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尼港事件を訪ねて その10 悲劇の尼港監獄 1

1920年(大正9)3月12日、

日本隊による赤軍パルチザン本部への夜襲は

残念ながら失敗に終わってしまいました。

生き残った人たちは、守備隊兵舎か日本帝国領事館に退却したわけですが、

領事館に逃げた人たちは、

翌日の13日、赤軍パルチザンへの投降拒否が決まり全員が死の道を選びました。

では、

守備隊兵舎に逃げ込んだ同胞たちはその後どうなったのでしょうか。

守備隊兵舎には、逃げ込んだ兵士を合わせて100名ほどの居留民が、

その後も赤軍相手に応戦していました。

が、3月18日になると、

これ以上の戦闘は無理と判断して武装解除を行ってしまいます。

果たして、この投降がどうだったのか。
その意味するとことは、生か死か。
                             

そこには病院関係者や学校の教師、商店経営者、

そして労働者などが兵士に混ざって、

全員が獄舎に繋がれてしまいました。

先に収容されていた人と合わせると、

尼港の獄舎には132名の日本人が収容されたのです。

事件前に尼港で生活していた日本人は734名。

しかし、

この時点で残った日本人は132名です。

そんな時、

ハバロフスクで正式に革命政府樹立が宣言されました。

1920年(大正9)3月14日のことでした。

立ち上がったばかりのハバロフスク司令部は、

日本軍司令部からの強い要請で現地に休戦指令を出します。が、

尼港の現状など露ほども知り得ません。                                    

日本側はもちろんのこと、革命政府にしたって、

訓練を重ねた熟練の日本軍守備隊が烏合の衆のような赤軍パルチザン兵士らに、

こんな敗戦を期しているなどと夢にも思っていなかった。が、

連絡は途絶えていて消息は依然として不明のまま。                               

ハバロフスク日本軍司令部と東京の陸軍本部は本気になって救出部隊を編成します。                

早く助けに行かなければ同胞たちが危ない・・・。

救援部隊は2方向から尼港を目指します。

1隊は、樺太からアムール川の河口をさかのぼる部隊で、

陸軍本部の命令で北海道第7師団が抜擢されて

尼港派遣隊長には多聞二郎大佐が任命されました。

もう1隊は、ハバロフスク指令部が編成した救援部隊で、

ハバロフスク港からアムール川を下って尼港へ向かう部隊です。


アムール川に架かるシベリア鉄道鉄橋(ハバロフスク)

アムール川に架かるシベリア鉄道の鉄橋。(ハバロフスク)


ロシア沿海州地図

          ロシア沿海州と樺太 
                                                      

しかし、3月という季節は雪と氷に閉ざされ

尼港に近づくのは不可能です。

案の定、

多聞二郎大佐率いる第7師団は氷で動けなくなり、

樺太のアレクサンドロフスクで立ち往生する始末となります。

その時でした。

尼港から逃げてきたという3人のロシア人が、

救援隊の野営地に助けを求めて来たのです。

そこで、初めて尼港の現実を知ることになります。

多聞大佐は天を仰ぎ、

「まさか、こんなことになろうとは・・・、」

言葉を失うほどの衝撃が走ります。

アムール川を下って行く部隊は、

4月の末になると、もう一歩のところまで近づきました。

すると、事もあろうに

一部の赤軍パルチザン部隊が攻撃を仕掛けてきたのです。

日本軍の精鋭部隊はさすがに強い。

なんなく追い返したまでは良かったのですが、

彼らが逃げ去るときに置いていったとされる毛布に、

日本人の名が書いてあったのです。

「もしや、全滅したのでは・・・」

救援部隊の皆に嫌な予感が過ぎります。


その頃、尼港の状況は考えられない事態に陥っていました。


廃墟となった尼港の町(ニコラエフスク資料館所蔵)1920年当時

          破壊された尼港の町(1920年) 
          ニコラエフスク資料館所蔵


日本軍が2方向から尼港に迫っていることを知ったトレピーチンは、

町を廃墟にすることを決意。

木造の家にはガソリンで火を付け、

レンガ造りの建物にはダイナマイトで破壊するという暴挙に出たのです。

それに輪を掛け、監獄に収監されていた白系ロシア人の処刑を始めたのです。                   

女子や子供も関係なく、アムール河畔に引き出して殺す、

その残虐な殺し方はとても人間のすることとは思えない、

それほど残忍非道な方法でした。

そして、日本人が収監されている房にも、いよいよ魔の手が忍び寄ってきました。                                                                       
当時の監獄 現在も使用されている

       当時の監獄 現在も使用されている。           


イーゴリーは監獄の前に立って、

「これが当時の監獄か!そのままじゃないですか。

彼らの悲痛な叫びが聞こえてくるようだ」

イーゴリーの呟きに、ソーニャさんが一言、


「たしかに獄舎は当時のまま使用されています

でも、今は拘置所ですがね」

                           続く





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