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226事件の現場を訪ねて・ 前編

226事件の背景                                          

世の中が、やれ満州移住だ、天皇機関説はけしからん、国体を明徴化するんだと云々される中で、1935年(昭和10)8月12日、陸軍内部で衝撃的な事件が発生しました。

陸軍省内で統制派のリーダーといわれた軍務局長、永田鉄山少将が、執務室で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されるという前代未聞の事件が起きたのです。

この背景には、陸軍内部に燻る統制派と皇道派の対立に派生した陸軍士官学校事件、それに真崎甚三郎教育総監の更迭問題が絡んでいました。


陸軍省・参謀本部跡地  陸軍省・参謀本部跡地にある国会前庭洋式庭園の一角 (千代田区)



陸軍省・参謀本部跡地
陸軍省・参謀本部跡地にある国会前庭洋式庭園の一角(千代田区)

       
参謀本部跡地  国会前庭洋式公園内にある水準原点

参謀本部跡地  国会前庭洋式公園内にある水準原点(千代田区)
 

大日本帝国と書かれた水準原点の建物
                  
大日本帝国と書かれた水準原点の建物(千代田区)

 

相沢中佐事件  


陸軍士官学校事件は1934年(昭和9)11月20日、皇道派に属する歩兵第26連隊付、村中孝次大尉と、野砲兵第1連隊付、磯部浅一一等主計が突然、憲兵隊に検挙されたことにはじまります。

その理由は、村中、磯部の両名が政府転覆の軍事クーデターを計画しているとの情報が陸軍省にもたらされたからです。

容疑に関しては、陸軍士官学校生徒を動員して、岡田啓介首相、斎藤実内大臣(前首相)、西園寺公望元老らを暗殺、警視庁を襲撃して荒木貞夫、真崎甚三郎両大将を中心とした軍事政権樹立を目指すクーデターと断定されたのです。

しかし、事実はそうではありませんでした。

事の真相は、士官学校の教官となった辻政信大尉が、生徒を囮に使って村中や磯部のもとへ潜入させ、彼らが不穏なクーデターを計画しているかの如く、デッチ上げの報告をさせたことにありました。

村中と磯部は、事件そのものが統制派が仕組んだ罠だと察し、

辻政信や、そのバックである陸軍省軍務局長・永田鉄山の陰謀であると決めつけ、各方面に意見書や嘆願書を出しますが、まったく梨の礫で取り上げてくれないのです。

結局は拘禁されて取り調べを受けた挙げ句、最終的には解職処分となってしまいました。


陸軍士官学校跡  現在は防衛省 (新宿区)

     陸軍士官学校跡  現在は防衛省 (新宿区)


この事件は、士官学校事件とか11月事件といわれますが、陸軍省軍務局長・永田鉄山の息の掛かった辻政信大尉が士官学校教官の立場を利用して、皇道派の急先鋒、村中孝次大尉と磯部浅一一等主計らを追い落とす策略だったといわれています。

それからまもなくのこと、皇道派の重鎮、真崎甚三郎教育総監が更迭されたのです。 

相沢三郎中佐は自他共に認める剣道の達人でした。

陸軍戸山学校時代には剣道の教官をしており、その時、交流した仲間に村中孝次や磯部浅一らがいました。

思考的には、「陛下に対する絶対的なご奉公」を信条とする皇道派のバリバリです。

相沢中佐の言い分は、真崎教育総監更迭問題は統帥権干犯に抵触することであり、

村中、磯部が主犯とされた士官学校事件についても、解職というのは著しく不当で、彼らの無実を訴えたのです。

その根底には政財界が腐敗している昨今、軍の関係者の中には、軍の威光を借りて陛下の軍隊を私兵化している者がいる。

その代表が永田鉄山であるとの認識をもっていました。

台湾転任の前にした8月10日、相沢中佐は広島県福山から上京し、12日の午前9時30分、三宅坂にある陸軍省の門をくぐりました。

 
旧陸軍省正門前通り (千代田区)

