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日露戦争の現場を訪ねて その1 203高地の攻防戦

2011年の8月、日露戦争の激戦地の一つである旅順要塞、203高地を訪ねてみました。

あの山が203高地か


203高地を望む

          203高地を望む


想像していた「はげ山」と違い、樹木が生い茂っているのにまずはびっくり。

でも、あれから107年も経っているのだからあたりまえか。

旅順港は中国海軍の基地になっているので、

それを見下ろす203高地は長い間立ち入り禁止区域となっており、

20年くらい前から観光が許可されたそうです。

203高地へ入る案内看板

       203高地へ入る案内看板


203高地入り口に建つ石造りの案内オブジェ

     203高地入り口に建つ石造りの案内オブジェ



203高地の入り口には、写真のような立派な案内オブジェが建っており、

ここから麓にある管理事務所までは整備された道路が続きます。

山頂に行くには専用バスに乗り継がなければならず、

管理事務所で150元払って専用バスで頂上を目指しました。

残念ながらあいにくの雨模様、果たして旅順港は見下ろせるでしょうか・・・。

曲がりくねった山道を、うっそうとした樹木の間を専用バスは進みます。


(ここが203高地か・・・、あの壮絶な戦いがあった場所なのか、と思っただけで胸が締めつけられる思いに・・・)


そして、発車してから10分ほど経った時である。

バスが急に止まるので、 (どうしたのかな) と思っていたら、

ガイドの趙さんが、

「乃木さんの息子さんが戦死した場所を見に行きましょう」

と言うので、 専用バスを降りてみると、廻りは木々に覆われた崖。

下の方を見ると石碑が建っていました。

石段を降りて行くと、結構大きな石碑なので再びのびっくり。


乃木保典陸軍少尉の慰霊碑が見える

乃木保典(やすすけ)少尉の慰霊碑が見える。(ここで戦死したのか!)


乃木希典大将の次男、乃木保典陸軍少尉のまぎれもない石碑でした。


乃木保典少尉は、1881年(明治14)12月16日に乃木希典・静子夫妻の次男として生まれました。

1904年(明治37)2月8日の仁川上陸を皮切りに日露戦争が勃発すると、乃木希典大将は第3軍の司令官に抜擢され、旅順包囲戰を指揮しました。

遼東半島の戦場に2人の息子を送り出した乃木将軍。

2歳上の長男の乃木勝典(かつすけ)陸軍少尉は第2軍に配属され、

大連の北方に位置する金州南山の攻撃に参加して、すでに5月27日に命を落としています。

次男の保典は、父と同じ第3軍に配属されました。

203高地への凄まじい突撃の中で、

伝令として司令部と前線を行ったり来たりの任務を遂行。

しかし、203高地陥落寸前の11月30日、

ロシア軍の砲弾を至近距離に受けて崖から滑落、

大きな岩に頭をぶつけての即死でした。


ここがその現場だったのか!


乃木保典陸軍少尉の殉職の地に建つ慰霊碑

       乃木保典少尉の殉職の地に建つ慰霊碑


上を見ても木々が覆っていて山頂なんか見えない。

当時はここから頂上に陣取るロシア兵のトーチカが見えたんでしょうね。

今、この場所にいると、

映画のシーンにある山肌を駆け上る日本兵の突撃の様子が脳裏を駆け巡ってしまいます。


日露戦争とはいったい何だったんだろう!


