南京大虐殺の現場を訪ねて
第2次上海事変のきっかけとなった大山事件。
盧溝橋事件から3週間後の7月28日、支那駐屯軍は意表を突いて宛平県城の総攻撃に及びました。
この時点で大きな衝突になると思いきや、中国軍(第29軍)はたった1日で北京から退却するという何とも理解しがたい行動に出たのです。
支那駐屯軍による宛平城攻撃が、まさか第2次上海事変を経て南京占領まで続くとは誰が想像し得たでしょうか。
盧溝橋事件が日中全面戦争の入り口であったという根拠がここにあったのです。
その時、上海では国民革命軍の張治中上海防衛司令官が第1次上海事変の停戦協定で取り決めた
非武装地帯に何万というトーチカと、延べ数百㎞にも及ぶクリークと呼ばれる水路を張り巡らし
て臨戦態勢を敷いていました。
上海の国際租界には緊張が走り、特に日本人が多く住む上海神社周辺区域では、非武装地帯を不法
に占拠して包囲網を狭めてくる国民革命軍に対し、日本人居留民の危機感は日増しに高くなっていきました。
そんな状況下で、8月9日の夕方、海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が斎藤要蔵一等水兵の運転する車で
国際共同租界の外れにあるモニュメント道路を走行中、中国保安隊に囲まれ機銃掃射を受けて即死する
という事件が起きたのです。世に言う大山事件です。

1937年(昭和12)8月10日 東京朝日新聞

大山事件の現場付近
虹橋飛行場はなくなり、近くには高速道路が通り、住宅地として開け、当時の面影は全くない(上海市)
国民革命軍はどうしてこんな事件を起こしたのか。
上海防衛軍の張治中司令官が独断で命令したことなのか、それとも蒋介石が指示を出したのか、
その点を不明のままにして時間が過ぎていきましたが、日本軍から攻撃を仕掛けさせる口実を
つくった、という説は頷けます。
この時点で、中国正規軍の精鋭部隊約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲しており、その際、上海市民をあえて緩衝役として封じ込めていました。
中国側はすでに準備万端の態勢が出来ていて、それに対する日本の海軍陸戦隊は4000人という規模でした。
第2次上海事変勃発。
8月13日の9時30分頃、一部の中国軍部隊が、突然、日本海軍陸戦隊陣地に機銃掃射を行いながら攻め込んできたのです。
当初は不拡大方針に基づいて陸戦隊は応戦のみに限定しましたが、夕方になると中国軍は日本側が本格的な
反撃に踏み切らないと判断したのか、各地に繋がる主要道路や橋を爆破し、八字橋方面から本格的に侵入を
始めました。
日本人区域内にある公共施設が攻撃されたことで、海軍陸戦隊の司令長官、長谷川清中将は、この攻撃が真の開戦を意味するものと判断。
日本政府に5個師団の増援を依頼したことで、国際都市上海を舞台に日中間での武力衝突が現実の気配を帯びてきました。

1937年(昭和12)8月14日 東京朝日新聞
盧溝橋事件のときは、支那駐屯軍の演習中に数発の銃弾が撃ち込まれ、
両軍の衝突で一時は全面戦争の様相を呈しましたが、結果は29軍のあっけない退却で結着がつきました。
が、今回はあらゆる面で中国軍の本気度が違っていました。
上海に大軍を終結させ、7月18日に行った蒋介石の廬山宣言を実現すべく、総力戰で対日抗戦を仕掛けようとしていたのです。
8月14日、この日はどんよりとした曇り空でした。
午前11頃のこと。突然、中国軍機が国際共同租界上空に現れ、周辺に爆弾を落とすという暴挙を起こしたのです。
この空爆は、本来、黄浦江に停泊していた日本の第3艦隊を狙ったものでしたが、
艦船からの対空砲火を避けるために高度を高くして飛ばなくてはならず、誤爆で租界周辺に
落ちてしまったと中国側から遺憾の意を示す表明がありましたが、明らかに故意と思われる
爆弾投下が、「大世界」やキャセイホテルに行われました。
租界への爆弾投下で、外国人を含む2000人以上の人が亡くなり、その中でも一番被害の大きかったのが「大世界」です。

大世界
1917年、上海競馬場近くに建設された魔都上海を代表するエンターテイメント施設。(上海市)
「大世界」といえば上海賭博のメッカとして名高い所で、娯楽の複合施設というべき、魔都上海の中核的存在として人気がありました。
上海競馬場の向かい側に位置し、国際共同租界では一際目立つ奇妙な形をした建物が象徴的。
満州国の皇帝、愛新覚羅溥儀も上海に来れば必ず立ち寄ったという施設で、
内部には大劇場、演芸場、賭博場、映画館、酒場、そればかりか、阿片窟から売春窟まで一切
を兼ね備えていました。
上海上陸作戦の決行。
8月15日、日本陸軍は居留民保護を名目に上海派遣軍を決定し、その司令官に松井岩根大将を任命します。
そして8月22日、上海派遣軍司令官・松井岩根大将は2個師団を率いて上海北部沿岸に上陸を敢行。日本と中国の全面戦争が始まることになります。
この時、中国軍の上海防衛隊の戦力は強化され、50万の兵力で迎撃するという、上海派遣軍にとっては厳しい展開が予想されました。
租界に到達するまでには非武装地帯に築かれた2万個以上のトーチカと、網の目のように張り巡らされたクリークを突破しなければならないのです。

