盧溝橋事件の現場を訪ねて
1937年(昭和12)7月7日、夏の太陽が燦々と照りつけ、北京の日中温度は32度を超す猛暑でした。
その夜こと、盧溝橋事件は起きます。
盧溝橋より少し上流、東側の河川敷野原で夜間演習を行っていた支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊に、宛平県城の中国軍より実弾が数発撃ち込まれたのです。
この事件によって日中戦争が始まったといわれる盧溝橋事件ですが、この事件の実態は夜間演習中の支那駐屯軍に中国側が発砲した事件で、中国側の誰が発砲したかが論点になりました。
国民党との共闘を急ぐ共産党分子の仕業か、それとも第29軍の正規軍なのか。
事件そのものは小競り合いで終息し、停戦協定が成立して一旦は小康状態を保ちました。
重要なことはこの事件の背景を分析することで、なぜ、この事件が起きたのかです。
盧溝橋事件の発生から南京占領まで戦闘が続きます。
日中双方の思惑がこの事件の裏に隠されていたのです。

1937年(昭和12年)7月9日 東京朝日新聞
盧溝橋事件発生までの時代的背景を分析することで、その真相に迫ります。

盧溝橋付近の地図 (想像図)
満州事変(1931年9月18日)が勃発し、盧溝橋事件に至るまでの6年間、日本の政治の方向性がどう変化したか。
それに伴って軍部の動向はどうであったか。
満州国の成立から中国本土への侵出がどんなプロセスで進んで行ったのか、盧溝橋事件を知る意味で重要なことになります。
盧溝橋は、豊台駐屯地から西へ2㎞の地点にある永平河に架かる美しい石橋です。
袂には「廬溝暁月」と刻まれた乾隆帝直筆と言われる石碑があり、欧米ではマルコポーロ橋と呼ばれ、橋の東側には宛平県城が高い城壁で仕切られていました。

盧溝橋 中州から宛平県城を望む (北京市)

盧溝橋の袂にある「廬溝暁月」の碑
日本軍がなぜ、中国本土に駐兵出来たのか。
日本軍が満州の地ではない中国本土に、それも首都だった北京になぜ駐屯出来たのでしょうか。
その根拠は1900年(明治33)に起きた義和団の乱、いわゆる北清事変の講和条約に基づくものでした。
しかし、当時の常識では、駐兵目的はあくまでも「公使館の安全」と「居留民の保護」、それに北京と海浜間の「自由交通の維持」に限定されていました。
それが豊台のように北京の中心から離れた地域となると、果たして駐兵目的に適っていたのでしょうか。
むしろ中国側の視点に立てば、その行為を侵略と見るのは当然だったかもしれない。
それでも支那駐屯軍は1000人以上を駐屯させ、毎日のように夜間に軍事演習を繰り返すという無頓着さ。
一触即発、軍事衝突に及ぶのは時間の問題でした。
支那駐屯軍第1連隊第3大隊が駐屯していた豊台という所は、どんな場所だったのか。
日本軍が新たに駐屯した豊台は、北京の南西16㎞にあって宛平県城とは目と鼻の先でした。
いつ衝突してもおかしくない状況だったのは確かです。
日本軍は義和団の乱終了後、当初から華北に2000人という、他の列強諸国とは比較にならないほどの駐兵数を誇り、それにも増して新地域の豊台に兵舎を建設して第3大隊を設置する理由はどこにあったのか。
この頃、支那駐屯軍の兵力は5700人に増強されていました。

当時の豊台駅 現在は貨物専用の駅として使用されています。
塘沽停戦協定が、日本の中国本土侵出を決定づけました。
1933年(昭和8)5月31日、天津郊外の港、塘沽(たんくー)で関東軍と国民党軍との間で塘沽停戦協定が締結されました。
国際連盟を脱退した日本が、当時の熱河省の領有権をめぐって国民党軍と衝突。執拗に攻め込んでくる張学良軍に対し、関東軍が関内作戦という本土侵攻作戦を裁可を得て実行、北京郊外まで逆に攻め上ったことによって国民党側が停戦を申し入れてきたことによる協定でした。
日本にとっては、実に有利な条件で締結しました。
この協定によって、河北省の一部に広大な非武装地帯が設定されたのです。

