えてきます。
そこが日本帝国領事館のあったところです。

右側が領事館跡
道路脇に車を止めて、私たちは敷地内に入って写真を撮ることにしました。
ニコラエフスク資料館元館長のソーニャさん、
娘さんのエレーナさん、
運転手のニコライ、
そしてイーゴリーと
私の5人は、
当時の領事館で起きた出来事について話し合っていました。
イーゴリーが地面に生えている雑草をかきわけると、
建物の基礎がそのまま残っていました。
「まだコンクリートの土台が残っていますね。この場所も当時のままなんですよ」

日本帝国領事館跡地
よく見ると、
確かに建物の基礎部分が残っているではありませんか。
守備隊兵舎では日本隊が武器を捨てて投降したために焼けませんでしたが、
領事館では両者による壮絶な戦いが繰り広げられ、
副領事を含めた邦人全員が自らの命を絶つか、
銃撃戦によって死亡したので建物も焼失してしまったのです。

在りし日の日本帝国領事館
1920年(大正9)1月中旬、
尼港(ニコラエフスク)はトレピーチン率いる赤軍パルチザンに包囲されました。
白系ロシア人による尼港防衛隊は緒戦で赤軍パルチザンに敗北してしまい、
そのあとの治安を日本の尼港守備隊に委ねます。
治安を任された尼港守備隊長の石川正雅少佐は、この日本帝国領事館を本部として下士官を集め、
前回で紹介した赤軍パルチザン本部への急襲を
3月12日の早暁に決行したわけです。
しかし、
石川少佐は無念の戦死。
同胞たちも死闘の末、
守備隊兵舎に逃げ込むか、
帝国領事館に退却するしかありませんした。

石田副領事とご家族の記念写真(ニコラエフスク資料館所蔵)
ところで、
日本隊の急襲を受けたトレピーチンはどうしていたのか。
実は腕に負傷を負い、
危機一髪のところでレベデワを連れて2階の窓から飛び降り、
近所の家に逃げ込み九死に一生を得たのです。
12日の朝10時頃になると、
続々と駆け付けてきた赤軍に守備隊兵舎と日本帝国領事館は猛攻撃を受けることになります。
日本帝国領事館でも当初は200人ほどが抗戦していましたが、
13日の夜が明けると、たったの28人しか生存者はおりませんでした。
ほとんどが撃ち殺されたか、投降したかのどちらかです。
13日の朝、怒ったトレピーチンは赤軍全員に指令を出します。
それは、
「日本人を皆殺しにしろ」
という命令でした。
昼になると、昨日の戦闘で逃げ遅れた兵士や居留民、
そして投降した白系ロシア人たちがアムール川に引きずり出されて残虐な処刑が始まりました。

戦乱で崩壊した当時の尼港(ニコラエフスク資料館所蔵)

日本帝国領事館跡地
いよいよ日本帝国領事館にも赤軍の恐怖が襲いかかってきます。
彼らは副領事に武装解除を強要してきたのです。
しかし、それは死を意味すること。
石田副領事は毅然として拒絶し、その答えは、
「文官といえども武士である」
残った人たちの自害を見とどけた石田副領事は、
妻子を殺害したのち三宅駐在武官と刺し違えて自決するという、
何とも無念の最期を遂げたのでした。

アムール川の川底で発見された日本帝国領事館の看板
(ニコラエフスク資料館所蔵)
さて、領事館の跡地内で元館長ソーニャさんから尼港事件のあらましを聞いていると、
突然、
中央通りから大きな声が・・・。
制服を着た公安らしき2人が
怖い顔して私たちを呼びつけているのです。
何やら容易ならざる事態に全員が顔面蒼白・・・。
元館長が我々一行の代表ということで公安事務所に連れて行かれる始末・・・、
帰ってきたのは何と2時間後でした。
得体の知れぬ数人が、たむろして空き地で写真なんか撮っていると、
こんな羽目に遭うのでしょう。
てっきりスパイ行為とでも思ったのか・・・。
こんなところにも
「ファントム・オブ・ザ・ニコウ」がいたとは、
これから思いやられそうだ。
ソ連が崩壊したとはいえ、まだまだロシアにはお気を付けを!
意気消沈した我々は本日の探索を打ち切り、
暗い気持ちになって各々が帰途に・・・。
明日の桟橋見学は大丈夫かな。
つづく!
大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう
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そこが日本帝国領事館のあったところです。