1937年(昭和12)8月24日 東京朝日新聞

第2次上海事変の日本軍進路(想像図)
上海を舞台に日中全面戦争の火蓋が切られました。第2次上海事変の勃発です。
この戦いは熾烈を極める壮絶な白兵戦になりました。
日本側は9月の初旬で死者約3000人、それに1万人近い負傷者を出す苦戦を呈し、日本国内では誰もが固唾を呑んで見守る状況が続きました。
9月2日、閣議は従来の「日支事変」を「支那事変」と改称。
10月20日、戦局の打開を図るため、軍中央は第10軍の増派を決定。
4個師団に野戦重歩兵旅団を加え、第4艦隊まで追加した大部隊です。
この援軍に上海派遣軍は大いに奮い立ちます。
11月5日、柳川平助中将率いる第10軍が杭州湾北岸に上陸。
すると上海派遣軍は一気に攻勢に出ました。
この上陸は中国軍を挟み込む作戦で、死闘は約2週間も続きます。
11月12日、多大な犠牲を払いながらも、上海派遣軍は中国軍の防衛線の要である大場鎮(だいじょうちん)を陥落させ、上海全域の制圧に成功するのでした。

1937年(昭和12)11月13日 (東京朝日新聞)
軍中央の指示を無視した南京進軍。
第2次上海事変といわれた日中の激戦で、日本側の損害は莫大なものとなりました。
11月8日までに戦死者約9000人、負傷者は3万人以上にのぼり、日露戦争における奉天会戦以来の犠牲者数になってしまいました。
国民世論は中国憎しの感情で一色となり、上海制圧に際しては日本中が戦勝気分に酔いしれ、
それが国民の戦意を高揚させ、国民党の本拠地である南京まで攻めろ攻めろの大合唱となったことは否めません。
11月7日、陸軍中央は第10軍と上海派遣軍を合体させて「中支那方面軍」という大部隊を編成。
方面軍司令官には松井岩根大将が就任し、この時点で中支那方面軍の兵力は、後方警備を含めて10個師団、その数は22万近いものに膨れ上がったのです。
督戦隊の登場で中国軍は同士討ち。
11月12日に日本軍が上海全域を制圧すると、上海防衛軍はドミノ倒しのように退却を始めました。
その際、中国軍には味方の前線部隊を監視し、もし、逃げる兵士がいたら容赦なく撃ち殺す督戦隊という部隊が設置されていたのです。
南京へ逃げ帰る兵士と督戦隊との間で銃撃戦が展開され、その際、かなりの戦死者が出た模様です。
その上、南京へ退却する際は古来からの常套手段、「堅壁清野」といわれる作戦を敢行し、それは進撃してくる日本軍には何も残さない焦土作戦だった。
いずれにせよ、上海の攻防戦では日本軍もさることながら、中国軍も20万近くの同胞を失い、南京へと退却していったのです。
和平交渉が決裂。
大山事件で船津和平工作が頓挫しても、在中国ドイツ大使のトラウトマンによる和平交渉は進んでいました。
が、どういうわけか、交渉そのものを潰してしまう重大な決断が現地で下されてしまいました。
上海を攻略した時点で、松井岩根大将は政府や軍中央の指示を無視し、兵站が十分に整っていないのに独断で中国軍の追撃と南京攻略の命令を出したのです。
日本国内の世論に押されてのことか、それとも功名心からか、または参謀の具申だったのか。
これまで参謀本部が進めてきたトラウトマン工作は、この段階で完全に反故にされてしまいました。
南京への壮絶なる行軍。
上海から南京までの距離は約300㎞。
しかし、南京までの行程は上海派遣軍と第10軍とでは別々の経路を取りました。
上海派遣軍は太湖の北側を通過して南京へ。
増援部隊の第10軍は太湖の南側を西進し、その後に北上して南京を目指しました。

中支那方面軍の南京への進路(想像図)
ここで言えることは、いずれの部隊も急げ急げの強行軍だったことです。
それ故、民家での食料調達が強引だったり、敵兵を捕まえても与える食料がないから殺してしまうこともあったとか。
いったい何でそんなに急ぐ必要があったのか。
故郷に錦でも飾ろうというのか、上海派遣軍と第10軍の先陣争いは熾烈を極めたそうです。
11月5日に杭州湾北部に上陸した第10軍は、南京までを迂回し、約400㎞の行程を約20㎏の装備を背負って1日15㎞から20㎞で行軍しました。
それに比べて上海派遣軍は3ヵ月間の激戦を押しての進軍でした。
中支那方面軍の総兵力は約22万。
そのうち約半分の10万の軍勢が南京へと向かったのです。
しかし、その行軍は地獄の様相を呈し、後々に大きな禍根を残してしまいます。
中支那方面軍の南京への進撃は、逃げる中国軍と入り交じっての戦いながらの進軍となりました。
現地の民家で食料を調達するのは両軍とも同じ。
でも、雨が降って道はぬかるみ、時には雪交じりの悪天候です。
この進軍は日本軍にとっては条件的に不利でした。
クリークに橋をかけての進軍は、中国軍による銃弾の嵐を招き恰好の標的となってしまう。
武器弾薬を運ぶ車両はぬかるみ地獄で立ち往生、兵隊は道で滑ってクリークに転落、その有様は過酷という一言に尽きました。
中国軍による堅壁清野作戦の後を行くのは、常識をはるかに越えた困難が待ち受けていたのです。
12月1日、軍中央は命令無視の中支那方面軍司令官、松井岩根大将に対し南京攻略を追認しました。
このやりかたは6年前の満州事変の時とそっくりでした。
あの時は、関東軍の独断で南満州鉄道周辺を爆破(柳条湖事件)し、
それを中国側の仕業と見せかけて、すぐさま奉天城を攻略、満州全域に戦線を
拡大したのを事後承諾によって正当化したものでした。
南京から逃亡した蒋介石。
12月7日、南京城内では予想外のことが起こりました。
事もあろうに蒋介石が南京を飛行機で脱出したというのです。
翌日、後を託された南京防衛軍司令官の唐生智は、城門を閉め、土嚢を積み上げて籠城作戦に切り替えました。
12月9日、上海から進軍してきた中支那方面軍が南京城に到着。
すぐさま、中華門、中山門、太平門、和平門等に各師団を配置して攻撃態勢を整えます。