停戦協定を報じる新聞記事 1933年(昭和8)6月1日 東京朝日新聞

旧塘沽駅の駅舎
この一角で塘沽停戦協定が調印されました。現在は歴史保存建物として指定されています。
この非武装地帯が日本の中国本土侵出への足がかりとなり、「梅津・何応欽協定」や「土肥原・秦徳純協定」を実現させ、延いては日本の傀儡といわれた冀東防共自治政府の誕生、それに対抗する冀察政務委員会の成立に繋がったことは周知の事実です。
華北分離工作を仕掛ける支那駐屯軍。
満州事変によって広大な満州の地に基盤を築いた関東軍。
当初は南満州鉄道や軽便鉄道の守備兵として配備されたものが、そのうち租借地や沿線付属地の治安まで担当し、満州国では日満連合軍としてその存在価値を高めていました。
そんな中、中国では蒋介石の国民党軍とコミンテルンの援助を受けた中華ソビエト共和国が何年もの間、睨み合いを続けており、国民党軍は100万の大軍を擁して1934年(昭和9)の秋、中華ソビエトの本拠地、江西省・瑞金に総攻撃を仕掛けました。
これを好機と見た支那駐屯軍は、中国側のどさくさを利用し、将来的には非武装地帯に限らず華北5省全体を南京政府から分離させる青写真を描き、傀儡政権を立ち上げることで資源的確保の実現を視野に入れ始めます。
河北省に日本の傀儡政権、冀東防共自治政府が誕生。
塘沽停戦協定の成立で、中国河北省の東北部に非武装地帯が設定されました。
その範囲は、北京の中心部から北方80㎞にある延慶から東南方向の寧河を通って渤海湾までのラインが境界線となり、その以北、以東と決められたのです。
その線上の都市には、北京の中心から30㎞にある昌平、25㎞の順慶、20㎞の通州があり、北京の中心部から非常に近い地点に非武装地帯の境界線が引かれました。

1935年(昭和10)11月25日 東京朝日新聞

非武装地帯の境界線 (想像図)
この広大な河北省の一部に、日本の傀儡政権、冀東防共自治政府が1935年(昭和10)12月15日に誕生したのです。
政務長官には親日派の殷汝耕が就任し、首都には北京の東20㎞にある通州が指定されました。
成立の背景にはもちろん日本の意向が存在し、特務機関の土肥原賢二(終戦後に東京裁判で死刑判決)が資金を援助、全てをコントロールしたことは言うまでもありません。

河北省と冀東防共自治政府の範囲 (想像図)

当時の通州駅 現在は保存建物になっています。(北京市・通州区)
国民党は冀察政務委員会で日本に対抗。
蒋介石は裏切り者として殷汝耕に逮捕命令を出しました。
関東軍による中国本土の傀儡化が、これ以上のスピードで拡大することに強い懸念を感じたのです。
そこで別の自治政府の成立を検討し始めるのですが、すると早くも3日後の1935年12月18日、冀察政務委員会という自治政権が誕生することになります。
実態は南京政府の支配下に置くものの、表面上は民衆による北支自治運動の形式をとりました。
冀察政務委員会の委員長に就任したのは、元察哈爾省(チャハル)政府主席で第29軍の軍団長の宋哲元でした。

1935年(昭和10)12月19日 東京朝日新聞

冀察政務委員会の範囲 (想像図)
西安事件が中国を抗日で結束させる結果に・・・。
1936年(昭和11)12月に発生した西安事件は、今まで対立していた中国国民党と中国共産党を抗日対策で同じ土俵に乗せ、中国を団結させる結果になってしまいました。
12年ぶりの第2次国共合作の成立で、国民党と共産党が一致団結して日本に立ち向かう舞台が整い、ここに盧溝橋事件を引き起こす背景があったと思われます。

総統府 南京にある国民党の本部

華清池にある蒋介石の司令部跡 (西安市)