       旧陸軍省正門前通り (千代田区)


9時45分、軍務局長の室のドアは開けっ放しになっていました。

相沢中佐は2階の廊下を歩いて局長室の前で止まります。

衝立ごしに中を確認すると、永田軍務局長の他に2人おり、3人で打ち合わせの最中でした。

相沢中佐はまず軍刀を抜き、一呼吸してから息を止め、いきなり部屋に飛び込みました。

「天誅!」

と叫びながら真っ先に永田局長に斬りかかったのです。


1935年(昭和10)8月14日 東京朝日新聞

     1935年(昭和10)8月14日 東京朝日新聞



すべては一瞬の出来事でした。 



永田軍務局長は52歳、相沢三郎中佐は47歳。

局長室に相沢中佐の軍帽が落ちていたので身柄はすぐに憲兵隊に確保されましたが、白昼堂々と、それも陸軍省の軍務局長室で局長を斬殺するという、何ともおぞましい事件でした。



皇道派と統制派の対立



226事件ではよく陸軍の皇道派の青年将校が中心となって引き起こされたといわれますが、

皇道派とはいったいどのような人たちのことを言うのか。

そして統制派とは・・・。

 
陸軍内部に潜む新興勢力としての改革派、その中が2つのグループに分かれ、一つが皇道派でもう一つが統制派です。

特に柳条湖事件が起きた翌月、陸軍の若手将校が中心となって「10月事件」という、未遂に終わったものの軍事政権樹立を目指したクーデターが計画されましたが、この頃から2つのグループは目立って対抗するようになります。


荒木貞夫、真崎甚三郎両大将(柳条湖事件当時は中将)を中心とした皇道派。

それに対し、「10月事件」を中止させた頃から、永田鉄山少将を筆頭に総力戦態勢の確立を目指すのが統制派といわれました。
  
統制派の考えは、軍による統制経済の上で、高度国防国家の観点から財閥や官僚と力を合わせ国家総動員体制を目指すことにあります。

それに対し、皇道派は最終的に総力戦を目指すのは同じでも、その手段が統制派とは大きく違うのです。

あくまでも天皇制を中心とした一君万民の思想による国体至上主義というか、言い換えれば天皇の傍にいて助言をする君側の妖たちを排除し、政財界との癒着を断ち切り、最終的には天皇が大権を発動して、軍部が政治・経済を動かす体制をつくることが目的になっていました。

皇道派のバイブルとなっていたのが、北一輝の執筆した

「日本改造法案大綱」です。

この本の言わんとしていることは、天皇の大権を強調して私有財産の制限と大資本の国有化、すべての資本を国家管理とする国家社会主義革命を説いています。

両派の違いは軍事政権の確立と総力戦態勢づくりは同じであっても、そこに到達するまでの方法論に違いがあります。

ソ連主戦論(皇道派)と中国主戦論(統制派)に分けられるとも言われますが、近代型戦争を手本とする統制派と、天皇を頂点として上下一貫、強い精神的な結束を基本とした古典的タイプの皇道派は、とても相容れられるものではありませんでした。

皇道派青年たちの怒りは頂点に!  

1935年(昭和10)を振り返ると、天皇機関説に始まって2回に及ぶ政府の国体明徴声明、そして相沢事件と、日本が軍国主義に突っ走る姿が浮き彫りになった年と言えます。

