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尼港事件の現場を訪ねて その9 尼港資料館

  
ニコラエフスク資料館には、

尼港事件に纏わる数々の資料が展示してありました。

尼港事件は、1918年(大正7)に始まった

シベリア出兵がもたらした負の代償といえるもの。

もともとは連合国側からの要請でロシア革命への干渉が目的でしたが、

連合国が引き揚げても日本軍は単独で駐留するという、

その背景に領土的野心を疑われてもしかたがありません。

 当時、日本の属国だった朝鮮はソ連と国境を接していました。

今の北朝鮮の清津(ちょんじん)から海岸線を北へ向かい、

豆満江を渡ると、そこはソ連領内です。

張鼓峰事件で有名なハサン駅があり、

そこから約200km東がウラジオストックになります。

ウラジオストックからハバロフスクを過ぎて

ニコラエフスクまでの約1600kmの区間で、

ウスリー川東側とアムール東側を当時は沿海州と呼びました。                          

この沿海州の中心地が尼港(事件後はハバロフスク)であり、
日本政府はこの沿海州に白系ロシア人による傀儡政権の立ち上げを計画していたのです。



ロシア沿海州
           ロシア沿海州


でも、その代償が尼港事件であったならば、

それはあまりにも大きな犠牲を払ったと言わざるを得ません。

資料館はセンター街、といっても、

この付近にショピングセンターのような大きな店舗があるわではなく、

個人店舗が数店と銀行が一つ、それに市役所があるだけの貧相なものです。


市内にある銀行
             市内にある銀行



ニコラエフスク市役所
           ニコラエフスク市役所


その中にあって資料館は悠然と一角を引き立てていました。

この町に旅行者が頻繁に来るわけでもなく、

ひっそりと静まりかえっているのに、

なぜか資料館には5人以上の女性スタッフが働いているという奇妙な現象。

ソーニャ元館長に言わせれば、

女性の就職先のないこの町で資料館はあこがれの仕事場なのだそうだ。

それだけに競争も厳しく、

ちょっと失敗するだけでクビになるというから恐ろしい。


たぶん、共産党支配時代の名残かも。


ニコラエフスク資料館
          ニコラエフスク資料館                              


我々一行が久しぶりの見学者だったのか、

スタッフ全員が「おもてなし」するというサービス振りにびっくり。

ちょっと過剰なくらいでした。

この町の創立は1850年。

その頃の日本は攘夷か開国かで揺れ動いている時。

ペリーが浦賀に黒船艦隊を率いてやってくる3年前のことです。

ここ尼港は軍事拠点としての重要な役目を果たしながらも漁業基地として栄え、

鮭や鰊の加工工場として日本からの投資も盛んに行われていました。



魚の加工工場で働く人々
          魚の加工工場で働く人々
           (ニコラエフスク資料館所蔵)



資料館で立ち話をしていると、

1階の隅に椅子が並べられた20畳ほどの部屋を発見しました。

この部屋は映写室だそうで、

ロシアの歴史やニコラエフスク市の歴史や変遷を

映画で勉強するための部屋なのだそうだ。             

館長の話によると、

この部屋は当時も島田商会の映写室だったそうです。

リフォームされているとはいえ、

当時の日本商工会のリーダー的存在だった島田商会が、

日本居留民を集めては、ここで祖国の映像を見せて皆で懐かしがっていたのかと思うと、

何だか心が締め付けられてきます。



映写室 当時も同じ場所で映像を楽しんでいました。
     映写室  当時も同じ場所で映像を楽しんでいました。


さて、

時代は変わって尼港事件から25年後、

日本は敗戦を迎えることになりますが、

当時、満州や樺太、千島列島にいた日本兵はソ連兵に抑留されて

ソ連領内で強制労働を強いられます。

その抑留者の数、何と約80万人というからその惨劇が思い浮かばれます。



抑留者は鉄道の施設や森林開発のため、

ハバロフスク、イルクーツク、コムソモリスクナアムーレなどはもちろん、

モンゴルや中央アジアの奥深くまで送り込まれたようです。

それも劣悪な環境下での強制労働、

さぞ苦しかったことでしょう。

そしてニコラエフスク(尼港)にも抑留者が送り込まれてきたのです。

今から30年くらい前

日本から遺骨収集団が来て

当時の抑留者の埋葬現場を調査したそうです。

ソーニャさんも加わって探したらしいんですが、

なかなか見つらなくて苦労した覚えがあると言ってました。


結局、正確には分からず、

たぶんこの辺だろうということで

日本から連れて来たお坊さんがお経をあげて帰って行かれたとのこと。

私がその場所に案内してくれと頼むと、

気持ちよくOKしてくれたのはよかったのですが、

その場所が市内のはずれで遠いのにびっくり。

ガタガタ道と水たまりに車は往生しました。

写真の場所が埋葬現場への入り口です。

この藪から2キロほど入ったその周辺ということしか分からなかったそうです。



拘留者の埋葬現場入り口
           抑留者の埋葬現場入り口


いくら当時の時代背景があったとはいえ、

こんなところに抑留されて、

それも極悪な条件下での強制労働

「その末に亡くなったら人里離れた地面にただ埋められるだけなんて、人道的に許されるのか!」 

墓参りに行く人など皆無。

こんなシベリアの果てで、どんな思いで眠っているのか。

居ても立っても居られない心境です。



これから、いよいよ尼港事件最悪といわれる悲劇の現場、監獄に行ってみたいと思います。






大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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