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日露戦争の現場を訪ねて その2 奉天会戦とその後

旅順要塞の攻略が終わっても、日露戦争の決着はつきませんでした。

旅順要塞を占領されたクロパトキン大将率いるロシア満州軍は、

「戦略的撤退」

と銘打って奉天へと退却を開始しました。

この段階に至っても、ロシアはシベリア鉄道を経由して

続々と援軍を送り込んでくる余力があったのです。

1905年(明治38)1月下旬、日本軍は旅順から奉天を目指して北上を開始します。

いよいよナポレオン戦争以来の地上戰、

双方合わせて55万の兵力が激突する

という陸上での史上最大の戦い、奉天会戦の火蓋が切られるのです。


1932年頃の絵はがき

   瀋陽駅(旧奉天駅) 1932年頃の絵はがき


奉天会戦の結果はどうなったのでしょうか!

日本軍は総力で25万。

迎え撃つロシア軍は30万。

両軍合わせての一大決戦です。


乃木大将率いる第3軍がロシア軍の右翼、鴨緑江軍がロシア軍の左翼を狙い、

第1軍、第2軍、第4軍は正面から奉天を攻撃する計画です。

1905年(明治38)の3月1日、

日本軍の総攻撃で奉天会戦は開始されました。

その範囲は60㎞以上に及ぶ広域戰となります。

1904年2月からの開戦以来、1年間で日本軍は多大な犠牲を払ってきましたが、その状況は人員的な面だけでなく、財政的にも負担が響いて、これ以上の戦争継続が難しくなっていました。

しかし、ロシア側はバルチック艦隊が日本へ向けて航行中だし、今、ここで講和に乗る状況ではありません。

こうした事情から、日本の首脳陣は、一刻も早くロシア軍の主力を撃破して

相手の戦争能力にダメージを与え、

講和への道を切り開かねばならなかったのです。

結果は日本軍の逆転勝利、辛勝か!

塹壕を掘って日本軍を迎え撃つロシア軍。

包囲網を徐々に狭めていく日本軍。

その白兵戦は凄まじいものとなりました。

特に正面攻撃の第1軍、第2軍、第4軍が苦戦し、

総攻撃の初日だけで第2軍に約5千人の損害が出ました。

奉天会議における両軍配置図

         奉天会戦における両軍の配置図


ロシア軍がやや優勢で展開される中、3月9日のことでした。

突然とロシア軍が後方に退却を始めたのです。

これには日本軍の方が驚きました。

3月10日の夜、日本軍が奉天の町に入城することで、奉天会戦は終了しますが、日本軍としては兵力的にも経済的にもすでに限界にきており、

ロシア軍を追撃する余裕などありませんでした。

クロパトキン大将は、この決断によって満州軍総司令官を罷免されますが、

何故、優位な立場であるのに後方に退く命令を出したのか。

よく考えてみると、

これはロシアの伝統的な作戦だったのです。

ナポレオン戦争の時もそうでした。

後方に退くことで敵を懐奥まで誘い込み、疲弊させて最終的に勝利を導くという、戦略的撤退といってロシアの常套手段だったのです。

しかし、ロシア本国では、

そんな悠長なことはやってられない状況が発生していました。

民衆の経済的困窮からデモが相次ぐという、

ロシア政府も冷静な視点で受け止める余裕などなくなっていたのです。

1905年の1月9日には首都・ペテルブルグで労働者が立ち上がり、

日露戦争の中止、基本的人権の確立などを掲げて

ニコライ2世に直訴するというデモがありました。

その時、軍隊が非武装のデモ隊に発砲するという事件が発生。

世に言う「血の日曜日事件」です。

このように、ロシア国内で社会不安が増大している中、

奉天会戦での撤退を伝統的撤退などと言ってはおれず、

したがってクロパトキン大将の更迭は当然の措置だったのかも。

奉天会戦での両国の損害は、

死者だけでも日本側が1万6千人ロシア側が9千人という膨大な数字になり、負傷者に至っては日本側が6万人
ロシア側は5万人
という大激戦でした。


日本は旅順攻略から奉天会戦に至るまで相次ぐ勝利を重ねたものの、

常備兵員が20万人と言われる中、100万人以上の兵力を動員せざるを得ない総力戦は、すでに国力の限界に達し、あまつさえ戦費のほとんどは戦時国債でまかなうという苦しい状況では、これ以上の戦争の継続は困難でした。

この結果を受けて、


日本政府はアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト和平交渉の斡旋を依頼しますが、


ロシア政府は間もなく日本海に接近するバルチック艦隊に最後の望みを託しており講和を拒否します。

いずれにしても陸上での戦いは奉天会戦をもって終了し、あとは艦隊決戦にすべてを託すだけとなります。


今の奉天はどうなっているのでしょうか。


当時の奉天は瀋陽と名を変え、中国国内でも目覚ましい発展を遂げています。

日露戦争の激戦地の一つ、現在の瀋陽にこれから行ってみましょう。

大連から瀋陽までの距離は約380㎞。

列車は瀋陽へ向けて発車しました。


大連駅構内(1)