1936年(昭和11)12月13日 東京朝日新聞
この時点で、日本の傀儡政権である冀東防共自治政府や、国民党を背後にもつ冀察政務委員会は、中国が一つにまとまることで、早くもその存在価値を失いつつありました。
盧溝橋事件後に蒋介石が大本営を発表すると、中国共産党は第8路軍として国民党軍の配下に入り、ここに中国は一致団結して日本に対抗することになります。
宛平県城とはどんな所だったのか。
北京に通ずる城門の一つでした。
当時はこの城郭に2000人ほどが生活しており、宋哲元率いる冀察政務委員会に属し、守備隊は中国軍第29軍が担当していました。
その脇の空き地で毎日のように軍事演習する日本の支那駐屯軍、北京を中心に対日批判は日毎に増長し、双方は一触即発の状況に入ります。

宛平県城 永平河に面する宛平県城西側の門

宛平県城にある東側の門
盧溝橋事件後に起きた廊坊事件と広安門事件。
7月7日に発生した盧溝橋事件のあと、7月17日に蒋介石が廬山で発表した「最後の関頭」は、中国が日本に対し事実上の宣戦布告を匂わす演説となりました。
すると、中国側は日本軍に軍事攻撃を仕掛けさせる挑発的な事件を立て続けに起こします。
7月25日に起きた廊坊事件、もう一つが広安門事件です。(廊坊事件)
北京と天津の間に廊坊という町がありますが、7月25日、軍用電話線修理に派遣された朝鮮軍第20個師団五ノ井中隊が、廊坊駅の周辺で中国軍に包囲されて発砲されるという事件が起きました。

1937年(昭和12)7月27日 東京朝日新聞 (広安門事件)
そして翌日の26日、今度は北京の広安門で大きな事件が起きてしまいました。
居留民保護の名目で第20師団の広部大隊がトラック27台を連ねて広安門を通過した所、突然、途中で門が閉められたのです。
そして、城門守備の中国兵に一斉射撃を受けるという、この事件で死傷者6名を出した広安門事件です。

1937年(昭和12)7月27日 東京朝日新聞
立て続けに起きた2つの事件で、日本政府は今までの不拡大方針を変更せざるおえなくなってしまいます。
政府はこの時点で、「北支事変」を「日支事変」と改めます。
蒋介石は何故、「最後の関頭」を演説したのか。
7月17日の土曜日、保養地で有名な江西省・廬山で、蒋介石は国民に向かって「最後の関頭」という演説を行いました。
この演説は19日になって世界へ公表されましたが、内容は蒋介石の日本への決戦の決意そのものでした。
「最後の関頭」の要旨は次のようなものでした。
「満州といわれる東3省が占領され、すでに6年が経過している。
この事実だけをもってしても、中国国民の忍耐の限度をすでに超えている。
それなのに日本は今、北京の入り口まで迫り、言い掛かりをつけては盧溝橋付近で夜間軍事演習を行っている。
私の任務は中国国民の生命を守ることであり、もし「最後の関頭」に直面したならば、中国全民族の命を賭して国家の存続を図るのみだ。
その時、中途半端に妥協することは許されない。
あらゆる犠牲を払ってでも徹底的に抗戦するしかない。今、その時が来たのだ・・・」

1937年(昭和12)7月20日 東京朝日新聞
この演説は事実上の対日宣戦布告でした。
今後は停戦や休戦の申し込みは負けを意味する行為になるとし、ついに日中全面戦争の導火線に火がつけられたといっても良い。
これによって中国軍と中国国民の間に抗日抗戦意欲が一気に高まります。
今まで、日本と妥協を重ねてきた蒋介石が、何でまた決意を新たにしたのか。
それはずばり、日本政府への不信感からでした。
停戦協定を無視した近衛内閣の北支への増派。
中国軍による数発の発砲で双方が激突した盧溝橋事件。
7月9日には停戦が行われ、11日には現地で停戦協定が結ばれました。
日本側はこの事件を北支事変と命名しています。
ここからが近衛内閣の暴走の始まりでした。
不拡大方針を決めておきながら、10日に関東軍より2個師団、朝鮮軍より1個師団、内地から3個師団の派兵を決定したのです。
たまたま内地の3個師団は停戦協定の成立で動員を見合わせましたが、この決定自体、日本の中国に対する侵略姿勢が問われても仕方がない決断でした。
日本は好戦的な国、国の指導者は二枚舌、言っていることとやることが違うではないか、中国側にはそう映ったのでしょう。

