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226事件の現場を訪ねて・後編

警視庁を占拠した第3連隊


陸軍省跡地(憲政記念館の庭)から警視庁を望む

     陸軍省跡地(憲政記念館の庭)から警視庁を望む                      


桜田門にある警視庁には、第1師団第3連隊第7中隊長の主犯格、野中四郎大尉に率いられた兵約500人が向かいました。

何でこんなに多くの兵を終結する必要があったのか。

警視庁では最近の不穏な情勢に対処するため、特別警備隊を編成して治安の維持に取り組んでいたので、それが決起部隊には脅威に映っていたからです。

午前5時、警視庁を取り囲んだ決起部隊は一気に中へ突入。

しかし、警視庁では相手が陸軍将校に率いられた軍隊とあっては抵抗しても無駄だと判断し、始めから警察による鎮圧は断念していました。

したがって、決起部隊は抵抗を受けずに占拠し、全館を掌握して一部は屋上に上がって指示を待ちました。


陸軍省・参謀本部・陸相官邸を占拠した決起部隊


陸軍省跡地にある憲政記念館  (千代田区)

陸軍省跡地にある憲政記念館  (千代田区)


参謀本部跡にある水準原点

参謀本部跡にある水準原点
日本に現存する建物で、当時の大日本帝国の文字を残すのはここだけです。            (千代田区)


陸軍大臣官邸、陸軍省、参謀本部は国会議事堂の正面斜め前にあって同じ一角にありました。

午前5時、歩兵第1連隊の丹生誠忠(にうよしただ)中尉の指揮する約170人の部隊がその周囲を囲みました。

丹生中尉を先頭に、香田清貞大尉、村中孝次、磯部浅一らは陸相官邸に突入すると、6時半過ぎに川島義之陸軍大臣が玄関に姿を現しました。

香田大尉が「決起趣意書」なるものをその場で読み上げ、7項目からなる要望書を手渡します。

陸相に昭和維新の断行を迫り、速やかに天皇陛下に奏上してご裁断を仰ぐことを要求します。この時点で、決起した青年将校たちの頭には、真崎甚三郎陸軍大将を首相にしたい考えを持っていましたが、当の本人の意思については確認が取れておらず、了承する確証はなかったのです。

その時、主力部隊は、官邸表門に陣取って裏門と道路を封鎖、陸軍省、参謀本部の各門には機関銃分隊が配備されていました。

「決起趣意書」の差出人は、陸軍歩兵大尉、野中四郎と同志一同と記されており、その内容は、2度に及ぶ統帥権干犯と3月事件の対処への批判、そして血盟団事件、515事件、相沢事件の正当性を述べたものでした。

そして午前8時を過ぎると、真崎甚三郎大将と山下奉文少将が陸相官邸に到着します。

真崎大将は村中や磯部を宥めると、川島陸相には天皇に拝謁することを勧めます。

その後は加藤治海軍大将とともに軍令部総長の伏見宮博恭王宅へと向かいましたが、その目的は天皇に新内閣の組閣と昭和維新の大詔渙発を伏見宮にお願いすることでした。
 
この時点での真崎大将の脳裏には、もし、天皇が新内閣を組閣する気があるのであれば、自分が内閣首班に名乗り出ようとする気持ちがあったのでは・・・。


その頃、宮中では何が起こっていたのでしょうか。


皇居二重橋   正面が鉄橋で、その向こう側が二重橋

皇居二重橋  正面が鉄橋で、その向こう側が二重橋 (千代田区)


鈴木侍従長の妻、「たか」夫人は、兵士たちが出て行った後、医者を手配してもらうために宮中へ電話をかけました。

すると、電話を受けた甘露寺受長侍従は咄嗟の話に仰天し、震えた声で、

「大変なことが起きました」と、天皇陛下に報告したのが5時30分を過ぎた頃でした。

陛下は事情を聞いて、

「とうとうやったか。これは陸軍の反乱である」

と言われ、いつもは平服なのに、この日は大元帥の軍服に身を固めて執務室へ向かわれます。
  
午前9時前、真崎大将の一行が宮中に到着しました。

さっそく伏見宮が新内閣の話を上奏すると、陛下は意外な表情で、 

「宮からそのようなお言葉を聞くとは、これ心外である」

と、機嫌を悪くされ、取り合う隙もありませんでした。

つまり、天皇はこの決起を反乱と決めつけていたのです。

それに輪を掛けたのが川島陸相の言動でした。

9時過ぎに宮中に到着すると、すぐさま天皇に拝謁を許されたまでは良かったのですが、事もあろうに決起部隊が渡した「決起趣意書」を読み上げ、状況の説明に入ったもんだから天皇は激怒。