また、この年は国号問題が帝国議会で取り上げられ、

日本の国名が正式に「大日本帝国」と統一された年でもありました。

皇道派将校の不法逮捕が問題になった陸軍士官学校事件。

それに続くのが皇道派の重鎮、真崎甚三郎教育総監の更迭問題です。

これには統帥権干犯の疑いがあるとして、皇道派は猛然と抗議をしました。


1935年(昭和10)7月16日  東京朝日新聞

       1935年(昭和10)7月16日  東京朝日新聞                   


ここまで来ると皇道派の怒りはもう尋常ではなく、ついに堪忍袋の緒を切らした1人の愛国の志が出現しました。

相沢三郎中佐です。

相沢事件によって林陸相は辞任。

新たな陸軍大臣として、中立派の川島義之大将が就任します。


935年(昭和10)9月6日  東京朝日新聞

    1935年(昭和10)9月6日  東京朝日新聞  
                    

これら一連の事件に対し、皇道派の青年将校たちは義憤や憂国の念にかられ、機会ある事に皇道派の重鎮たちに面会を求め、意見を交わしては同調を求めました。

そういう行動に、軍部や政府関係者、そして宮中までもが、皇道派の青年将校たちのただならぬ雰囲気に危機感を感じ取っていたのです。


 
ロンドン軍縮条約からの脱退



さて、皇道派の一部の青年将校たちに決起の懸念が高まる中、国際的な問題として世界を揺るがす、さらなる日本を孤立化させる事態が発生しました。

1933年(昭和8)に国際連盟を脱退した日本が、もう一つの世界条約である海軍軍縮条約の本会議から脱退するというニュースが飛び込んできたのです。

1936年(昭和11)1月15日、日本は予備交渉での不調を理由に正式に脱退を表明しました。


1936年(昭和11)1月16日  東京朝日新聞

       1936年(昭和11)1月16日  東京朝日新聞


これで世界は、海軍軍備を自粛制限する時代に終わりを告げ、今度は他国からの干渉を受けることなく自由に海軍力を増強できる、いわゆる健艦競争の時代に突入することになります。

特に日本の場合は、米英に対する戦争への準備が背景にあり、世界における立場はますます孤立、以後、難しい舵取りを迫られることになります。



決起への前段階



陸軍士官学校事件の首謀者と見られた村中孝次と磯部浅一は、1935年(昭和10)8月2日付けで陸軍を免官となり、その後は仲間の青年将校たちと陸軍上層部の反応を探るために数々の幹部と接触していました。

主だった幹部だけでも、川島義之陸軍大臣、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、荒木貞夫、真崎甚三郎両軍事参議官など錚々たる顔ぶれでした。


ここでの問題は、青年将校たちに陸軍の重鎮たちが何れも好感触を示したので、決起に対して彼らが理解を示したものと思い込んでしまったことです。

年が明けた1936年(昭和11)1月20日、皇道派の青年将校たちが多く所属する第1師団に、追い討ちを掛けるように満州派兵の決定が下されました。

この命令に青年将校たちの心は揺れ動きます。

決起、すなわち昭和維新を早めるべきか、それとも断念すべきなのか、意志統一を図るためにも、彼らは皇道派の重鎮たちのところを慌ただしく訪問し始めます。


第1師団司令部跡地  歩兵第1連隊、第3連隊を統括する司令部

第1師団司令部跡地
(歩兵第1連隊、第3連隊を統括する司令部。青山1丁目の交差点から青山霊園に向かう通りに面しています。)現在の青葉公園周辺。



ここで、村中や磯部が皇道派と称される重鎮たちと、どんな話をしていたのでしょうか。



「大日本帝国の轍」176ページに磯部浅一が真崎甚三郎大将宅を訪問した時の様子を書いていますので引用してみましょう。

閣下もご承知のことと存じますが、政府は2度の統帥権干犯をしております。

1930年の第1回ロンドン海軍軍縮条約の調印、そして閣下の更迭問題です。

これはまさに陛下の大権をないがしろにする行為であり、断じて許されるものではありません。

我々としては、これらの諸問題に対して決死的な努力をする所存があります。

相沢中佐の公判も始まりますので、今日はお願いがあって参りました」
 
真崎は、磯部の表情がいつもと違うのに気づいた。

「いいか磯部!決死の覚悟とか、決起などという言葉は軽々しく出してはいかん。前にも言ったが、くれぐれも慎重に、そして冷静に対応することが必要だ。気持ちはわかるが早まったらいかんぞ。で、頼みとは何だ」