中華門
周囲約34㎞の南京城壁のうち、中華門は門というよりは城郭といっても良いほど規模が大きく、城兵3000人が立て籠もることが出来たと言われています。(南京市)

南京城内の図 (想像図)
それまでの南京城内の動きはどうだったのか。
11月19日、南京に在住する15人の外国人からなる国際安全区の設置が公表されました。
欧米人が住んでいる居住区を中心に約4k㎡ の地域を国際安全区として軍事力を排除し、市民を戦争から保護するための避難区域、中立地帯として宣言したのです。
委員長には30年の中国滞在歴のあるドイツ、シーメンス社の中国責任者、ジョン・ラーベが就任しました。
この時点で、南京城内の人口は20万人と警察庁からの発表がありましたが、
裕福な市民はすでに南京から脱出しており、残っている中国市民のほとんどは
逃げるところもなく、金もない貧者で占められていました。
その中には、近郊の郡や村に住み、家を焼かれて城内へ避難してきた周辺住民もかなりいたようです。

ジョン・ラーベの自宅
ドイツ・シーメンス社の在中国責任者、ジョン・ラーベは国際安全区の委員長として、当時は自宅まで提供して難民の生活を守ったといわれています。(南京市)
南京大虐殺の真相。
12月10日、南京城を包囲した中支那方面軍は、各門に一斉攻撃を開始しました。
城門の周囲には鉄条網が張り巡らされ、護城河という堀に橋を架けなければ城門を突破することはできません。
工兵が準備作業をする度に城壁の上からは一斉射撃を受けるし、手榴弾が雨のように降ってきます。
城壁の高さは15mもあるし、特に中華門に至っては4重の門から成り、奥行きは130mもありました。

中華門
それでも日本軍は、激戦の上に城門を次々と陥落させていったのです。
当然、次は市街戦になります。
追い詰められた国民党軍は、揚子江から対岸の浦口へ退却しようと船着き場に通ずる「ゆう江門」に殺到しますが、この場に及んでも、友軍の逃亡を阻止する中国督戦隊が待ち構えていたのです。
中国軍の悲劇としか言いようがない。
味方同士の壮絶な撃ち合いが13日の未明まで続き、おびただしい死傷者を出す結果になってしまいました。
この時、司令官の唐生智は南京死守を諦め、8月12日の夜に「ゆう江門」の脇にある狭い通路から脱出するという身勝手な振る舞いに出たのです。
その際、日本軍に降伏の意思表示をしなかったため、国民党各部隊の命令系統はないに等しくなり、
生き延びた中国兵たちはどうして良いのかわからず、結局は軍服を脱ぎ捨て中立地帯の
国際安全区へ逃げ込むか、対岸に泳いで行くしかありません。
しかし、船がありませんから、対岸の浦口に行くには川幅3㎞の揚子江を泳いで渡るしかない。
冬場のことだし、溺れ死ぬか、途中で日本海軍艦船からの機銃でほとんど全滅だったようです。
戦闘の激しかった中山門や中華門、それに「ゆう江門」の下にはおびただしい死体が散乱したと
いわれています。
特に避難道となった「ゆう江門」付近は言語に絶する惨状、死者の山が築かれたというから、その激戦ぶりが窺われます。
12月13日、ついに南京城は陥落。

1937年(昭和12)12月14日 東京朝日新聞
この時、蒋介石の国民党政府は南京から揚子江を遡ること2100㎞上流にある重慶に移り、政府関係の主要部署は900㎞上流の武漢三鎮にありました。
つい1ヵ月前までは中国の首都だった南京の街が、今は日本軍によって完全に制圧され、
占領の証として国民党の本拠地、総統府で陸海軍合同による歴史的式典が行われたのです。
国民総督府にいたる道路には上海派遣軍と第10軍の選抜された兵士が整列し、中山門から
入城した松井岩根大将はそれを閲兵しつつ国民政府に入りました。

