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226事件の現場を訪ねて・ 前編

226事件の背景                                          

世の中が、やれ満州移住だ、天皇機関説はけしからん、国体を明徴化するんだと云々される中で、1935年(昭和10)8月12日、陸軍内部で衝撃的な事件が発生しました。

陸軍省内で統制派のリーダーといわれた軍務局長、永田鉄山少将が、執務室で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されるという前代未聞の事件が起きたのです。

この背景には、陸軍内部に燻る統制派と皇道派の対立に派生した陸軍士官学校事件、それに真崎甚三郎教育総監の更迭問題が絡んでいました。


陸軍省・参謀本部跡地  陸軍省・参謀本部跡地にある国会前庭洋式庭園の一角 (千代田区)



陸軍省・参謀本部跡地
陸軍省・参謀本部跡地にある国会前庭洋式庭園の一角(千代田区)

       
参謀本部跡地  国会前庭洋式公園内にある水準原点

参謀本部跡地  国会前庭洋式公園内にある水準原点(千代田区)
 

大日本帝国と書かれた水準原点の建物
                  
大日本帝国と書かれた水準原点の建物(千代田区)

 

相沢中佐事件  


陸軍士官学校事件は1934年(昭和9)11月20日、皇道派に属する歩兵第26連隊付、村中孝次大尉と、野砲兵第1連隊付、磯部浅一一等主計が突然、憲兵隊に検挙されたことにはじまります。

その理由は、村中、磯部の両名が政府転覆の軍事クーデターを計画しているとの情報が陸軍省にもたらされたからです。

容疑に関しては、陸軍士官学校生徒を動員して、岡田啓介首相、斎藤実内大臣(前首相)、西園寺公望元老らを暗殺、警視庁を襲撃して荒木貞夫、真崎甚三郎両大将を中心とした軍事政権樹立を目指すクーデターと断定されたのです。

しかし、事実はそうではありませんでした。

事の真相は、士官学校の教官となった辻政信大尉が、生徒を囮に使って村中や磯部のもとへ潜入させ、彼らが不穏なクーデターを計画しているかの如く、デッチ上げの報告をさせたことにありました。

村中と磯部は、事件そのものが統制派が仕組んだ罠だと察し、

辻政信や、そのバックである陸軍省軍務局長・永田鉄山の陰謀であると決めつけ、各方面に意見書や嘆願書を出しますが、まったく梨の礫で取り上げてくれないのです。

結局は拘禁されて取り調べを受けた挙げ句、最終的には解職処分となってしまいました。


陸軍士官学校跡  現在は防衛省 (新宿区)

     陸軍士官学校跡  現在は防衛省 (新宿区)


この事件は、士官学校事件とか11月事件といわれますが、陸軍省軍務局長・永田鉄山の息の掛かった辻政信大尉が士官学校教官の立場を利用して、皇道派の急先鋒、村中孝次大尉と磯部浅一一等主計らを追い落とす策略だったといわれています。

それからまもなくのこと、皇道派の重鎮、真崎甚三郎教育総監が更迭されたのです。 

相沢三郎中佐は自他共に認める剣道の達人でした。

陸軍戸山学校時代には剣道の教官をしており、その時、交流した仲間に村中孝次や磯部浅一らがいました。

思考的には、「陛下に対する絶対的なご奉公」を信条とする皇道派のバリバリです。

相沢中佐の言い分は、真崎教育総監更迭問題は統帥権干犯に抵触することであり、

村中、磯部が主犯とされた士官学校事件についても、解職というのは著しく不当で、彼らの無実を訴えたのです。

その根底には政財界が腐敗している昨今、軍の関係者の中には、軍の威光を借りて陛下の軍隊を私兵化している者がいる。

その代表が永田鉄山であるとの認識をもっていました。

台湾転任の前にした8月10日、相沢中佐は広島県福山から上京し、12日の午前9時30分、三宅坂にある陸軍省の門をくぐりました。

 
旧陸軍省正門前通り (千代田区)

       旧陸軍省正門前通り (千代田区)


9時45分、軍務局長の室のドアは開けっ放しになっていました。

相沢中佐は2階の廊下を歩いて局長室の前で止まります。

衝立ごしに中を確認すると、永田軍務局長の他に2人おり、3人で打ち合わせの最中でした。

相沢中佐はまず軍刀を抜き、一呼吸してから息を止め、いきなり部屋に飛び込みました。

「天誅!」

と叫びながら真っ先に永田局長に斬りかかったのです。


1935年(昭和10)8月14日 東京朝日新聞

     1935年(昭和10)8月14日 東京朝日新聞



すべては一瞬の出来事でした。 



永田軍務局長は52歳、相沢三郎中佐は47歳。

局長室に相沢中佐の軍帽が落ちていたので身柄はすぐに憲兵隊に確保されましたが、白昼堂々と、それも陸軍省の軍務局長室で局長を斬殺するという、何ともおぞましい事件でした。