ここで戦争に至った原因を考えてみましょう。

今から遡ること107年。

日清戦争(1894~1895)に勝利した10年後のことです。

三国干渉で辛酸をなめた日本政府は、大国ロシアと一戦を交える決意をします。

でも、その背景には何があったのか。

「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ!」

この文面、実は連合艦隊参謀・秋山真之が草案し、

東郷平八郎総司令長官がバルチック艦隊を迎えた1905年(明治38)5月27日、

旗艦三笠にZ旗を揚げて全艦に打電した言葉でした。

Zはアルファベットの最後の文字。

この後はない、という背水の陣という意味。

全艦の士気を高揚させる目的で使ったものでした。

実はこのZ旗、最初に使ったのは英国のネルソン提督だったそうです。

日本海海戦の100年前、1805年に起きたトラファルガーの海戦ではじめて用いられたといわれています。


Z旗

                Z旗


この日露戦争での勝利が、大日本帝国の礎をつくる出発点になろうとは誰が想像したでしょうか。


5年後には大韓帝国を併合。


日本はアジアの覇権を狙う新たな帝国として頭角を現すのです。

日本は何故、ロシアと戦わなければならなかったのか。

ロシアは1891年(明治24)の5月からシベリア鉄道の敷設に着工します。

最終目標はモスクワからウラジオストックまでの約9300㎞です。


ウラジオストック駅

       ウラジオストック駅


ウラジオストック駅にあるシベリア鉄道終着地点看板

ウラジオストック駅にあるシベリア鉄道終着地点の看板。


ウラジオストック駅のホーム

    ウラジオストック駅のホーム


その時点で、ロシアにとって喉から手が出るほどほしかったのが、

シベリア鉄道に連結する満州を縦断させる鉄道、東清鉄道でした。

本線はシベリア鉄道のチタから満州里、哈爾浜を通ってウラジオストックへ。

支線は哈爾浜から長春を通って大連・旅順へと続く路線です。


南満州鉄道

            遼東半島の鉄道図


そんな時、ロシアにとって予想外の事が起こったのです。

朝鮮の支配権を争って日清両国が激突したからです。

1894年(明治27)に朝鮮国内で減税や排日を訴えて東学党の乱が発生すると、朝鮮政府は清国に出兵を依頼。

それに対し日本も天津条約と日本公使館の保護という名目で出兵。日清戦争の勃発でした。

結果は日本軍の圧倒的勝利に終わります。

当時の清国は、アヘン戦争やアロー戦争で国力を消耗してるところに、

追い討ちをかけるように太平天国で混乱し、

国家への求心力は急速に衰え国民の信頼はすでに失墜していたのです。

講和条約は山口県の下関(昔は馬関)で行われたので下関(馬関)条約とも言われます。

清国代表は北洋軍閥を代表する李鴻章が全権を努め、

日本側は伊藤博文が全権を握って交渉に当たりました。

この条約によって日本は数々の利権を獲得することになります。


春帆桜1

        春帆楼(しゅんぱんろう)(下関市)
(1895年(明治28)4月17日に締結された日清講和条約(下関条約)の締結会場として知られている)


春帆桜2

         日清講和条約締結碑


朝鮮の独立を認めさせた日本。


台湾の獲得と遼東半島の割譲に成功し、この直後、朝鮮は大韓帝国と名を変え独立を宣言することになります。


李鴻章の道  講和交渉のため、李鴻章はこの坂道を利用して春帆楼に通いました。

        李鴻章の道 (下関市)
(講和交渉のため、李鴻章はこの坂道を利用して春帆楼に通いました)


実はここからが問題なのです。


下関講和条約が締結された6日後の1895年(明治28)4月23日、ロシアは満州への鉄道建設を目指しており、

日本に遼東半島の放棄を勧告してきたのです。

これに同調したのがフランスとドイツでした。


世に言う三国干渉です。


日本は3国を同時に相手にすることは出来ず、5月5日、苦渋の選択として、

この勧告を受諾せざるを得ませんでした。

三国干渉は日本にとって屈辱の一語だった!