1937年(昭和12)7月12日 東京朝日新聞
蒋介石は我慢の限界だった。
廊坊事件や広安門事件は、日本を挑発する中国側の仕掛けだった可能生が考えられます。
支那駐屯軍が最初に攻撃すれば、それは完全なる他国への侵略となって国際的非難を浴びることになる。
だから支那駐屯軍の方から攻撃することは出来ない。
それを承知で、蒋介石は仕掛けを催促するような挑発的事件を起こしたのではないか。
欧米列強に日本の侵略の事実を訴え、日本を国際的に孤立させる手段を選んだということになります。
そして7月28日の払暁、支那駐屯軍はまんまと中国側の挑発に支那駐屯軍は乗ってしまうのです。
ここに宛平県城への総攻撃が始まります。
盧溝橋事件の後、支那駐屯軍による宛平県城総攻撃が始まり、日中戦争は本格化していきます。
7月28日の未明、ついに日本側から戦闘を仕掛けてしまいました。
支那駐屯軍は北京にある第29軍兵舎や宛平県城に全面攻撃を行ったのです。
日中全面戦争に繋がる大規模な局地戦が展開されたと言っていいでしょう。

1937年(昭和12)7月29日 東京朝日新聞
しかし、支那駐屯軍による宛平県城攻撃は予想以上に早く終結してしまい、たった1日で北京の第29軍は退却してしまったのです。
支那駐屯軍は北京市内と宛平県城を簡単に制圧してしまいました。

宛平県城の城壁に残る砲弾の跡
北京に駐兵する第29軍は5万以上の兵力を持っているのに、支那駐屯軍は6千人弱。
どうして1日足らずで第29軍は退却してしまったのか。
これは中国側の挑発だったからです。
中国側にしてみれば、歴史の街である北京を戦場にしたくなかったという気持ちはあったはず。
しかし、その裏に隠されている真相は、日本軍を満州から遠く離れた上海におびき寄せ、日本の中国侵略の事実を世界にアピールする狙いがあったと考えられます。
いずれにしても、7月28日の日本軍による宛平県城の総攻撃は、日中全面戦争の入り口であったことは確かです。

中国人民抗日記念館
宛平県城内にあって、日本の中国侵略をテーマにした記念館
翌日には冀東防共自治政府の首都、通州で見るも無惨な虐殺事件、通州事件が発生しました。
200人以上の日本人が中国保安隊に殺されるという、17年前にシベリアで起きた尼港事件を彷彿させる虐殺事件です。

当時の通州駅前からまっすぐ走る通り。
この先に通州城がありました。

1937年(昭和12)8月4日 東京朝日新聞

1937年(昭和12)8月8日 東京朝日新聞
中国国民の反日感情は激昂し、中国全土に抗日運動が展開、もはや日中両国の衝突は止められない領域に突入してしまいました。
そんな中、上海を舞台に日中間の壮絶な戦いが始まろうとしていました。
1937年(昭和12)8月から始まったウースン上陸作戦は、両軍が威信をかけて戦った血みどろの戦闘になりました。
第2次上海事変と呼ばれる空前絶後の戦いでした。
この段階で一旦、蒋介石は和平のテーブルにつきますが、近衛政権の驕り高ぶりは絶頂、トラウトマン工作を結局は無視して猪突猛進。
おまけに現地司令官の松井岩根大将は陸軍中枢の深追い禁止命令を無視して南京まで侵攻するという、これが後世まで引きずる南京事件に繋がってしまうとは、あの時点で誰が予想し得たでしょうか・・・。
盧溝橋事件発生からわずか5ヵ月間で、日本軍は中国の首都南京を陥落させてしまいますが、これによって日中全面戦争は泥沼の様相を呈していきます。
1937年(昭和12)7月7日、支那駐屯軍の夜間演習中に際し、中国側からの発砲は、まるでこうなることを予想したかのような銃声に聞こえてならないのですが・・・。
大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう
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その夜こと、盧溝橋事件は起きます。
盧溝橋より少し上流、東側の河川敷野原で夜間演習を行っていた支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊に、宛平県城の中国軍より実弾が数発撃ち込まれたのです。
この事件によって日中戦争が始まったといわれる盧溝橋事件ですが、この事件の実態は夜間演習中の支那駐屯軍に中国側が発砲した事件で、中国側の誰が発砲したかが論点になりました。
国民党との共闘を急ぐ共産党分子の仕業か、それとも第29軍の正規軍なのか。
事件そのものは小競り合いで終息し、停戦協定が成立して一旦は小康状態を保ちました。
重要なことはこの事件の背景を分析することで、なぜ、この事件が起きたのかです。
盧溝橋事件の発生から南京占領まで戦闘が続きます。
日中双方の思惑がこの事件の裏に隠されていたのです。