1937年(昭和12) 12月16日 東京朝日新聞

総統府
1853年に太平天国の洪秀全が大王府を置いて以来、中国政府の中枢として使用されてきました。南京政府の蒋介石総統は、重慶に遷都するまで政府の中枢機関をここに置きました。(南京市)
トラウトマン工作は失敗に終わる。
はじめのうちは強気のスタンスで国際連盟に提訴したりしていた蒋介石も、上海の攻防戦で大場鎮が陥落したあたりから和平のテーブルに乗ってくるようになります。
しかし、中支那方面軍が南京を攻略したことで、今度は日本政府が強気になって和平条件を
さらに厳しくして、賠償金まで要求したというから和平交渉が進展するはずがありません。
これでは、まるで中国を敗戦国扱いにするのと同じで、さすがの蒋介石も怒り心頭、拒否するのは当然でしょう。
あまつさえ、条件の上積みを政府4相が決めたというから、和平交渉を進めていた参謀本部の方が逆に面食らうという始末でした。
満州事変の時は関東軍の暴走に政府が待ったをかけたのに、
今度は政府が和平案を潰してしまうのだから、近衛内閣の一貫性のなさや、
世論の動向に左右される決断を、石原完爾が「首相は日本を潰す気か」
と指摘したのは当然でしょう。
因みに、ここでの政府4相とは、首相の近衛文麿の他、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政を指します。
南京大虐殺はあったのか。
南京侵攻は、どう考えても無謀な作戦であったことは間違いありません。
8月に始まった上海戦で3万人を超す多大な死傷者を出しながら、その後も休む間もなく南京へ進軍しなければならなかった。
それも徒歩で300㎞。第10軍にしては400㎞の行軍です。
連戦で疲れ切った兵に十分な食料もなければ衣料もない。
あいにく、この季節としては異常ともいえる雨量の多さに道はぬかるみ、足を滑らせてクリークに落ちる兵も続出するという悪条件でした。
そんな状況下で、食料を途中の敵国民家で調達しなければならないという理不尽さ。
何とも計画性のない作戦が、良からぬ憶測を呼び起こす結果になってしまいます。
中支那方面軍は2つのルートで南京を目指し、その兵力は総数で約10万という大軍です。
それが小さな村々で数人から数十人の規模で民家を訪ね、食料調達の交渉をしなければならない。
そこには当然に拒否する者もいただろうし、中国兵が便衣で攻撃してくる場合もあったはず。
日中両軍が戦いながらの入り交じっての行軍。
どさくさの中で、実際にどのくらいの虐殺が行われたのかなど、詳細を把握することは困難でしょう。
南京城内の人口は11月末時点で約20万人。近郊には150万人ほどの市民が住んでいたといわれています。

南京駅(新幹線)から玄武湖を望む(南京市)
規模は別として、進軍途中で虐殺があったことは否定できないでしょう。
でも、退却した中国兵が軍服を脱ぎ捨て民家に隠れたり、時には襲ってきたりで、
それでなくても中国兵は後から追いかける日本兵に何も残さないという常套手段、
堅壁清野作戦を取ってすべてを破壊しつくしています。
日本軍にとっては、厳しい、辛い、やむを得ない状況下であったことは頷けます。
が、そんなことは始めから予想がつくこと。
無謀な作戦を指示した方面軍司令官や参謀たちの誤った決断だった、と簡単に片付けて良い問題ではない。
南京城内の人口はおよそ20万人。
逃げてきた中国兵を合わせると30万程度がいたと思われます。
しかし、城内には各国の大使館もあるし、記者を含めた外国人関係者も相当いたはずです。
人目はあるし、シーメンス社のラーベを委員長に国際安全区も設置されていることから、
城内で日本軍が虐殺や暴行の限りを尽くすのは、どう考えても無理があるように思えてなりません。

日本領事館跡 当時、国際安全区にあった日本領事館の跡(南京市)

南京大虐殺記念館の入り口。30万の文字が刻まれています。(南京市)
では、何故、中国側は30万人が日本軍によって虐殺されたと報じたのか。
侵略された中国側が、事の悲惨性を世界に向かって誇張するのはしかたがない。
それでは虐殺がなかったのか。
と言われれば、なかったとは言い切れないでしょう。
11月12日に上海を制圧した上海派遣軍は、11月5日に杭州湾に上陸した第10軍とともに、二手に分かれて合計10万の軍勢が南京を目指したのです。
進軍途中で何があったのか。
食料を現地調達する計画がどんな無残な結果を招くのか。
退却した中国兵が軍服を脱ぎ捨て便衣で民家に潜んでいる中、そんな状況が日本軍に限りない恐怖心を与え、それ故、相手の確認を怠ったり、防衛本能から殺人に及んだことも否定できません。
第16師団・第9連隊の2人が100人切りの競争をしたとかしないとか。
東京日日新聞の記事の信憑性はともかく、進軍する先々で毎日のように人が殺されていく現状を
見ていると、神経が麻痺してしまうのか、それとも慣れっこになってしまうのか、
人を殺すのに特別な感情がなくなってしまう、とある戦争体験者は語ります。
これが戦争だと簡単に片付けて良いのか。
8月17日には日本軍の南京総統府への入城式が行われました。
その時、朝香宮中将が閲兵されるんで、その身に何かあってはいけないと、
徹底的に便衣狩りを行ったのも城内の悲劇を生んだ一因であったとか。
補給の整わない進軍が、あまりにも大きな負の代償であったことは確かです。