ロシアは三国干渉の見返りとして、清国から満州に鉄道施設権を獲得します。

そればかりか

遼東半島の最南端にある旅順(旅順港を含む)を租借地とし、

大連の町づくりを開始したのです。

このやり方は、衰退する清国の足元を見ての、

言わば脅しでの権益確保でした。


大連大広場 現在は中山広場と呼ばれている

     大連大広場  現在は中山広場と呼ばれている。


ロシアはシベリア鉄道のチタから満州里、哈爾浜、綏芬河(すいふんが)までの本線と、哈爾浜から長春、奉天、大連、旅順までの南満州支線の2経路を1903年(明治36)に完成させ、特に哈爾浜から旅順の線を東清鉄道と呼びました。


大連駅

              大連駅


三国干渉に物を言わせたロシア。


遼東半島に鉄道を敷き、ロシア陸軍を西から極東方面へと大移動できるよう画策し、沿線の町々をロシア色に染め始めたのです。

50年前、クリミア戦争でセバストポリ要塞を放棄した苦い経験を糧に、

今回は本腰で満州の利権確保に乗りだしたというわけです。

日本国民は怒った!

ロシアへの報復が国民感情として高揚し、臥薪嘗胆の思いが募るばかりとなっていきます。

しかし、日本が単独でロシアと戦うのは苦しい。

そこで、ロシアとの一戦を窺いながらも、同じ中国権益確保を狙う英国と急接近し、

ロシアの極東への進出を牽制しようと、1902年(明治35)1月30日、軍事応援を伴う攻守同盟をイギリスと締結しました。

日英同盟の締結です。

ロシアが満州へ侵出したことは、朝鮮半島に君臨する大韓帝国の身の振り方にまで影響を及ぼし、

当時、日本が水面下で進めていた韓国併合計画までもが頓挫する憂慮すべき事態に・・・。

ついに我慢の限界に!


1904年(明治37)2月8日、日本はロシアと国交を断絶! 


ここに日露戦争が勃発したのです。


日本軍は2月8日の夜、第1軍が朝鮮半島の仁川に威嚇の意味を込めて上陸し、鴨緑江を越えて満州に進出します。

そこでロシア軍と交戦状態に入り、鴨緑江会戦が始まりました。

2月10日には両軍が宣戦布告を行い、緒戦は日本軍が勝利して兵は満州の奥へと進軍して行きます。

当時、旅順港はロシア太平洋艦隊の基地となっており、

故に日本帝国艦隊に脅威を及ぼし、日本陸軍による遼東半島への上陸を阻めていました。

しかし、鴨緑江会戦に勝利したのを機に日本兵の士気は大いに奮い立たちます。

ロシア側の総司令官は陸軍大臣だったクロパトキン大将。

満州軍総司令官として赴任すると、ロシア陸軍を鉄道を使って遼東半島へ移動する計画を立てます。

それに対し、日本側は大山巌元帥が満州軍総司令官に抜擢され、

児玉源太郎大将が満州軍参謀総長という、薩長派閥が二人三脚として立ち向かいます。


旅順港を封鎖せよ!


