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西安事件の現場を訪ねて

 
日中戦争の転換点となった西安事件

再起をかけた張学良


熱河省は言わずと知れた芥子(阿片の原料)の産地でした。

満州事変後に起きた日満連合軍による熱河作戦では完膚無きまでに叩きのめされた張学良。

今度は東北軍司令官の役職まで蒋介石から剥奪されるという、その苦悩、恨み、悲しみは到底言葉に表すことの出来ない深い挫折の心中にあったはずです。

結局は阿片に手を出してしまい、その症状は重く自暴自棄に陥っていたところ、阿片中毒の治療をかねてヨーロッパ歴訪のチャンスが舞い込んできました。

張学良はイタリアからヨーロッパへと回り、各国の指導者との面会を済ませて中国に戻ったのが1934年。

そして、翌年の春に西安方面の司令官に任命されると、張学良のもとには昔の部下たちが続々と集まって来て、再び東北軍が結成されるのでした。


当時の熱河省周辺地図

         当時の熱河省周辺地図


蒋介石は西安地域にあった軍閥を17路軍と銘打って国民党配下とし、その司令官の楊虎城と、新しく結成された東北軍の司令官、張学良の2人の司令官に延安攻撃の指令を出し、西安を共産党攻撃の本拠地としました。

この段階で、張学良の頭には何が描かれていたのか。

父軍の陰謀よって殺害(張作霖爆殺事件)され、3年後の1931年9月18日には柳条湖事件を発端に満州事変が勃発し、その後の満州国建国によって東3省すべてを失い、最後の砦と思われた熱河省までが満州国に取り込まれてしまった怨恨は計り知れないほどに膨れ上がっていました。

彼の脳裏には日本に対する復讐の怨念が炎のように燃え上がっていた。

対日共闘でソ連を仲間に引き込もうとしても中ソ紛争による衝突で自分がスターリンに嫌われていることは百も承知。

その上、上司の蒋介石は対日闘争よりも反共を重視し、中華ソビエトの攻略に全勢力を費やして対日対策の話なんか聞く耳も持たないのが現状でした。

張学良は熟慮します。

ここは中国共産党と国民党を同じテーブルにつかせ、12年前に孫文が成しえた国共合作を再現すること。

つまり、第2次国共合作の実現、中国人が共に手を繋ぎ、総力をもって日本に当たることを頭に描き始めます。

そこで彼がとった行動は、共産党の本拠地、延安に行って話をつけることでした。

しかし、共産党の指導者、毛沢東は蒋介石に江西省・瑞金を追われ、長征という多大な犠牲を払って延安に辿り着いたばかりで、蒋介石憎しで頭がいっぱい。

張学良は中国共産党ナンバー2の周恩来に話を持ち込み、西安から自家用飛行機を自ら操縦して何度も足を運びます。


西安付近の地図

           西安付近の地図


しかし、そんな状況下にあるとは露ほども知らない蒋介石。

2人の司令官に延安攻撃の気配がないのは何故なのか。

痺れを斬らした蒋介石は、張学良と楊虎城に造反の噂を耳にした為、その確認も兼ねて1936年(昭和11)12月4日、自ら督戦のために西安へ出向いたのでした。

西安は陝西省の省都です。

古くから漢民族が活躍した中心地で、古代中国の王朝、周の時代から国都が置かれた歴史都市。周では鎬京、秦では咸陽、漢、隋、唐の時代には長安と呼ばれました。

この周辺には当時を偲ばせる遺跡が目白押し。

秦の始皇帝の墳墓に始まり、最近発見された兵馬俑はもとより、唐の時代からある温泉保養地、華清地では当時の温泉が未だに噴出していました。


秦の始皇帝陵

            秦の始皇帝陵


始皇帝陵の一角にある兵馬俑

          始皇帝陵の一角にある兵馬俑


未だに噴出する華清地の温泉

        未だに噴出する華清地の温泉


西安市内は靄がかかり、歴史の重みを尚一層醸し出しています。

その中でも目を見張るものの一つに城壁がありました。

唐の時代には一周36㎞もの城壁が威厳を放ち、100万の人口を誇っていましたが、現在は明代に建て直された周囲14㎞の城壁が残っているだけ。

それとて大層見応えがあるのにびっくりです。


西安市内の一角西安城壁の上から眺めた市内

    西安市内の一角  西安城壁の上から眺めた市内


西安城壁堀に囲まれた城壁 周囲は14㎞もあります。

  西安城壁 堀に囲まれた城壁 周囲は14㎞もあります。


西安城壁の上部

西安城壁の上部
幅が15mもあり、床は石畳になっており、現在はこの上で市民マラソンも行われているとのこと。



この他にも、孫悟空のモデルとなった玄奘三蔵が16年の歳月をかけてインドに学び、657部の教典や仏舎利を携えて帰国した際、仏像や教典を納めるために創建した大雁塔には当時の技術の高さを物語っていました。