南京大虐殺記念館に建つオブジェ
英語名はファミリーとなっていますが、中国人はこの像を母と呼んでいます。(南京市)
30万人が虐殺されたという中国側の主張が正しいかどうかは別として、それが3万人なのか、5万人なのか、いや10万人なのか、数の問題ではない。
戦争故、多少なりとも非人道的な行為はあっただろう。
大切なことは、今、その事実を反省しながら、正しい歴史認識をもって後世に引き継ぐことではないでしょうか。
大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう
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盧溝橋事件から3週間後の7月28日、支那駐屯軍は意表を突いて宛平県城の総攻撃に及びました。
この時点で大きな衝突になると思いきや、中国軍(第29軍)はたった1日で北京から退却するという何とも理解しがたい行動に出たのです。
支那駐屯軍による宛平城攻撃が、まさか第2次上海事変を経て南京占領まで続くとは誰が想像し得たでしょうか。
盧溝橋事件が日中全面戦争の入り口であったという根拠がここにあったのです。
その時、上海では国民革命軍の張治中上海防衛司令官が第1次上海事変の停戦協定で取り決めた
非武装地帯に何万というトーチカと、延べ数百㎞にも及ぶクリークと呼ばれる水路を張り巡らし
て臨戦態勢を敷いていました。
上海の国際租界には緊張が走り、特に日本人が多く住む上海神社周辺区域では、非武装地帯を不法
に占拠して包囲網を狭めてくる国民革命軍に対し、日本人居留民の危機感は日増しに高くなっていきました。
そんな状況下で、8月9日の夕方、海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が斎藤要蔵一等水兵の運転する車で
国際共同租界の外れにあるモニュメント道路を走行中、中国保安隊に囲まれ機銃掃射を受けて即死する
という事件が起きたのです。世に言う大山事件です。

1937年(昭和12)8月10日 東京朝日新聞

大山事件の現場付近
虹橋飛行場はなくなり、近くには高速道路が通り、住宅地として開け、当時の面影は全くない(上海市)
国民革命軍はどうしてこんな事件を起こしたのか。
上海防衛軍の張治中司令官が独断で命令したことなのか、それとも蒋介石が指示を出したのか、
その点を不明のままにして時間が過ぎていきましたが、日本軍から攻撃を仕掛けさせる口実を
つくった、という説は頷けます。
この時点で、中国正規軍の精鋭部隊約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲しており、その際、上海市民をあえて緩衝役として封じ込めていました。
中国側はすでに準備万端の態勢が出来ていて、それに対する日本の海軍陸戦隊は4000人という規模でした。
第2次上海事変勃発。
8月13日の9時30分頃、一部の中国軍部隊が、突然、日本海軍陸戦隊陣地に機銃掃射を行いながら攻め込んできたのです。
当初は不拡大方針に基づいて陸戦隊は応戦のみに限定しましたが、夕方になると中国軍は日本側が本格的な
反撃に踏み切らないと判断したのか、各地に繋がる主要道路や橋を爆破し、八字橋方面から本格的に侵入を
始めました。
日本人区域内にある公共施設が攻撃されたことで、海軍陸戦隊の司令長官、長谷川清中将は、この攻撃が真の開戦を意味するものと判断。
日本政府に5個師団の増援を依頼したことで、国際都市上海を舞台に日中間での武力衝突が現実の気配を帯びてきました。

1937年(昭和12)8月14日 東京朝日新聞
盧溝橋事件のときは、支那駐屯軍の演習中に数発の銃弾が撃ち込まれ、
両軍の衝突で一時は全面戦争の様相を呈しましたが、結果は29軍のあっけない退却で結着がつきました。
が、今回はあらゆる面で中国軍の本気度が違っていました。
上海に大軍を終結させ、7月18日に行った蒋介石の廬山宣言を実現すべく、総力戰で対日抗戦を仕掛けようとしていたのです。
8月14日、この日はどんよりとした曇り空でした。
午前11頃のこと。突然、中国軍機が国際共同租界上空に現れ、周辺に爆弾を落とすという暴挙を起こしたのです。
この空爆は、本来、黄浦江に停泊していた日本の第3艦隊を狙ったものでしたが、
艦船からの対空砲火を避けるために高度を高くして飛ばなくてはならず、誤爆で租界周辺に
落ちてしまったと中国側から遺憾の意を示す表明がありましたが、明らかに故意と思われる
爆弾投下が、「大世界」やキャセイホテルに行われました。
租界への爆弾投下で、外国人を含む2000人以上の人が亡くなり、その中でも一番被害の大きかったのが「大世界」です。

大世界
1917年、上海競馬場近くに建設された魔都上海を代表するエンターテイメント施設。(上海市)
「大世界」といえば上海賭博のメッカとして名高い所で、娯楽の複合施設というべき、魔都上海の中核的存在として人気がありました。
上海競馬場の向かい側に位置し、国際共同租界では一際目立つ奇妙な形をした建物が象徴的。
満州国の皇帝、愛新覚羅溥儀も上海に来れば必ず立ち寄ったという施設で、
内部には大劇場、演芸場、賭博場、映画館、酒場、そればかりか、阿片窟から売春窟まで一切
を兼ね備えていました。
上海上陸作戦の決行。
8月15日、日本陸軍は居留民保護を名目に上海派遣軍を決定し、その司令官に松井岩根大将を任命します。
そして8月22日、上海派遣軍司令官・松井岩根大将は2個師団を率いて上海北部沿岸に上陸を敢行。日本と中国の全面戦争が始まることになります。
この時、中国軍の上海防衛隊の戦力は強化され、50万の兵力で迎撃するという、上海派遣軍にとっては厳しい展開が予想されました。
租界に到達するまでには非武装地帯に築かれた2万個以上のトーチカと、網の目のように張り巡らされたクリークを突破しなければならないのです。