磯部は相手の目をじーっと見つめ、

「少し、ご用立て出来ないかと思いまして」

磯部が本気で金を借りようとしたのか、それとも真崎の本心を探ろうとしたのかは定かではない。

しかし、真崎は人を介して金銭面での応援を約束したのである。

この一件が、決起の暁には真崎大将が内閣首班の受け皿になるという風評が伝わり、青年将校たちに自信と勇気が湧き出たことに間違いはない。

この話を聞いた第1師団歩兵第3連隊第6中隊長の安藤輝三大尉は、磯部や村中の情報だけでは、まだ決断する材料が不十分だとして、10人ほどを引きつれて2月上旬、山下奉文少将の自宅を訪ねた。

山下は、彼らを自室に案内すると、

「君らの言わんとすることは、よーくわかる。理もあると思う。士官学校事件は永田一派の小細工にして軍の意図するものではないし、真崎閣下の更迭問題も統帥権干犯だ。統制派が仕組んだものに間違いない」

と言ったもんだから、安藤大尉らの一行は、村中、磯部の見解は、やはり間違っていなかったと再認識し、当然、この話は第1師団の中で最も急進派で知られる歩兵第3連隊第7中隊長の野中四郎のもとにも伝わった。

この一説からもわかるように、青年将校たちは、重鎮たちが決起を認めたものと解釈してしまったところに大きな間違いがあったようです。

青年将校たちの思いはどこにあったのか。

何のために決起、すなわち昭和維新を断行する必要があったのか。

それは偏に天皇陛下がお喜びになると思ったからに他ならない。

その根底には、北一輝が執筆した「日本改造法案大綱」があり、そこで説かれている国家主義的国家改造の必要性を認識していたからです。

国家主義的改造の主旨とは「日本は明治維新によって、天皇と国民が一体となった民主主義国家が実現した。

しかし、現在は財閥や官僚などによって、その一体性が損なわれているのが現状だ。

その原因を取り除くためにも、天皇が指導する国民クーデターが必要であり、天皇は大権を発動して憲法を3年間停止する必要がある。

その後、衆議院と貴族院を解散させて戒厳令を敷き、普通選挙の実地によって国家改造が可能な議会と内閣が誕生する」これらの内容に関し、皇道派の青年将校たちは、この国民クーデターこそが昭和維新であり、それによって初めて軍部が政治と経済を支配する体制がつくれ、日本の窮状を救えるものと信じていました。

しかし、青年将校の頭の中には、1932年(昭和7)に起きた5・15事件で時の総理を暗殺し、実行者に死刑の判決が出なかったのは、昭和維新実行の気概が陛下に伝わったからであり、直々に情状酌量を賜ったものと理解していたのも事実です。

したがって、今回、決起を起こしても、5・15事件と同じように情状酌量が認められると思い込んでいたのです。



226事件発生



1936年(昭和11)2月26日の未明、前夜から降り続く雪の中で、陸軍の一部の決起部隊がクーデターを起こしました。


1936年(昭和11)2月26日  東京朝日新聞

     1936年(昭和11)2月26日  東京朝日新聞  

                        

第1師団の歩兵第1連隊と歩兵第3連隊、それに近衛師団の歩兵第3連隊が加わり、少数ながら陸軍豊橋教導学校、野戦重砲第7連隊などの生徒も混じった総勢1400人余りの反乱でした。


連隊では、下士官によって兵隊たちに非常招集がかけられ実弾が配布されました。

出動目的は都心で起きた暴動鎮圧ということで、全員が靴の内側に3銭切手を貼って一斉決起の午前5時に間に合うように出動したのです。

そんな時、一般の下士官や兵隊たちには本当の目的は知らされていなかったのです。永田町、霞ヶ関界隈を占拠した場合、3銭切手を貼っていない者は通すべからず、という命令だけが下されていました。


