尼港事件の現場を訪ねて その8 虐殺現場の桟橋
昨日のアクシデントの余韻も覚めやらぬ中、
尼港事件探索のため、
我々一行はニコライの運転する車でホテルを出発しました。
現在のニコラエフスク市内は、
93年前の尼港事件当時とほとんど街の区画が変わっていません。
空港から市内へ入る中央通りは町の東西を走るメイン通りですが、
通りの南側はアムール河畔で、
東に進むとチヌイラフ方面へと続きます。
中央通りのちょうど真ん中付近が、市役所などの行政機関や銀行、
そして商業店舗が立ち並ぶセンター街になっています。

現在のニコラエフスク市役所
ニコラエフスク資料館もその一角にあります。
今の場所は、
当時の日本商工会の会長を務めた島田商会の跡地に建てられたとのことです。
資料館の話は次回にすることにして、
もう少し中央通りを東方面に車を進めると、
左に映画館を発見しました。
映画の看板が手書きとは恐れ入った。
それはまるで、昭和30年代の日本のようです。
上映している映画は恐怖映画なのか。
聞くところによると、ロシア版黄金バットだとか。
映画館の前で笑顔を見せるイーゴリー。

ニコラエフスク市内の映画館
映画館の真向かいには、
当時の市民生活の物資を一手に扱っていた商社、チューリン商会が当時の面影を残していました。
現在は家具の製造会社になっていますが、
建物は当時のままだそうです。
もちろん、修復はしているでしょうがね。

当時のチューリン商会
チューリン商会の脇の道を下って行くと、
ニコラエフスク市内で唯一の市民公園に突き当たります。
アムール川に沿って整然と緑が敷き詰められた市民公園。
そこに建つ慰霊碑には、
ロシア革命で犠牲になった人や、
尼港事件のロシア人犠牲者の氏名も刻まれていました。

ニコラエフスク市民公園にある慰霊碑
公園の中心にある記念オブジェ。
この場所で記念写真を撮ろうとイーゴリーが言いだし、
尼港事件私設調査団と銘打った我々はここで写真に収まりました。

尼港事件私設調査団の面々
市民公園のすぐ目の前がアムール川です。
そこには桟橋があり、そこから望むアムール川は絶景かな。
向こう岸は山々が連なり、まるで手が届きそうな距離。
それでも川幅が6kmもあると聞いて驚愕。
目の錯覚か。

ニコラエフスク桟橋から望むアムール川
でも、よ〜く眺めると、
川の真ん中に貨物船らしき姿が・・・。
それが小さく見えることからも、とてつもなく大きな川なのに納得します。
この桟橋は、事件当時もまったく同じ位置にありました。
その時の写真がこれです。

事件当時の桟橋で撮られた記念写真
(ニコラエフスク資料館所蔵)

現在の桟橋
桟橋で写真を撮っていると、
イーゴリーが息を切らして近寄ってきました。
「この場所が処刑場だったそうですよ」
「えッ」
思わず、その一言に私は息を呑んだ。
尼港事件で亡くなった人は、
邦人734名を含む3000人以上といわれています。
そのほとんどが一般人でした。
当時、赤軍パルチザンに河畔に引きずり出され、
有無も言わさず虐殺された邦人や白系ロシア人たち。
その処刑現場だと聞いて胸が痛む思いに・・・。
何だか、やるせない気持ちが脳裏をかすめました。
赤軍の指導者であったトレピーチンについては、
ハバロフスク博物館にも彼の功績が掲げられているそうですが。
「そんなの許せない!」
と思うのは日本人だからでしょうね。
ロシア側から見れば、日本のシベリア出兵には領土的野心が背景にあった、
という認識の上に成り立っているので、
当時の赤軍革命の正当性からトレピーチンを擁護しているのかも知れません。