1937年(昭和12)8月24日 東京朝日新聞

第2次上海事変の日本軍進路(想像図)
上海を舞台に日中全面戦争の火蓋が切られました。第2次上海事変の勃発です。
この戦いは熾烈を極める壮絶な白兵戦になりました。
日本側は9月の初旬で死者約3000人、それに1万人近い負傷者を出す苦戦を呈し、日本国内では誰もが固唾を呑んで見守る状況が続きました。
9月2日、閣議は従来の「日支事変」を「支那事変」と改称。
10月20日、戦局の打開を図るため、軍中央は第10軍の増派を決定。
4個師団に野戦重歩兵旅団を加え、第4艦隊まで追加した大部隊です。
この援軍に上海派遣軍は大いに奮い立ちます。
11月5日、柳川平助中将率いる第10軍が杭州湾北岸に上陸。
すると上海派遣軍は一気に攻勢に出ました。
この上陸は中国軍を挟み込む作戦で、死闘は約2週間も続きます。
11月12日、多大な犠牲を払いながらも、上海派遣軍は中国軍の防衛線の要である大場鎮(だいじょうちん)を陥落させ、上海全域の制圧に成功するのでした。

1937年(昭和12)11月13日 (東京朝日新聞)
軍中央の指示を無視した南京進軍。
第2次上海事変といわれた日中の激戦で、日本側の損害は莫大なものとなりました。
11月8日までに戦死者約9000人、負傷者は3万人以上にのぼり、日露戦争における奉天会戦以来の犠牲者数になってしまいました。
国民世論は中国憎しの感情で一色となり、上海制圧に際しては日本中が戦勝気分に酔いしれ、
それが国民の戦意を高揚させ、国民党の本拠地である南京まで攻めろ攻めろの大合唱となったことは否めません。
11月7日、陸軍中央は第10軍と上海派遣軍を合体させて「中支那方面軍」という大部隊を編成。
方面軍司令官には松井岩根大将が就任し、この時点で中支那方面軍の兵力は、後方警備を含めて10個師団、その数は22万近いものに膨れ上がったのです。
督戦隊の登場で中国軍は同士討ち。
11月12日に日本軍が上海全域を制圧すると、上海防衛軍はドミノ倒しのように退却を始めました。
その際、中国軍には味方の前線部隊を監視し、もし、逃げる兵士がいたら容赦なく撃ち殺す督戦隊という部隊が設置されていたのです。
南京へ逃げ帰る兵士と督戦隊との間で銃撃戦が展開され、その際、かなりの戦死者が出た模様です。
その上、南京へ退却する際は古来からの常套手段、「堅壁清野」といわれる作戦を敢行し、それは進撃してくる日本軍には何も残さない焦土作戦だった。
いずれにせよ、上海の攻防戦では日本軍もさることながら、中国軍も20万近くの同胞を失い、南京へと退却していったのです。
和平交渉が決裂。
大山事件で船津和平工作が頓挫しても、在中国ドイツ大使のトラウトマンによる和平交渉は進んでいました。
が、どういうわけか、交渉そのものを潰してしまう重大な決断が現地で下されてしまいました。
上海を攻略した時点で、松井岩根大将は政府や軍中央の指示を無視し、兵站が十分に整っていないのに独断で中国軍の追撃と南京攻略の命令を出したのです。
日本国内の世論に押されてのことか、それとも功名心からか、または参謀の具申だったのか。
これまで参謀本部が進めてきたトラウトマン工作は、この段階で完全に反故にされてしまいました。
南京への壮絶なる行軍。
上海から南京までの距離は約300㎞。
しかし、南京までの行程は上海派遣軍と第10軍とでは別々の経路を取りました。
上海派遣軍は太湖の北側を通過して南京へ。
増援部隊の第10軍は太湖の南側を西進し、その後に北上して南京を目指しました。

中支那方面軍の南京への進路(想像図)
ここで言えることは、いずれの部隊も急げ急げの強行軍だったことです。
それ故、民家での食料調達が強引だったり、敵兵を捕まえても与える食料がないから殺してしまうこともあったとか。
いったい何でそんなに急ぐ必要があったのか。
故郷に錦でも飾ろうというのか、上海派遣軍と第10軍の先陣争いは熾烈を極めたそうです。
11月5日に杭州湾北部に上陸した第10軍は、南京までを迂回し、約400㎞の行程を約20㎏の装備を背負って1日15㎞から20㎞で行軍しました。
それに比べて上海派遣軍は3ヵ月間の激戦を押しての進軍でした。
中支那方面軍の総兵力は約22万。
そのうち約半分の10万の軍勢が南京へと向かったのです。
しかし、その行軍は地獄の様相を呈し、後々に大きな禍根を残してしまいます。
中支那方面軍の南京への進撃は、逃げる中国軍と入り交じっての戦いながらの進軍となりました。
現地の民家で食料を調達するのは両軍とも同じ。
でも、雨が降って道はぬかるみ、時には雪交じりの悪天候です。
この進軍は日本軍にとっては条件的に不利でした。
クリークに橋をかけての進軍は、中国軍による銃弾の嵐を招き恰好の標的となってしまう。
武器弾薬を運ぶ車両はぬかるみ地獄で立ち往生、兵隊は道で滑ってクリークに転落、その有様は過酷という一言に尽きました。
中国軍による堅壁清野作戦の後を行くのは、常識をはるかに越えた困難が待ち受けていたのです。
12月1日、軍中央は命令無視の中支那方面軍司令官、松井岩根大将に対し南京攻略を追認しました。
このやりかたは6年前の満州事変の時とそっくりでした。
あの時は、関東軍の独断で南満州鉄道周辺を爆破(柳条湖事件)し、
それを中国側の仕業と見せかけて、すぐさま奉天城を攻略、満州全域に戦線を
拡大したのを事後承諾によって正当化したものでした。
南京から逃亡した蒋介石。
12月7日、南京城内では予想外のことが起こりました。
事もあろうに蒋介石が南京を飛行機で脱出したというのです。
翌日、後を託された南京防衛軍司令官の唐生智は、城門を閉め、土嚢を積み上げて籠城作戦に切り替えました。
12月9日、上海から進軍してきた中支那方面軍が南京城に到着。
すぐさま、中華門、中山門、太平門、和平門等に各師団を配置して攻撃態勢を整えます。