夕日を受けて琥珀色に輝く大雁塔

       夕日を受けて琥珀色に輝く大雁塔


玄奘三蔵の銅像

玄奘三蔵の銅像
玄奘の銅像と遠方に見えるのは慈恩寺山門、大雁塔と一列に並んでいます。


危機一髪の蒋介石


蒋介石が宿泊地に選んだのは、唐の時代、玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした温泉保養地、華清地でした。

西安市内から東に25㎞の地点にあり、裏側には秦嶺山脈が連なり、その前山として1300mの高さを誇る驪山が聳えていました。


驪山

驪山  
この碑の向こう側が驪山であり、蒋介石はこの山に逃げ込みまし た。


華清地

華清地
唐の時代、玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした別荘地 


華清地にある楊貴妃の像

         華清地にある楊貴妃の像


蒋介石自身は12月12日には帰る予定でいました。

が、張学良と楊虎城の様子が何となくおかしい、落ち着かないのです。

そんな空気の立ちこめる12月12日の朝、やっぱり事件は起きてしまいました。


華清地・司令部にある蒋介石の執務室

華清地・司令部にある蒋介石の執務室
この部屋の横に寝室があり、そこで張学良の東北軍に襲われます。


朝の5時30分、華清地の敷地内で突如、銃声が鳴り響いたのです。

飛び起きた蒋介石はすぐに反乱だとわかりました。

護衛部隊が銃撃戦を展開している最中、その間隙を縫って裏山の驪山へ逃げ込んだのです。


西安事件の銃弾跡

西安事件の銃弾跡
蒋介石の部屋の外壁に弾痕の跡が残っています。


華清地にある蒋介石の司令部跡

      華清地にある蒋介石の司令部跡


数人の従者を従え、蒋介石は必死で山の麓から急勾配の山肌を登っていきました。
が、49歳になる蒋介石にとってこの難所は酷。

岩場が多くてこれ以上進むことができません。

下の華清地では依然として銃声が鳴り響いています。

半ば諦めて岩肌の踊り場で覚悟を決めていると、下から反乱部隊が追いついてきました。

そこで双方が押し問答となりますが、張学良側も始めから殺す気などはありません。蒋介石を諫めて抗日統一戦線に同意させることが目的だったからです。


驪山の山肌この岩場で蒋介石は張学良軍に身柄を確保されます。

驪山の山肌
この岩場で蒋介石は張学良軍に身柄を確保されます。


蒋介石確保の現場から華清地を望む

        蒋介石確保の現場から華清地を望む


驪山から華清地に連れ戻された蒋介石は、楊虎城によって西安城内にある楊の自宅に移され軟禁されるのでした。

張学良が楊虎城と示し合わせて蒋介石を威嚇、抑留するという、地方の司令官が自分たちの最高司令官を監禁する前代未聞のこの事件、これが西安事件です。


1936年(昭和11)12月13日  東京朝日新聞

   1936年(昭和11)12月13日  東京朝日新聞


第2次国共合作の成立 
(12年ぶり、中国が一致団結して日本に向かう態勢が出来上がります)


張学良が蒋介石の部屋に面会を求めてやってくると、すでに覚悟を決めている蒋介石の卑劣な罵声は凄い迫力をもっていました。

「お前!何てことをしでかしてくれたんだ。こんな事してただで済むと思ってんのか、この馬鹿野郎!これが国民党への裏切りならすぐ俺を殺せ。そして延安へ行って戦いの準備でもしたらいいだろう。その代わり、南京政府だって黙ってないぞ。すぐに何応欽が駆けつけるから見ていろ!」