「何故、そのようなものを読み聞かせるのか。早く反乱部隊を鎮圧せよ」

と一喝される始末でした。
 

2月27日午前3時、戒厳令が施行!                                             



当時の戒厳司令部(当時は軍人会館で、終戦後は九段会館として使用)

当時の戒厳司令部(当時は軍人会館で、終戦後は九段会館として使用)(千代田区)            


午後8時になると、早朝の襲撃時に留守で命拾いした後藤文夫内務大臣が臨時首相に指名され、鎮圧に強い意思を持たれる昭和天皇の意向を背景に、翌27日の午前3時をもって戒厳令を施行することが決まりました。

戒厳司令部は九段の軍人会館に設立され、香椎浩平中将が戒厳司令官に、そして戒厳参謀には、あの満州事変で主役を演じた石原完爾参謀本部作戦課長が任命されました。

しかし、27日になっても、軍上層部は依然として皇軍同士の衝突を避けようと交渉を続けていました。

それでも、天皇の鎮圧の意思は予想以上に固く、軍との唯一の窓口である本庄侍従武官長に、幾度となく鎮圧の動きを問い質すようになります。

それに対し、本庄侍従武官長がしきりに陛下に決起した将校らの精神だけでも汲んでほしいと奏上しますが、陛下は、「股肱の老臣を殺戮する将校の精神を、何で認める必要があるのか!」

と、機嫌を損なわれるだけでした。

27日の午後になって、川島陸相が拝謁に訪れた時も、陛下は強い意思を表明され、決起部隊を鎮圧するよう何度も指示を繰り返されますが、終いには痺れを切らされて、

「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧にあたる。馬を引け!」

と席を立たれる始末に。

これには関係者一同も真っ青。

すぐに止めに入って事なきを得ますが、それだけ事態を収拾できない軍部に対して憤りがあったのでしょう。


2月28日午前5時、大元帥命令発動!


1936年2月28日   東京朝日新聞

    1936年2月28日   東京朝日新聞 



「戒厳司令官は、三宅坂付近を占拠している将校以下を原隊に復帰させよ」との発令が出ました。

この瞬間から、もし退去しない場合、決起部隊は奉勅命令違反によって逆賊となり、反乱軍になってしまいます。

この事件は、この段階で万事休すか。

午後4時、戒厳司令部が武力鎮圧を表明すると、決起部隊の一般兵士たちに動揺が起こります。

それもそのはず、決起部隊1400人といっても、たった数十名の青年将校たちに率いられた部隊です。

下士官や一般兵士のほとんどは目的も何もわからず、ただ連れてこられただけなのですから。


2月29日午前5時、討伐命令が発令!


討伐命令は8時30分に攻撃命令と変わります。

反乱部隊の襲撃に備えるため、愛宕山の日本放送協会には憲兵隊を派遣して警護し、空からはビラが捲かれ、周辺のビルにはアドバルーンが上がります。

ラジオ放送では午前9時、香椎戒厳司令官の名で、「兵に告ぐ」と題した勧告が放送されました。

「勅令が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである・・・」

2機の飛行機からは、赤坂見附周辺にビラが投下され、「下士官兵に告ぐ」という主題で以下の文面が書かれたありました。


1 今からでも遅くはないから原隊へ帰れ。 

2 抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。

3 お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いているぞ。


2月29日 戒厳司令部 



1936年(昭和11)2月29日  東京朝日新聞・号外

1936年(昭和11)2月29日  東京朝日新聞・号外 
                

師団長をはじめとする上官たちは、執拗な説得を何度も繰り返します。

しかし、討伐命令が発せられた以上、陸軍中央は実力行使に出なければなりません。

東京近郊の連隊を続々と周辺に集結させ、戦車隊が音を立てて永田町界隈を走り出すと、一瞬、緊張した空気に包まれますが、天皇陛下が決起軍の行動を認めないのであれば、彼らがそこに留まる理由はありません。