中華門
周囲約34㎞の南京城壁のうち、中華門は門というよりは城郭といっても良いほど規模が大きく、城兵3000人が立て籠もることが出来たと言われています。(南京市)

南京城内の図 (想像図)
それまでの南京城内の動きはどうだったのか。
11月19日、南京に在住する15人の外国人からなる国際安全区の設置が公表されました。
欧米人が住んでいる居住区を中心に約4k㎡ の地域を国際安全区として軍事力を排除し、市民を戦争から保護するための避難区域、中立地帯として宣言したのです。
委員長には30年の中国滞在歴のあるドイツ、シーメンス社の中国責任者、ジョン・ラーベが就任しました。
この時点で、南京城内の人口は20万人と警察庁からの発表がありましたが、
裕福な市民はすでに南京から脱出しており、残っている中国市民のほとんどは
逃げるところもなく、金もない貧者で占められていました。
その中には、近郊の郡や村に住み、家を焼かれて城内へ避難してきた周辺住民もかなりいたようです。

ジョン・ラーベの自宅
ドイツ・シーメンス社の在中国責任者、ジョン・ラーベは国際安全区の委員長として、当時は自宅まで提供して難民の生活を守ったといわれています。(南京市)
南京大虐殺の真相。
12月10日、南京城を包囲した中支那方面軍は、各門に一斉攻撃を開始しました。
城門の周囲には鉄条網が張り巡らされ、護城河という堀に橋を架けなければ城門を突破することはできません。
工兵が準備作業をする度に城壁の上からは一斉射撃を受けるし、手榴弾が雨のように降ってきます。
城壁の高さは15mもあるし、特に中華門に至っては4重の門から成り、奥行きは130mもありました。

中華門
それでも日本軍は、激戦の上に城門を次々と陥落させていったのです。
当然、次は市街戦になります。
追い詰められた国民党軍は、揚子江から対岸の浦口へ退却しようと船着き場に通ずる「ゆう江門」に殺到しますが、この場に及んでも、友軍の逃亡を阻止する中国督戦隊が待ち構えていたのです。
中国軍の悲劇としか言いようがない。
味方同士の壮絶な撃ち合いが13日の未明まで続き、おびただしい死傷者を出す結果になってしまいました。
この時、司令官の唐生智は南京死守を諦め、8月12日の夜に「ゆう江門」の脇にある狭い通路から脱出するという身勝手な振る舞いに出たのです。
その際、日本軍に降伏の意思表示をしなかったため、国民党各部隊の命令系統はないに等しくなり、
生き延びた中国兵たちはどうして良いのかわからず、結局は軍服を脱ぎ捨て中立地帯の
国際安全区へ逃げ込むか、対岸に泳いで行くしかありません。
しかし、船がありませんから、対岸の浦口に行くには川幅3㎞の揚子江を泳いで渡るしかない。
冬場のことだし、溺れ死ぬか、途中で日本海軍艦船からの機銃でほとんど全滅だったようです。
戦闘の激しかった中山門や中華門、それに「ゆう江門」の下にはおびただしい死体が散乱したと
いわれています。
特に避難道となった「ゆう江門」付近は言語に絶する惨状、死者の山が築かれたというから、その激戦ぶりが窺われます。
12月13日、ついに南京城は陥落。

1937年(昭和12)12月14日 東京朝日新聞
この時、蒋介石の国民党政府は南京から揚子江を遡ること2100㎞上流にある重慶に移り、政府関係の主要部署は900㎞上流の武漢三鎮にありました。
つい1ヵ月前までは中国の首都だった南京の街が、今は日本軍によって完全に制圧され、
占領の証として国民党の本拠地、総統府で陸海軍合同による歴史的式典が行われたのです。
国民総督府にいたる道路には上海派遣軍と第10軍の選抜された兵士が整列し、中山門から
入城した松井岩根大将はそれを閲兵しつつ国民政府に入りました。