旅順にいるロシア太平洋艦隊を撃滅しない限り、

日本帝国連合艦隊が黄海の制海権を確保することは出来ません。

バルチック艦隊が動き出すという情報はすでにキャッチしており、

早急に対処する必要がありました。

そこで考えたのが、旅順口(旅順港の入り口)の閉塞作戦でした。

旅順口の幅は狭く(約240m)、大型艦船が通行できるのは、

その内でも中央部分の約100mだけです。 

そこで海軍は、その付近に貨物船などを沈めたり、

廃船を爆破したりして旅順口を封鎖しようと考えたのです。

ロシア太平洋艦隊が旅順港から出られなければ、

日本の連合艦隊がバルチック艦隊との挟み撃ちにあう危険性がなくなるからです。

旅順口閉塞作戦は失敗に終わる。

1回目は2月24日、2回目は3月27の未明に実行しましたが、

いずれも失敗に終わってしまいました。

この時、広瀬武夫少佐が敵の砲弾をもろに受けて戦死。

のちに軍神として崇められます。

そして3回目は5月2日の夜に行われましたが、

いずれも戦艦や陸上からの集中砲火が激しく旅順口の中央まで行けなかったのです。

残念ながら、旅順口閉塞作戦は失敗に終わりました。


旅順駅

              旅順駅


鴨緑江の会戦に勝利した第1軍は遼陽に向かい、第2軍は遼東半島に上陸して渤海に面する金州城を攻略、南山を確保しました。

 
これでロシア満州軍の本隊と旅順要塞部隊とは完全に分断されたわけです。


金州周辺地図2

            金州周辺地図


その時、日本海軍はどうしていたのか。


何としてでもバルチック艦隊が日本海に到達するまでに旅順艦隊を叩かなければならない。

それでないと完全な日本側の勝利とはならないからです。

しかし、旅順口閉塞作戦は失敗に終わっています。

では、どうすればよいのか。

旅順港にいるロシア艦隊に背後の山から砲撃してはどうか、

という作戦が生まれるわけです。

旅順要塞へ突撃!

ロシア太平洋艦隊を潰すのには、

旅順港の裏手に聳える山々から旅順港に停泊しているロシア艦船に砲撃を加えるしかありません。

大本営は5月に第3軍を編成し、司令長官に乃木希典(まれすけ)を任命します。


乃木希典司令長官率いる第3軍は、6月6日に遼東半島に上陸。


しかし、この戦いが日本戦史に残る膨大な死傷者を出すとは、

この時点では予想もしていなかったことです。

8月19日から11月26日までに計3回の総攻撃が行われ、

約2万3千名の死傷者を出す結果となってしまいました。

この時、大本営は旅順港を見渡せる203高地の奪取を命令しますが、

乃木司令官はロシア旅順要塞の中でも中枢をなす二龍山や東鶏冠山攻略に

大軍を投入するという失敗を繰り返すという有様。

日清戦争から10年も経つと、要塞の構造や敵の武器も進歩するもの。

遮二無二突っ込んだところで死体の山を築くだけでした。


その間、遼東半島では遼陽周辺で日露の地上戦、遼陽会戦が勃発!


大日本帝国の歴史の中でも、これほどに大規模な地上戦は、後に行われる奉天会戦を除いて記憶にない。


日本軍の主力は第1軍と2軍。ロシア満州軍本隊との一大決戦です。


8月24日から9月4日にかけて首山堡をめぐる一大攻防戦が繰り広げられたのです。

遼陽会戦といわれるこの戦闘、日露両軍合わせて35万の大軍が衝突し、

日本軍の死傷者は2万5千名に及ぶ苦戦を呈してしまいました。

それでも9月1日には首山堡を確保するという、日本陸軍の辛勝ながらもロシア軍を北方に押し返したのです。


首山峰 車窓から眺める首山峰

       首山峰 (車窓から眺める首山峰)


9月4日、退路を断たれると思ったクロパトキン大将は全軍に撤退を指示、奉天へ移動させますが、日本側にそれを追撃する余力はありませんでした。

秋山好古少将が率いる騎兵旅団の活躍はこの会戦でした。

また、首山堡の争奪戦では8月31日に橘周太少佐が戦死するという、日本軍苦戦の程度が感じられます。

しかし、この戦いは金州の南山占領と同じく、ロシア満州軍本隊と旅順要塞部隊とを分断するわけで、

これで日本軍は一気に旅順要塞攻略を仕掛けることが出来ます。

黄海海戦で制海権を掌握!

遼陽会戦が展開される直前のことでした。

旅順要塞を攻撃中の第3軍に同行している海軍特殊部隊が旅順港に

散発的に砲弾を撃ち込んだのです。

すると、海面に凄まじい爆発音と波しぶき。

ロシア太平洋艦隊は動揺してパニックに陥ってしまいます。

結局、二転三転した上でウラジオストックに向かうために旅順口を出たのです。

そこで待っていたのが日本の連合艦隊でした。

8月10日に起きた黄海海戦です。

黄海海戦と言えば、普通は1894年(明治27)9月17日に起きた日清戦争時の日本連合艦隊と清国の北洋艦隊の衝突を指しますが、ロシア太平洋艦隊との海戦も歴とした黄海海戦なのです。