1937年(昭和12年)7月9日 東京朝日新聞
盧溝橋事件発生までの時代的背景を分析することで、その真相に迫ります。

盧溝橋付近の地図 (想像図)
満州事変(1931年9月18日)が勃発し、盧溝橋事件に至るまでの6年間、日本の政治の方向性がどう変化したか。
それに伴って軍部の動向はどうであったか。
満州国の成立から中国本土への侵出がどんなプロセスで進んで行ったのか、盧溝橋事件を知る意味で重要なことになります。
盧溝橋は、豊台駐屯地から西へ2㎞の地点にある永平河に架かる美しい石橋です。
袂には「廬溝暁月」と刻まれた乾隆帝直筆と言われる石碑があり、欧米ではマルコポーロ橋と呼ばれ、橋の東側には宛平県城が高い城壁で仕切られていました。

盧溝橋 中州から宛平県城を望む (北京市)

盧溝橋の袂にある「廬溝暁月」の碑
日本軍がなぜ、中国本土に駐兵出来たのか。
日本軍が満州の地ではない中国本土に、それも首都だった北京になぜ駐屯出来たのでしょうか。
その根拠は1900年(明治33)に起きた義和団の乱、いわゆる北清事変の講和条約に基づくものでした。
しかし、当時の常識では、駐兵目的はあくまでも「公使館の安全」と「居留民の保護」、それに北京と海浜間の「自由交通の維持」に限定されていました。
それが豊台のように北京の中心から離れた地域となると、果たして駐兵目的に適っていたのでしょうか。
むしろ中国側の視点に立てば、その行為を侵略と見るのは当然だったかもしれない。
それでも支那駐屯軍は1000人以上を駐屯させ、毎日のように夜間に軍事演習を繰り返すという無頓着さ。
一触即発、軍事衝突に及ぶのは時間の問題でした。
支那駐屯軍第1連隊第3大隊が駐屯していた豊台という所は、どんな場所だったのか。
日本軍が新たに駐屯した豊台は、北京の南西16㎞にあって宛平県城とは目と鼻の先でした。
いつ衝突してもおかしくない状況だったのは確かです。
日本軍は義和団の乱終了後、当初から華北に2000人という、他の列強諸国とは比較にならないほどの駐兵数を誇り、それにも増して新地域の豊台に兵舎を建設して第3大隊を設置する理由はどこにあったのか。
この頃、支那駐屯軍の兵力は5700人に増強されていました。

当時の豊台駅 現在は貨物専用の駅として使用されています。
塘沽停戦協定が、日本の中国本土侵出を決定づけました。
1933年(昭和8)5月31日、天津郊外の港、塘沽(たんくー)で関東軍と国民党軍との間で塘沽停戦協定が締結されました。
国際連盟を脱退した日本が、当時の熱河省の領有権をめぐって国民党軍と衝突。執拗に攻め込んでくる張学良軍に対し、関東軍が関内作戦という本土侵攻作戦を裁可を得て実行、北京郊外まで逆に攻め上ったことによって国民党側が停戦を申し入れてきたことによる協定でした。
日本にとっては、実に有利な条件で締結しました。
この協定によって、河北省の一部に広大な非武装地帯が設定されたのです。