あまりの迫力に張学良は萎縮。

所詮、蒋介石と張学良では役者が違いました。


それでも、言うべきことは言わなければならない。

張学良は緊張しながら、

「私どもの要求を聞き入れていただけるなら、すべて蒋委員長の言う通りに致します。今は中国人同士で争っている場合ではありません。このままでは、華北も内モンゴルも日本に占領されてしまいますよ。そのうち南京だってどうなるかわかりません。どうか、内戦の停止を第一義にお考えください!」

張学良は、前もって中国共産党と協議しておいた内戦停止や民主化を織り込んだ8項目を要望として突きつけますが、蒋介石は頑なに拒否します。

交渉が難航する中、焦った張学良は12月17日、再び自家用飛行機で延安へ飛びます。

張学良は周恩来に調停を依頼しますが、共産党内の雰囲気はけっして良い雰囲気ではありませんでした。

にも拘わらず周恩来は意を決し、賛否両論のある中、危険を承知で西安に行くことを約束するのです。

そんな空気が漂う中、今度は蒋介石の妻、宋美麗が兄の宋子文に連れられて12月22日に西安入りします。

周恩来と蒋介石の仲を取り持ち、妥協点を見つけるのが目的でした。



西安城内にある張学良の公館現在は西安事件の記念館になっています。

西安城内にある張学良の公館
現在は西安事件の記念館になっています。


周恩来を囲み、張学良、楊虎城、宋美麗、宋子文が内戦中止、政治犯の釈放、民主政治の導入などを巡って、その交渉は丸2日間に及びました。


張学良公館における5人の会議現場

張学良公館における5人の会議現場
周恩来、張学良、楊虎城、宋美麗、宋子文による交渉の様子が蝋人形になっています。


1936年(昭和11)12月20日  東京朝日新聞

   1936年(昭和11)12月20日  東京朝日新聞


西安城内にある張学良の公館跡

西安城内にある張学良の公館跡
現在は西安事変(中国側呼称)の記念館になっています。


その時の焦点が、内戦の中止と第2次国共合作の成立でした。

12月24日、頑なに拒否していた蒋介石は、ついに周恩来と会う約束をします。

周恩来は蒋介石より11歳も年下、この時、38歳です。

実はこの2人、旧知の間柄なのでした。

1924年(大正13)に周恩来がフランス留学から帰国すると、黄埔軍官学校の教官を務めることになりますが、その時の校長が蒋介石でした。

その時点で親密な師弟関係が結ばれていたとしても不思議ではありません。

今回の会議で、中国の将来についてどうあるべきか、膝を交えて話したに違いない。

この事件、結局は8項目に修正が加えられ、蒋介石がほぼ要求を受け入れる形で結着がついたのです。

ここが歴史の転換点だったのか。

日本の侵略に対する中国側の団結、第2次国共合作が成立することになりました。

思い起こせば、12年前の1月20日、、孫文が中国国民党一全大会で第1次国共合作を成し遂げました。

その後、1927年4月12日の蒋介石による上海クーデターで国共合作は脆くも瓦解し、それから9年の歳月が経っていました。

今、中国は再び中国人同士の団結という、思いもよらぬ展開を見せ始めたのです。


歴史の舞台から姿を消した張学良


12月26日、蒋介石は無事に南京空港に戻ってきました。

そこで待っていたのは5000人もの国民党関係者や一般民衆の出迎えでした。

割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がり、名実共に中国の国家指導者として復活した瞬間でした。


1936年(昭和11)12月26日  東京朝日新聞

  1936年(昭和11)12月26日  東京朝日新聞




総統府(国民党本部)にある蒋介石の執務室

    総統府(国民党本部)にある蒋介石の執務室


さて、その後の張学良はどうなったのか。

東北軍の部下たちが引き留めるのを振り切り、逮捕を覚悟で西安を離れる決意をします。

蒋介石に遅れること約1時間、張学良の自家用飛行機は南京に着陸しますが、国家元首を監禁したという罪で軍事裁判にかけられ、その結果は有罪でした。

その後、恩赦で出獄するものの軟禁状態は続き、それ以後、歴史の舞台に顔を出すことはありませんでした。

そして、1949年(昭和24)に蒋介石が台湾へ逃れた際も同行するのです。

張学良は何故、西安に残らなかったのでしょうか。

銃殺刑になるかもしれない南京へ、何で蒋介石の後を追って南京へ行ったのか。

今となっては永遠の謎となってしまいました。






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