皇道派青年将校たちに率いられた下士官・兵約1400人は、午前5時、一斉に目標への攻撃を開始します。

永田町の総理官邸、

赤坂の高橋是清大蔵大臣私邸、

四谷の斎藤実内大臣私邸、

荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸、

麹町の鈴木貫太郎侍従長私邸、

神奈川県湯河原に宿泊していた牧野伸顕前内大臣などを襲撃し陸軍大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部を占拠しました。




襲撃目標



1936年(昭和11)2月27日  東京朝日新聞

    1936年(昭和11)2月27日  東京朝日新聞 


陸軍省周辺地図

            陸軍省周辺地図                              


東宮御所周辺地図

          東宮御所周辺地図




その1  首相官邸襲撃



歩兵第1連隊は、六本木と乃木坂の中間に位置していました。

外苑東通りを六本木から青山方向に向かって右側です。現在の東京ミッドタウンの場所になります。

元は防衛庁でした。


第1師団歩兵第1連隊の跡地

第1師団歩兵第1連隊の跡地
(現在は東京ミッドタウンとなっています。)(港区)


第1連隊に所属する栗原安秀中尉に率いられた291名は雪の降る中、首相官邸を目指して出発しました。

官邸玄関前で撃ち合いになったため、

外の異変に気づいた岡田首相は、青年将校の決起だと咄嗟に感じ、

「やりおったか」

と言って女中部屋に逃げ込み、そのまま押し入れに隠れて時期を待つことにしました。

その間、秘書官で義弟の松尾伝蔵が総理と間違えられて射殺されるという悲劇が起きてしまいました。

総理を殺害したと思った決起部隊は、首相の死亡を発表しますが、

当の首相は30時間以上もじっと押し入れの中で息を潜めていたのです。


旧首相官邸跡

旧首相官邸跡
(現在の首相官邸内に保存建物として残っています。)(千代田区)




その2  高橋大蔵大臣私邸襲撃



赤坂にある近衛歩兵第3連隊、中橋基明中尉に率いられた138名の将兵は、

連隊近くにある高橋是清蔵相私邸へと向かいました。


近衛歩兵第3連隊跡

近衛歩兵第3連隊跡
(現在はTBS・赤坂ビズタワーになっています。)


警備の警官を制圧して屋内に入り、2階で寝ている蔵相を見つけると、中橋中尉は軍刀を抜いて斬りつけ、

その場で射殺してしまいました。

高橋蔵相が目標となったのは、陸軍の予算を削減したのが原因とみられています。


高橋是清大蔵大臣の私邸跡にある銅像

     高橋是清大蔵大臣の私邸跡にある銅像 (港区)


小金井公園内にある「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸


小金井公園内にある「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸(小金井市)


「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸内部

「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸内部。
この部屋で蔵相は刺殺されました。 (小金井市)



その3  鈴木貫太郎侍従長邸襲撃



第1師団歩兵第3連隊は、外苑東通りを挟んで第1連隊とは反対側に位置していました。

その距離はわずかに歩いて5分程度。


歩兵第3連隊跡

歩兵第3連隊跡
現在は、政策研究大学院大学と国立新美術館になっています。(港区)


安藤輝三大尉に率いられた約150人は、麹町区三番町にある鈴木貫太郎侍従長邸を襲いました。

決起部隊は、塀を乗り越えて怒濤の如く乱入し、侍従長に銃弾4発を撃ち込んで立ち去ったのです。

運良く一命は取り止めましたが、4発の銃弾のうち、1発は生涯、体の中に残ったままでした。


千鳥ヶ淵にあった鈴木貫太郎侍従長邸跡


千鳥ヶ淵にあった鈴木貫太郎侍従長邸跡 (千代田区)