停戦協定を報じる新聞記事 1933年(昭和8)6月1日 東京朝日新聞

旧塘沽駅の駅舎
この一角で塘沽停戦協定が調印されました。現在は歴史保存建物として指定されています。
この非武装地帯が日本の中国本土侵出への足がかりとなり、「梅津・何応欽協定」や「土肥原・秦徳純協定」を実現させ、延いては日本の傀儡といわれた冀東防共自治政府の誕生、それに対抗する冀察政務委員会の成立に繋がったことは周知の事実です。
華北分離工作を仕掛ける支那駐屯軍。
満州事変によって広大な満州の地に基盤を築いた関東軍。
当初は南満州鉄道や軽便鉄道の守備兵として配備されたものが、そのうち租借地や沿線付属地の治安まで担当し、満州国では日満連合軍としてその存在価値を高めていました。
そんな中、中国では蒋介石の国民党軍とコミンテルンの援助を受けた中華ソビエト共和国が何年もの間、睨み合いを続けており、国民党軍は100万の大軍を擁して1934年(昭和9)の秋、中華ソビエトの本拠地、江西省・瑞金に総攻撃を仕掛けました。
これを好機と見た支那駐屯軍は、中国側のどさくさを利用し、将来的には非武装地帯に限らず華北5省全体を南京政府から分離させる青写真を描き、傀儡政権を立ち上げることで資源的確保の実現を視野に入れ始めます。
河北省に日本の傀儡政権、冀東防共自治政府が誕生。
塘沽停戦協定の成立で、中国河北省の東北部に非武装地帯が設定されました。
その範囲は、北京の中心部から北方80㎞にある延慶から東南方向の寧河を通って渤海湾までのラインが境界線となり、その以北、以東と決められたのです。
その線上の都市には、北京の中心から30㎞にある昌平、25㎞の順慶、20㎞の通州があり、北京の中心部から非常に近い地点に非武装地帯の境界線が引かれました。

1935年(昭和10)11月25日 東京朝日新聞

非武装地帯の境界線 (想像図)
この広大な河北省の一部に、日本の傀儡政権、冀東防共自治政府が1935年(昭和10)12月15日に誕生したのです。
政務長官には親日派の殷汝耕が就任し、首都には北京の東20㎞にある通州が指定されました。
成立の背景にはもちろん日本の意向が存在し、特務機関の土肥原賢二(終戦後に東京裁判で死刑判決)が資金を援助、全てをコントロールしたことは言うまでもありません。

河北省と冀東防共自治政府の範囲 (想像図)

当時の通州駅 現在は保存建物になっています。(北京市・通州区)
国民党は冀察政務委員会で日本に対抗。
蒋介石は裏切り者として殷汝耕に逮捕命令を出しました。
関東軍による中国本土の傀儡化が、これ以上のスピードで拡大することに強い懸念を感じたのです。
そこで別の自治政府の成立を検討し始めるのですが、すると早くも3日後の1935年12月18日、冀察政務委員会という自治政権が誕生することになります。
実態は南京政府の支配下に置くものの、表面上は民衆による北支自治運動の形式をとりました。
冀察政務委員会の委員長に就任したのは、元察哈爾省(チャハル)政府主席で第29軍の軍団長の宋哲元でした。

1935年(昭和10)12月19日 東京朝日新聞

冀察政務委員会の範囲 (想像図)
西安事件が中国を抗日で結束させる結果に・・・。
1936年(昭和11)12月に発生した西安事件は、今まで対立していた中国国民党と中国共産党を抗日対策で同じ土俵に乗せ、中国を団結させる結果になってしまいました。
12年ぶりの第2次国共合作の成立で、国民党と共産党が一致団結して日本に立ち向かう舞台が整い、ここに盧溝橋事件を引き起こす背景があったと思われます。

総統府 南京にある国民党の本部

華清池にある蒋介石の司令部跡 (西安市)