            大連駅構内


大連駅構内(2)

             大連駅構内


大連駅構内 遼東半島を南北に走る鉄道は、当初、ロシアが清より租借して東清鉄道と名付けました。

旅順・大連から奉天、長春を経て哈爾浜へ。

そこからは満州北部を通ってシベリア鉄道のチタまで連結しています。


車窓の景色

            車窓の景色


ロシアの時代が東清鉄道。

1905年のポーツマス条約によって大連から長春までの区間は

ロシアに代わって日本が清より租借し、南満州鉄道と名付けました。

その後、辛亥革命で長春以北は中東鉄道と名を変え、満州国が成立すると、今度はソ連から全線を買い取って北満鉄道と名を変えます。


革山駅に近づくと、煙突が見え始める。

       (鞍山駅に近づくと、煙突が見え始めた)


列車は鞍山に到着しました。


革山駅ホーム

             鞍山駅ホーム


鉄鉱石の産地でもあり、満州国時代は満鉄が鉄の生産を一手に引き受け、

当時は鉄鋼技術者を中心に日本人が多く住んでいたところです。

鞍山の次はいよいよ遼陽ですが、この列車は特急なので止まりません。

この一帯は遼陽会戦が繰り広げられた場所で、その中でも首山堡の戦いは歴史に残る激戦でした。

両軍の主力がはじめて激突したのが遼陽会戦。

ロシア軍20万人が展開する防御陣地に15万人の日本陸軍が挑んだ激戦です。

日本軍にとっては近代陸軍を相手にした始めての衝突でした。


両軍合わせて4万人以上の死傷者が出たのです。


首山峰が窓越しに見えてきました。

あれが首山峰か!



車窓から見る首山峰

           車窓から見る首山峰


列車は瀋陽北駅に到着!

さすがに瀋陽は大きいですね。

瀋陽北駅は新しい駅ですが、再開発が進み、この一帯は新しい開発地区として発展を遂げています。


これが昔の奉天駅か!


現在の瀋陽駅(旧奉天駅)

          現在の瀋陽駅(旧奉天駅)


瀋陽駅(旧奉天駅)を見ると、まるで東京駅にそっくりではありませんか。

でも、それもそのはず、当時の満鉄と関東軍が協力して東京駅を真似てつくったというのだからあたりまえか。


旧奉天大広場(中山広場)

          旧奉天大広場(現中山広場)


大連大広場と並んで比べられるのが、現・中山大広場(奉天大広場)です。

毛沢東の像が北京を指さして立っていますが、

広場の大きさは当時のままだそうです。


旧千代田公園(中山公園)

          旧千代田公園(中山公園)


当時の千代田公園は中山公園と名を変えても、今もその姿は昔のまま。

満州時代の給水塔がその面影を残しています。

107年前、この一帯で両軍合わせて55万の兵たちが死闘を繰り広げたんですね。それを思うと感慨も一入です。


奉天会戦のその後は?

三国干渉の雪辱を果たす!



1905年(明治38)5月27日、7ヵ月に及んだ航海の末にバルチック艦隊は日本海に姿を現しました。


旅順港を基地としていたロシア太平洋艦隊は、日本陸軍の旅順要塞攻撃によって湾外に出ることは出来ません。

日本海を舞台にしたロシア・バルチック艦隊と日本帝国連合艦隊の激突、まさに雌雄を決する戦いでした。

結果は欧米列国の予想を覆し、バルチック艦隊がほとんどの艦船を失うという惨敗で幕引き。

ロシア司令長官までもが捕虜に

なるという近代海戦史上、例を見ない

日本帝国連合艦隊の圧勝で終わったのです。

頼みの綱と見られたバルチック艦隊の完敗は、ロシア政府を講和に引き込むきっかけとなり、9月5日、セオドア・ルーズベルト大統領の仲介でアメリカ東部の港湾都市、ポーツマスで日露間での講和条約が締結されました。

その結果、賠償金は取れなかったものの、10年前の日清戦争での苦い経験、

遼東半島を返還した三国干渉の借りを返すという雪辱を果たしたのは大きな成果でした。

旅順・大連から長春までの東清鉄道は南満州鉄道と名を変え、

その後の満州進出への足がかりとなってゆくのは周知の通りです。


その代償は?


日露戦争は1904年(明治37)の2月8日の仁川上陸に始まり、

1905年(明治38)9月5日の講和条約まで約1年半の戦いでした。

戦争に勝利したとは言え、


日本軍の戦死者は8万8千人

病死者は2万7千人

負傷者は何と15万人

という莫大な数字で、合わせて26万5千人

という途方もない犠牲を払ってのことでした。

それに比べてロシア側の損害は、

戦死者だけなら日本側の40%というから

日本軍の消耗の程度がわかります。


大日本帝国は日露戦争で獲得した様々な利権によって、その後は満州の開発を促進し、やがては大東亜戦争へと階段を上り詰めてしまうのです。








大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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