右側が領事館跡
道路脇に車を止めて、私たちは敷地内に入って写真を撮ることにしました。
ニコラエフスク資料館元館長のソーニャさん、
娘さんのエレーナさん、
運転手のニコライ、
そしてイーゴリーと
私の5人は、
当時の領事館で起きた出来事について話し合っていました。
イーゴリーが地面に生えている雑草をかきわけると、
建物の基礎がそのまま残っていました。
「まだコンクリートの土台が残っていますね。この場所も当時のままなんですよ」

日本帝国領事館跡地
よく見ると、
確かに建物の基礎部分が残っているではありませんか。
守備隊兵舎では日本隊が武器を捨てて投降したために焼けませんでしたが、
領事館では両者による壮絶な戦いが繰り広げられ、
副領事を含めた邦人全員が自らの命を絶つか、
銃撃戦によって死亡したので建物も焼失してしまったのです。

在りし日の日本帝国領事館
1920年(大正9)1月中旬、
尼港(ニコラエフスク)はトレピーチン率いる赤軍パルチザンに包囲されました。
白系ロシア人による尼港防衛隊は緒戦で赤軍パルチザンに敗北してしまい、
そのあとの治安を日本の尼港守備隊に委ねます。
治安を任された尼港守備隊長の石川正雅少佐は、この日本帝国領事館を本部として下士官を集め、
前回で紹介した赤軍パルチザン本部への急襲を
3月12日の早暁に決行したわけです。
しかし、
石川少佐は無念の戦死。
同胞たちも死闘の末、
守備隊兵舎に逃げ込むか、
帝国領事館に退却するしかありませんした。

石田副領事とご家族の記念写真(ニコラエフスク資料館所蔵)
ところで、
日本隊の急襲を受けたトレピーチンはどうしていたのか。
実は腕に負傷を負い、
危機一髪のところでレベデワを連れて2階の窓から飛び降り、
近所の家に逃げ込み九死に一生を得たのです。
12日の朝10時頃になると、
続々と駆け付けてきた赤軍に守備隊兵舎と日本帝国領事館は猛攻撃を受けることになります。
日本帝国領事館でも当初は200人ほどが抗戦していましたが、
13日の夜が明けると、たったの28人しか生存者はおりませんでした。
ほとんどが撃ち殺されたか、投降したかのどちらかです。
13日の朝、怒ったトレピーチンは赤軍全員に指令を出します。
それは、
「日本人を皆殺しにしろ」
という命令でした。
昼になると、昨日の戦闘で逃げ遅れた兵士や居留民、
そして投降した白系ロシア人たちがアムール川に引きずり出されて残虐な処刑が始まりました。

戦乱で崩壊した当時の尼港(ニコラエフスク資料館所蔵)

日本帝国領事館跡地
いよいよ日本帝国領事館にも赤軍の恐怖が襲いかかってきます。
彼らは副領事に武装解除を強要してきたのです。
しかし、それは死を意味すること。
石田副領事は毅然として拒絶し、その答えは、
「文官といえども武士である」
残った人たちの自害を見とどけた石田副領事は、
妻子を殺害したのち三宅駐在武官と刺し違えて自決するという、
何とも無念の最期を遂げたのでした。

アムール川の川底で発見された日本帝国領事館の看板
(ニコラエフスク資料館所蔵)
さて、領事館の跡地内で元館長ソーニャさんから尼港事件のあらましを聞いていると、
突然、
中央通りから大きな声が・・・。
制服を着た公安らしき2人が
怖い顔して私たちを呼びつけているのです。
何やら容易ならざる事態に全員が顔面蒼白・・・。
元館長が我々一行の代表ということで公安事務所に連れて行かれる始末・・・、
帰ってきたのは何と2時間後でした。
得体の知れぬ数人が、たむろして空き地で写真なんか撮っていると、
こんな羽目に遭うのでしょう。
てっきりスパイ行為とでも思ったのか・・・。
こんなところにも
「ファントム・オブ・ザ・ニコウ」がいたとは、
これから思いやられそうだ。
ソ連が崩壊したとはいえ、まだまだロシアにはお気を付けを!
意気消沈した我々は本日の探索を打ち切り、
暗い気持ちになって各々が帰途に・・・。
明日の桟橋見学は大丈夫かな。
つづく!
大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう
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