1936年(昭和11)12月13日 東京朝日新聞
この時点で、日本の傀儡政権である冀東防共自治政府や、国民党を背後にもつ冀察政務委員会は、中国が一つにまとまることで、早くもその存在価値を失いつつありました。
盧溝橋事件後に蒋介石が大本営を発表すると、中国共産党は第8路軍として国民党軍の配下に入り、ここに中国は一致団結して日本に対抗することになります。
宛平県城とはどんな所だったのか。
北京に通ずる城門の一つでした。
当時はこの城郭に2000人ほどが生活しており、宋哲元率いる冀察政務委員会に属し、守備隊は中国軍第29軍が担当していました。
その脇の空き地で毎日のように軍事演習する日本の支那駐屯軍、北京を中心に対日批判は日毎に増長し、双方は一触即発の状況に入ります。

宛平県城 永平河に面する宛平県城西側の門

宛平県城にある東側の門
盧溝橋事件後に起きた廊坊事件と広安門事件。
7月7日に発生した盧溝橋事件のあと、7月17日に蒋介石が廬山で発表した「最後の関頭」は、中国が日本に対し事実上の宣戦布告を匂わす演説となりました。
すると、中国側は日本軍に軍事攻撃を仕掛けさせる挑発的な事件を立て続けに起こします。
7月25日に起きた廊坊事件、もう一つが広安門事件です。(廊坊事件)
北京と天津の間に廊坊という町がありますが、7月25日、軍用電話線修理に派遣された朝鮮軍第20個師団五ノ井中隊が、廊坊駅の周辺で中国軍に包囲されて発砲されるという事件が起きました。

1937年(昭和12)7月27日 東京朝日新聞 (広安門事件)
そして翌日の26日、今度は北京の広安門で大きな事件が起きてしまいました。
居留民保護の名目で第20師団の広部大隊がトラック27台を連ねて広安門を通過した所、突然、途中で門が閉められたのです。
そして、城門守備の中国兵に一斉射撃を受けるという、この事件で死傷者6名を出した広安門事件です。

1937年(昭和12)7月27日 東京朝日新聞
立て続けに起きた2つの事件で、日本政府は今までの不拡大方針を変更せざるおえなくなってしまいます。
政府はこの時点で、「北支事変」を「日支事変」と改めます。
蒋介石は何故、「最後の関頭」を演説したのか。
7月17日の土曜日、保養地で有名な江西省・廬山で、蒋介石は国民に向かって「最後の関頭」という演説を行いました。
この演説は19日になって世界へ公表されましたが、内容は蒋介石の日本への決戦の決意そのものでした。
「最後の関頭」の要旨は次のようなものでした。
「満州といわれる東3省が占領され、すでに6年が経過している。
この事実だけをもってしても、中国国民の忍耐の限度をすでに超えている。
それなのに日本は今、北京の入り口まで迫り、言い掛かりをつけては盧溝橋付近で夜間軍事演習を行っている。
私の任務は中国国民の生命を守ることであり、もし「最後の関頭」に直面したならば、中国全民族の命を賭して国家の存続を図るのみだ。
その時、中途半端に妥協することは許されない。
あらゆる犠牲を払ってでも徹底的に抗戦するしかない。今、その時が来たのだ・・・」

1937年(昭和12)7月20日 東京朝日新聞
この演説は事実上の対日宣戦布告でした。
今後は停戦や休戦の申し込みは負けを意味する行為になるとし、ついに日中全面戦争の導火線に火がつけられたといっても良い。
これによって中国軍と中国国民の間に抗日抗戦意欲が一気に高まります。
今まで、日本と妥協を重ねてきた蒋介石が、何でまた決意を新たにしたのか。
それはずばり、日本政府への不信感からでした。
停戦協定を無視した近衛内閣の北支への増派。
中国軍による数発の発砲で双方が激突した盧溝橋事件。
7月9日には停戦が行われ、11日には現地で停戦協定が結ばれました。
日本側はこの事件を北支事変と命名しています。
ここからが近衛内閣の暴走の始まりでした。
不拡大方針を決めておきながら、10日に関東軍より2個師団、朝鮮軍より1個師団、内地から3個師団の派兵を決定したのです。
たまたま内地の3個師団は停戦協定の成立で動員を見合わせましたが、この決定自体、日本の中国に対する侵略姿勢が問われても仕方がない決断でした。
日本は好戦的な国、国の指導者は二枚舌、言っていることとやることが違うではないか、中国側にはそう映ったのでしょう。