崩壊した尼港の町 (1920年)
(ニコラエフスク資料館所蔵)
これからニコラエフスクのセンター街に行ってみましょう。
大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう
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尼港事件探索のため、
我々一行はニコライの運転する車でホテルを出発しました。
現在のニコラエフスク市内は、
93年前の尼港事件当時とほとんど街の区画が変わっていません。
空港から市内へ入る中央通りは町の東西を走るメイン通りですが、
通りの南側はアムール河畔で、
東に進むとチヌイラフ方面へと続きます。
中央通りのちょうど真ん中付近が、市役所などの行政機関や銀行、
そして商業店舗が立ち並ぶセンター街になっています。

現在のニコラエフスク市役所
ニコラエフスク資料館もその一角にあります。
今の場所は、
当時の日本商工会の会長を務めた島田商会の跡地に建てられたとのことです。
資料館の話は次回にすることにして、
もう少し中央通りを東方面に車を進めると、
左に映画館を発見しました。
映画の看板が手書きとは恐れ入った。
それはまるで、昭和30年代の日本のようです。
上映している映画は恐怖映画なのか。
聞くところによると、ロシア版黄金バットだとか。
映画館の前で笑顔を見せるイーゴリー。

ニコラエフスク市内の映画館
映画館の真向かいには、
当時の市民生活の物資を一手に扱っていた商社、チューリン商会が当時の面影を残していました。
現在は家具の製造会社になっていますが、
建物は当時のままだそうです。
もちろん、修復はしているでしょうがね。

当時のチューリン商会
チューリン商会の脇の道を下って行くと、
ニコラエフスク市内で唯一の市民公園に突き当たります。
アムール川に沿って整然と緑が敷き詰められた市民公園。
そこに建つ慰霊碑には、
ロシア革命で犠牲になった人や、
尼港事件のロシア人犠牲者の氏名も刻まれていました。

ニコラエフスク市民公園にある慰霊碑
公園の中心にある記念オブジェ。
この場所で記念写真を撮ろうとイーゴリーが言いだし、
尼港事件私設調査団と銘打った我々はここで写真に収まりました。

尼港事件私設調査団の面々
市民公園のすぐ目の前がアムール川です。
そこには桟橋があり、そこから望むアムール川は絶景かな。
向こう岸は山々が連なり、まるで手が届きそうな距離。
それでも川幅が6kmもあると聞いて驚愕。
目の錯覚か。

ニコラエフスク桟橋から望むアムール川
でも、よ〜く眺めると、
川の真ん中に貨物船らしき姿が・・・。
それが小さく見えることからも、とてつもなく大きな川なのに納得します。
この桟橋は、事件当時もまったく同じ位置にありました。
その時の写真がこれです。

事件当時の桟橋で撮られた記念写真
(ニコラエフスク資料館所蔵)

現在の桟橋
桟橋で写真を撮っていると、
イーゴリーが息を切らして近寄ってきました。
「この場所が処刑場だったそうですよ」
「えッ」
思わず、その一言に私は息を呑んだ。
尼港事件で亡くなった人は、
邦人734名を含む3000人以上といわれています。
そのほとんどが一般人でした。
当時、赤軍パルチザンに河畔に引きずり出され、
有無も言わさず虐殺された邦人や白系ロシア人たち。
その処刑現場だと聞いて胸が痛む思いに・・・。
何だか、やるせない気持ちが脳裏をかすめました。
赤軍の指導者であったトレピーチンについては、
ハバロフスク博物館にも彼の功績が掲げられているそうですが。
「そんなの許せない!」
と思うのは日本人だからでしょうね。
ロシア側から見れば、日本のシベリア出兵には領土的野心が背景にあった、
という認識の上に成り立っているので、
当時の赤軍革命の正当性からトレピーチンを擁護しているのかも知れません。

崩壊した尼港の町 (1920年)
(ニコラエフスク資料館所蔵)
これからニコラエフスクのセンター街に行ってみましょう。
大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう
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