その4  斎藤実内大臣私邸襲撃



斎藤内大臣の私邸跡  東宮御所正門前の坂を登り切った所に学習院初等科

斎藤内大臣の私邸跡
東宮御所正門前の坂を登り切った所に学習院初等科がありますが、その裏手に内大臣の私邸がありました。 (新宿区)


時を同じくして、歩兵第3連隊の分隊、坂井直中尉以下約200人は、営門を出て青山1丁目、信濃町、四谷仲町を通って斎藤実内大臣邸に到着。

斎藤実内大臣が襲撃の目標になったのは、天皇の側近たる地位、内大臣にあったからです。

決起部隊は警察官を制圧して室内に乱入。

そこで内大臣を発見すると、

「春子」夫人が横にいて、「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃で狙う青年将校らの前に立ちはだかります。

が、将校らの銃は一斉に火を噴き、斎藤内大臣の体内に40発以上の弾丸を撃ち込んでしまいます。

「春子」夫人も内大臣をかばって腕に貫通銃創を受ける重傷を負ってしまいました。



その5 渡辺錠太郎教育総監私邸襲撃



渡辺錠太郎教育総監の私邸跡

渡辺錠太郎教育総監の私邸跡
荻窪駅から青梅街道を立川方面に向かい、環状八号線を通り越して少し進んでから左に曲がります。
中央線線路にぶつかる手前に教育総監私邸がありました。(杉並区)


斎藤内大臣を襲撃した後、高橋少尉らは30人ほどの下士官兵を引きつれ、トラックで杉並区上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へと向かいました。

外で警官が大声を出すので、飛び起きた渡辺教育総監は、すぐに机の中から拳銃を取って外へ出てみると、決起部隊と警官が撃ち合いになっていました。

総監自身も応戦しますが、衆寡敵せず、急いで部屋へ逃げ込みます。

それを機に決起部隊は玄関から突入し、夫人の「すず」さんが必死で制止するも無視、渡辺教育総監を狙い撃ちしたのでした。



その6 牧野伸顕前内大臣襲撃



湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘(神奈川県・湯河原町)

 湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘(神奈川県・湯河原町)                        

河野寿航空兵大尉に率いられた別働隊8名は、伊豆の湯河原伊藤屋旅館別館・光風莊で静養していた牧野伸顕前内大臣を襲撃しました。

その時、数日前から渋川善助が絹子夫人と牧野前内大臣の動向を探るために伊藤屋旅館本館に宿泊していました。

河野大尉は裏木戸に回って、「電報です」と声をかけると、扉がわずかに開きました。

泊まり込みで警護に当たっていた警官、皆川義孝巡査が中にいたのです。

河野大尉は扉を蹴り破って乱入し、辺りに火を付けると、皆川巡査との間で銃撃戦が展開。

狭い室内なので、奥で異変に気づいた牧野伸顕伯爵は女性用の着物を頭からかぶって、ともに宿泊していた妻子と看護婦を連れて旅館の従業員の手引きで脱出を図りました。

近所の旅館店主が光風荘から煙が出ているというので、地元の消防団が駆け付けつけると、牧野伯爵夫妻らはちょうど外へ出ようと必死で逃げ回っているところでした。

消防団たちは伯爵一行を裏の山に逃がして無事に助けることが出来ましたが、旅館内には銃弾2発を受けて即死した皆川巡査が倒れていました。

5・15事件の時も自宅に手榴弾が投げ込まれ、その時も留守で運良く助かった牧野伸顕伯爵。

狙われたのは、かつて内大臣として天皇の側近であったことと、欧米協調主義を貫いていたことが標的の理由であったといわれています。


光風荘玄関前に設置してある226事件に関する看板

光風荘玄関前に設置してある226事件に関する看板
当時の模様が記されています。 (神奈川県・湯河原町)



後編は、陸軍省一帯と警視庁を占拠した決起部隊に対する天皇の決断。


その結末は如何に! 







大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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