スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

尼港事件の現場を訪ねて その6

中央通り沿いにあるセンター街から1kmほど空港方面(西方向)に行くと、
右側に赤軍パルチザンの陣地跡が見えてきます。

その一角を右折して100mほど進むと、


イーゴリーが興奮気味に、

「ありましたね! トレピーチンの本部が・・・」

「 この緑の建物がそうです」

赤軍パルチザン本部建物
            パルチザン本部建物

入り口の看板には、当時の様子が書かれてあります。

この建物にもファントム・オブ・ザ・ニコウがいるのではないか

と回りをキョキョロ見渡しますが、その気配はなし。

でも、

何となく怖い・・・。

看板には、1920年3月12日、この本部で11人の勇敢なパルチザン兵士が死亡したと書いてあります。

赤軍パルチザン本部入り口にある看板
        パルチザン本部の看板

そう、
この建物で壮絶なる戦闘が、日本隊(民間人を含む)と赤軍パルチザンとの間で繰り広げられたのです。

1920年2月28日、赤軍パルチザンの隊長、トレピーチンは尼港(ニコラエフスク)の町に革命政府樹立を宣言しました。

これに対し、尼港の治安を託された守備隊長の石川少佐は、帝国領事館に下士官を集めて作戦会議。

そこで出た結論は起死回生の策、赤軍本部への夜襲でした。

しかし、

ここで日本側に大きな問題が発生してしまいます。

1ヵ月前の戦いで海軍の電信設備が破壊されてしまったのです。

したがって、ハバロフスクやウラジオストックの日本軍司令部との交信ができません。

最後の電文が残っています。

「尼港の町は赤軍に包囲され、全員、玉砕で臨む」

当時の日本帝国領事館(ニコラエフスク資料館所蔵)
        日本帝国領事館 (ニコラエフスク資料館所蔵)

乾坤一擲の戦いは、1920年(大正9)3月12日の早暁と決まりました。

日本隊は陸軍守備隊を中心に海軍電信隊、それに義勇軍と自警団、およそ120人の戦士です。

ついにその日がやってきます。

石川隊長以下の70人は正面から、そして50人ほどが裏側に回って合図を待ちます。


「突撃!」

石川隊長の声と同時にドアが蹴破られます。

「続け!」

「タン、タン、タン!」

三八式歩兵銃の乾いた銃声と、投げつけた手榴弾の爆風と閃光。

不意を突かれた赤軍も反撃。

両者の間で凄まじい銃撃戦が展開されました。

しかし、この戦いで石川隊長は胸を打ち抜かれて絶命という不運に・・・。

それでも勇猛果敢に攻め抜く日本隊。

応援に駆け付けてきた赤軍兵士たちとの壮絶な戦いが繰り広げられる中、
時間と共に優劣は否めません。

圧倒的な敵軍に血まみれの敗走を余儀なくされるという事態に陥り、

這々の体で帝国領事館か守備隊兵舎に・・・。

その日本隊の中には20歳に満たない青年や女性の姿もあったといいます。

元館長から話を聞いていたイーゴリーは声を詰まらせ、

「何ていうことだ!」

赤軍パルチザン本部周辺の風景
          赤軍パルチザン本部周辺の風景


これから悲劇の戦場となった日本帝国領事館の跡地へ行ってみましょう。






大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


大日本帝国の轍ホームページはこちら


Copyright©大日本帝国の轍.com All Right Reserved.
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ひじかた そう

Author:ひじかた そう
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。