1937年(昭和12)7月12日 東京朝日新聞
蒋介石は我慢の限界だった。
廊坊事件や広安門事件は、日本を挑発する中国側の仕掛けだった可能生が考えられます。
支那駐屯軍が最初に攻撃すれば、それは完全なる他国への侵略となって国際的非難を浴びることになる。
だから支那駐屯軍の方から攻撃することは出来ない。
それを承知で、蒋介石は仕掛けを催促するような挑発的事件を起こしたのではないか。
欧米列強に日本の侵略の事実を訴え、日本を国際的に孤立させる手段を選んだということになります。
そして7月28日の払暁、支那駐屯軍はまんまと中国側の挑発に支那駐屯軍は乗ってしまうのです。
ここに宛平県城への総攻撃が始まります。
盧溝橋事件の後、支那駐屯軍による宛平県城総攻撃が始まり、日中戦争は本格化していきます。
7月28日の未明、ついに日本側から戦闘を仕掛けてしまいました。
支那駐屯軍は北京にある第29軍兵舎や宛平県城に全面攻撃を行ったのです。
日中全面戦争に繋がる大規模な局地戦が展開されたと言っていいでしょう。

1937年(昭和12)7月29日 東京朝日新聞
しかし、支那駐屯軍による宛平県城攻撃は予想以上に早く終結してしまい、たった1日で北京の第29軍は退却してしまったのです。
支那駐屯軍は北京市内と宛平県城を簡単に制圧してしまいました。

宛平県城の城壁に残る砲弾の跡
北京に駐兵する第29軍は5万以上の兵力を持っているのに、支那駐屯軍は6千人弱。
どうして1日足らずで第29軍は退却してしまったのか。
これは中国側の挑発だったからです。
中国側にしてみれば、歴史の街である北京を戦場にしたくなかったという気持ちはあったはず。
しかし、その裏に隠されている真相は、日本軍を満州から遠く離れた上海におびき寄せ、日本の中国侵略の事実を世界にアピールする狙いがあったと考えられます。
いずれにしても、7月28日の日本軍による宛平県城の総攻撃は、日中全面戦争の入り口であったことは確かです。

中国人民抗日記念館
宛平県城内にあって、日本の中国侵略をテーマにした記念館
翌日には冀東防共自治政府の首都、通州で見るも無惨な虐殺事件、通州事件が発生しました。
200人以上の日本人が中国保安隊に殺されるという、17年前にシベリアで起きた尼港事件を彷彿させる虐殺事件です。

当時の通州駅前からまっすぐ走る通り。
この先に通州城がありました。

1937年(昭和12)8月4日 東京朝日新聞

1937年(昭和12)8月8日 東京朝日新聞
中国国民の反日感情は激昂し、中国全土に抗日運動が展開、もはや日中両国の衝突は止められない領域に突入してしまいました。
そんな中、上海を舞台に日中間の壮絶な戦いが始まろうとしていました。
1937年(昭和12)8月から始まったウースン上陸作戦は、両軍が威信をかけて戦った血みどろの戦闘になりました。
第2次上海事変と呼ばれる空前絶後の戦いでした。
この段階で一旦、蒋介石は和平のテーブルにつきますが、近衛政権の驕り高ぶりは絶頂、トラウトマン工作を結局は無視して猪突猛進。
おまけに現地司令官の松井岩根大将は陸軍中枢の深追い禁止命令を無視して南京まで侵攻するという、これが後世まで引きずる南京事件に繋がってしまうとは、あの時点で誰が予想し得たでしょうか・・・。
盧溝橋事件発生からわずか5ヵ月間で、日本軍は中国の首都南京を陥落させてしまいますが、これによって日中全面戦争は泥沼の様相を呈していきます。
1937年(昭和12)7月7日、支那駐屯軍の夜間演習中に際し、中国側からの発砲は、まるでこうなることを予想したかのような銃声に聞こえてならないのですが・・・。
大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう
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