正午過ぎには続々と下士官兵たちは原隊へ帰り始め、これで事件はあっけなく幕引きとなってしまいます。 


青年将校たちへの処分


警視庁を占拠した歩兵第3連隊第7中隊長、野中四郎大尉は陸軍省で自決。

鈴木貫太郎侍従長を襲撃した歩兵第3連隊第6中隊長、安藤輝三大尉は下士官兵に原隊復帰を命じた後、山王ホテルで自決を図りますが失敗。

その他の青年将校たちも午後5時頃までには全員が逮捕され、民間人の北一輝、西田税、渋川善助も同様に逮捕されます。

湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘で牧野伸顕前内大臣を襲撃した河野寿航空兵大尉は、負傷して熱海の陸軍衛戌病院に収容されましたが、3月5日、病院の庭で切腹、6日に死亡しました。


1936年(昭和11)3月11日 東京朝日新聞

   1936年(昭和11)3月11日 東京朝日新聞  


この事件の報道は、皇道派の大将クラスが事件に関与している可能性があるのに、

「不逞の思想家に吹き込まれた、血気盛んな陸軍青年将校たちの暴走」ということで世に公表されました。

裁判は3月4日の緊急勅令によって、代々木の練兵場で4月28日から始まりましたが、戒厳令の解除がされていないために通常の軍法会議ではなく、一審制、非公開、弁護人なし、上告なしという暗黒裁判で行われました。
民間人を含めて125名が起訴され、首謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一、民間人の北一輝、西田税、渋川善助ら19名に死刑が宣告されました。

それに有期禁固54名、無罪47名の判決が下ったのでした。
 
事件の黒幕とされた皇道派の真崎甚三郎大将(前教育総監)は、1937年(昭和12)1月25日、反乱幇助ということで軍法会議で起訴され、論告求刑は禁固13年でしたが、9月25日、証拠不十分で無罪となります。
さらに、青年将校たちに理解を示した皇道派の将官たちも全員が不問となり、この事件のすべてが終了しました。


226事件慰霊塔 渋谷税務署内にある慰霊塔です。

226事件慰霊塔 渋谷税務署内にある慰霊塔です。
当時の銃殺現場がこの辺りといわれています。( 渋谷区)



渋谷のNHK前に渋谷税務署がありますが、その一角に226事件の慰霊塔が建っています。

常に花が手向けられているこの場所、実は代々木練兵場の跡地であり、慰霊塔の周辺で刑が執行されたといわれています。


二十二士の墓」  麻布の賢崇寺

     「二十二士の墓」 麻布の賢崇寺 (港区)


麻布の賢崇寺には、226事件で処刑された人、自ら命を絶った人の「二十二士の墓」が建立されています。この中には、226事件の先駆けとなった相沢三郎中佐も含まれています。


226事件の及ぼした影響


4年前にも、これと同じような事件が起きました。

軍の一部の青年将校、当時は海軍士官が主でしたが、犬養首相を官邸で暗殺し、宮中側近の一部を殺戮しようとした515事件です。

それは、世の中の不況を背景に政財界癒着に対する警鐘と満州への強硬姿勢の貫徹。

政党政治の腐敗と農村を窮乏させた政治への喝、という意味で青年将校たちが個別に参加し、民間人が武器を手配するという、いうなれば「3月事件」や「10月事件」の延長のようなテロ的性格をもったクーデターでした。
これに対し226事件は、首謀者である青年将校たちが、北一輝の執筆した「日本改造法案大綱」に思想的な影響を受け、国家改造を主唱して皇軍としての軍隊を動かし、昭和維新の名目で軍の粛清、天皇を中心とした絶対的軍事政権樹立を目指した本格的なクーデターでした。

それは、20人程度の規模で遂行した515事件に比べれば、1400人もの組織だった軍人が出動し、政府、宮中の要人をことごとく襲撃、殺戮の限りを尽くしたという、日本の歴史上でも例を見ない大規模なものといえます。
 
天皇陛下の股肱の老臣をことごとく殺害し、又は傷つけ、自分たちの真意が陛下に伝わるとでも思っていたのか、その認識自体、理解に苦しむところです。このクーデターは、陛下の逆鱗に触れた時点で、すでに勝負あったと見るべきでしょう。

軍事政権を目指したわりには、首班指名や組閣の内容が不明確だし、1400人もの兵を動かした大がかりなクーデターなのに、革命の緻密性や計画性は杜撰でした。

いくら第1師団の満州移駐が決まって決起を急ぐ必要があったとはいえ、リーダーの不在、皇道派の軍首脳部に対して事前に同意を取り付けていなかったのも腑に落ちません。

それでも、彼らの天皇への忠誠心は厚く、天皇を中心とした軍事政権を純粋に目指していたことは確かです。

いずれにせよ、この事件のあとは陸軍統制派が実権を握り、軍部を中心に戦時体制確立へと軍事国家の基礎が築かれていきます。








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