1937年(昭和12) 12月16日 東京朝日新聞

総統府
1853年に太平天国の洪秀全が大王府を置いて以来、中国政府の中枢として使用されてきました。南京政府の蒋介石総統は、重慶に遷都するまで政府の中枢機関をここに置きました。(南京市)
トラウトマン工作は失敗に終わる。
はじめのうちは強気のスタンスで国際連盟に提訴したりしていた蒋介石も、上海の攻防戦で大場鎮が陥落したあたりから和平のテーブルに乗ってくるようになります。
しかし、中支那方面軍が南京を攻略したことで、今度は日本政府が強気になって和平条件を
さらに厳しくして、賠償金まで要求したというから和平交渉が進展するはずがありません。
これでは、まるで中国を敗戦国扱いにするのと同じで、さすがの蒋介石も怒り心頭、拒否するのは当然でしょう。
あまつさえ、条件の上積みを政府4相が決めたというから、和平交渉を進めていた参謀本部の方が逆に面食らうという始末でした。
満州事変の時は関東軍の暴走に政府が待ったをかけたのに、
今度は政府が和平案を潰してしまうのだから、近衛内閣の一貫性のなさや、
世論の動向に左右される決断を、石原完爾が「首相は日本を潰す気か」
と指摘したのは当然でしょう。
因みに、ここでの政府4相とは、首相の近衛文麿の他、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政を指します。
南京大虐殺はあったのか。
南京侵攻は、どう考えても無謀な作戦であったことは間違いありません。
8月に始まった上海戦で3万人を超す多大な死傷者を出しながら、その後も休む間もなく南京へ進軍しなければならなかった。
それも徒歩で300㎞。第10軍にしては400㎞の行軍です。
連戦で疲れ切った兵に十分な食料もなければ衣料もない。
あいにく、この季節としては異常ともいえる雨量の多さに道はぬかるみ、足を滑らせてクリークに落ちる兵も続出するという悪条件でした。
そんな状況下で、食料を途中の敵国民家で調達しなければならないという理不尽さ。
何とも計画性のない作戦が、良からぬ憶測を呼び起こす結果になってしまいます。
中支那方面軍は2つのルートで南京を目指し、その兵力は総数で約10万という大軍です。
それが小さな村々で数人から数十人の規模で民家を訪ね、食料調達の交渉をしなければならない。
そこには当然に拒否する者もいただろうし、中国兵が便衣で攻撃してくる場合もあったはず。
日中両軍が戦いながらの入り交じっての行軍。
どさくさの中で、実際にどのくらいの虐殺が行われたのかなど、詳細を把握することは困難でしょう。
南京城内の人口は11月末時点で約20万人。近郊には150万人ほどの市民が住んでいたといわれています。

南京駅(新幹線)から玄武湖を望む(南京市)
規模は別として、進軍途中で虐殺があったことは否定できないでしょう。
でも、退却した中国兵が軍服を脱ぎ捨て民家に隠れたり、時には襲ってきたりで、
それでなくても中国兵は後から追いかける日本兵に何も残さないという常套手段、
堅壁清野作戦を取ってすべてを破壊しつくしています。
日本軍にとっては、厳しい、辛い、やむを得ない状況下であったことは頷けます。
が、そんなことは始めから予想がつくこと。
無謀な作戦を指示した方面軍司令官や参謀たちの誤った決断だった、と簡単に片付けて良い問題ではない。
南京城内の人口はおよそ20万人。
逃げてきた中国兵を合わせると30万程度がいたと思われます。
しかし、城内には各国の大使館もあるし、記者を含めた外国人関係者も相当いたはずです。
人目はあるし、シーメンス社のラーベを委員長に国際安全区も設置されていることから、
城内で日本軍が虐殺や暴行の限りを尽くすのは、どう考えても無理があるように思えてなりません。

日本領事館跡 当時、国際安全区にあった日本領事館の跡(南京市)

南京大虐殺記念館の入り口。30万の文字が刻まれています。(南京市)
では、何故、中国側は30万人が日本軍によって虐殺されたと報じたのか。
侵略された中国側が、事の悲惨性を世界に向かって誇張するのはしかたがない。
それでは虐殺がなかったのか。
と言われれば、なかったとは言い切れないでしょう。
11月12日に上海を制圧した上海派遣軍は、11月5日に杭州湾に上陸した第10軍とともに、二手に分かれて合計10万の軍勢が南京を目指したのです。
進軍途中で何があったのか。
食料を現地調達する計画がどんな無残な結果を招くのか。
退却した中国兵が軍服を脱ぎ捨て便衣で民家に潜んでいる中、そんな状況が日本軍に限りない恐怖心を与え、それ故、相手の確認を怠ったり、防衛本能から殺人に及んだことも否定できません。
第16師団・第9連隊の2人が100人切りの競争をしたとかしないとか。
東京日日新聞の記事の信憑性はともかく、進軍する先々で毎日のように人が殺されていく現状を
見ていると、神経が麻痺してしまうのか、それとも慣れっこになってしまうのか、
人を殺すのに特別な感情がなくなってしまう、とある戦争体験者は語ります。
これが戦争だと簡単に片付けて良いのか。
8月17日には日本軍の南京総統府への入城式が行われました。
その時、朝香宮中将が閲兵されるんで、その身に何かあってはいけないと、
徹底的に便衣狩りを行ったのも城内の悲劇を生んだ一因であったとか。
補給の整わない進軍が、あまりにも大きな負の代償であったことは確かです。

南京大虐殺記念館に建つオブジェ
英語名はファミリーとなっていますが、中国人はこの像を母と呼んでいます。(南京市)
30万人が虐殺されたという中国側の主張が正しいかどうかは別として、それが3万人なのか、5万人なのか、いや10万人なのか、数の問題ではない。
戦争故、多少なりとも非人道的な行為はあっただろう。
大切なことは、今、その事実を反省しながら、正しい歴史認識をもって後世に引き継ぐことではないでしょうか。
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