結果は日清戦争と同様に大勝利。

1日で勝負がつき、日本連合艦隊は旅順口閉塞作戦の失敗を余所に黄海の制海権を確保したのです。

ロシア太平洋艦隊は損傷した上で再び旅順港へ逃げ帰り、それ以降、黄海に出ることはありませんでした。


その後、旅順要塞攻防戦はどうなったか。


乃木司令長官の攻め方に不安を持った満州軍総参謀長の児玉源太郎大将は、

大山巌元帥の代理として第3軍の司令部に赴き、

乃木3軍司令官と会談。

自ら第3軍の指揮を取ると言い出して前線へ。

今度は、203高地への集中的な攻撃を行ったのです。

それでも一進一退を繰り返す有様で、一度は占領した高地も再度奪回されるという苦戦を呈します。

旅順港の裏手にある山々には、ロシア軍が港を守るために頂上各所に要塞を築いており、約4万人のロシア陸軍が展開していました。


203高地を望む

          203高地を望む



日本軍が203高地の攻撃に集中すると見たロシア軍は、各所から兵を移動させ、ここに両軍入り交じっての壮絶なる戦いが展開されたのです。


金州周辺地図

           203高地周辺の地図


203高地攻略に成功!


弾丸が底をつき始めた日本兵の攻撃は絶体絶命の様相、

その奮戦ぶりはまるで阿修羅のごとく。

12月5日、第3軍がやっとのことで山頂を制圧すると、ロシア兵は浮き足立って雪崩の如くに敗走する始末でした。

こうして日本軍は203高地の攻略に成功しますが、

その代償は莫大なものになりました

結局のところ6万5千の兵力を投入して、死者5千、負傷者1万2千という膨大な犠牲者を出しての占領でした。

標高が203mだから203高地と名付けられたこの山も、

双方の砲弾で3mは低くなったと言われています。

突撃と退却を何度も繰り返した壮絶なる戦い。多くの死傷者を出したことで、日本人にとっては忘れられない死闘として後世に語り継がれるようになります。


さて、バスは203高地山頂の専用駐車場に着きました。


少し歩いて頂上へ。



山頂にあるロシア軍が使用したカノン砲のオブジェ

 山頂にあるロシア軍が使用したカノン砲のオブジェ


ロシア軍の使用したカノン砲の詳細

     ロシア軍の使用したカノン砲の詳細


203高地頂上のど真ん中には、爾霊山(にれいさん)と書かれた銃弾の形をした忠魂碑が建っていました。

これは、日露戦争が終結した1905年、戦場で亡くなった将兵たちの霊を慰めるために、

乃木大将が付近にあった砲弾や薬莢を集めさせて鋳型に流し込んで作らせたものです。

1913年に完成しましたが、203を中国語に訳すと爾霊山となるので、その名を刻ませたそうです。


霊山と刻まれた大砲の弾をもじったオブジェ。乃木大将がつくらせたものです。

爾霊山と刻まれた大砲の弾をもじったオブジェ。(乃木大将がつくらせたものです)


しかし、今日はあいにくの雨。

案の定、旅順港は見渡せません。残念でした。


この方向に旅順港が見えるはずなのに、雨では無理か!

(この方向に旅順港が見えるはずなのに、雨では無理か!)


晴れていたらこんな写真が撮れていたんでしょうね。

 (晴れていたらこんな写真が撮れていたんでしょうね)


この頂上に立って、先人たちが107年前、ここを占領しようと壮絶な戦いをしたのかと思うと、


つい目頭が熱くなって・・・。


旅順攻囲戰における全死傷者は、

日本側が約6万人(内、戦死者は約1万6千)、ロシアが約4万人(内、戦死者は約1万人)という凄惨な数字となり、まさに両国の死闘が繰り広げられた一戦でした。


日露戦争の現場を訪ねて 








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