皇道派と統制派の対立



226事件ではよく陸軍の皇道派の青年将校が中心となって引き起こされたといわれますが、

皇道派とはいったいどのような人たちのことを言うのか。

そして統制派とは・・・。

 
陸軍内部に潜む新興勢力としての改革派、その中が2つのグループに分かれ、一つが皇道派でもう一つが統制派です。

特に柳条湖事件が起きた翌月、陸軍の若手将校が中心となって「10月事件」という、未遂に終わったものの軍事政権樹立を目指したクーデターが計画されましたが、この頃から2つのグループは目立って対抗するようになります。


荒木貞夫、真崎甚三郎両大将(柳条湖事件当時は中将)を中心とした皇道派。

それに対し、「10月事件」を中止させた頃から、永田鉄山少将を筆頭に総力戦態勢の確立を目指すのが統制派といわれました。
  
統制派の考えは、軍による統制経済の上で、高度国防国家の観点から財閥や官僚と力を合わせ国家総動員体制を目指すことにあります。

それに対し、皇道派は最終的に総力戦を目指すのは同じでも、その手段が統制派とは大きく違うのです。

あくまでも天皇制を中心とした一君万民の思想による国体至上主義というか、言い換えれば天皇の傍にいて助言をする君側の妖たちを排除し、政財界との癒着を断ち切り、最終的には天皇が大権を発動して、軍部が政治・経済を動かす体制をつくることが目的になっていました。

皇道派のバイブルとなっていたのが、北一輝の執筆した

「日本改造法案大綱」です。

この本の言わんとしていることは、天皇の大権を強調して私有財産の制限と大資本の国有化、すべての資本を国家管理とする国家社会主義革命を説いています。

両派の違いは軍事政権の確立と総力戦態勢づくりは同じであっても、そこに到達するまでの方法論に違いがあります。

ソ連主戦論(皇道派)と中国主戦論(統制派)に分けられるとも言われますが、近代型戦争を手本とする統制派と、天皇を頂点として上下一貫、強い精神的な結束を基本とした古典的タイプの皇道派は、とても相容れられるものではありませんでした。

皇道派青年たちの怒りは頂点に!  

1935年(昭和10)を振り返ると、天皇機関説に始まって2回に及ぶ政府の国体明徴声明、そして相沢事件と、日本が軍国主義に突っ走る姿が浮き彫りになった年と言えます。

また、この年は国号問題が帝国議会で取り上げられ、

日本の国名が正式に「大日本帝国」と統一された年でもありました。

皇道派将校の不法逮捕が問題になった陸軍士官学校事件。

それに続くのが皇道派の重鎮、真崎甚三郎教育総監の更迭問題です。

これには統帥権干犯の疑いがあるとして、皇道派は猛然と抗議をしました。


1935年(昭和10)7月16日  東京朝日新聞

       1935年(昭和10)7月16日  東京朝日新聞                   


ここまで来ると皇道派の怒りはもう尋常ではなく、ついに堪忍袋の緒を切らした1人の愛国の志が出現しました。

相沢三郎中佐です。

相沢事件によって林陸相は辞任。

新たな陸軍大臣として、中立派の川島義之大将が就任します。


935年(昭和10)9月6日  東京朝日新聞

    1935年(昭和10)9月6日  東京朝日新聞  
                    

これら一連の事件に対し、皇道派の青年将校たちは義憤や憂国の念にかられ、機会ある事に皇道派の重鎮たちに面会を求め、意見を交わしては同調を求めました。

そういう行動に、軍部や政府関係者、そして宮中までもが、皇道派の青年将校たちのただならぬ雰囲気に危機感を感じ取っていたのです。


 
ロンドン軍縮条約からの脱退



さて、皇道派の一部の青年将校たちに決起の懸念が高まる中、国際的な問題として世界を揺るがす、さらなる日本を孤立化させる事態が発生しました。

1933年(昭和8)に国際連盟を脱退した日本が、もう一つの世界条約である海軍軍縮条約の本会議から脱退するというニュースが飛び込んできたのです。

1936年(昭和11)1月15日、日本は予備交渉での不調を理由に正式に脱退を表明しました。


1936年(昭和11)1月16日  東京朝日新聞

       1936年(昭和11)1月16日  東京朝日新聞


これで世界は、海軍軍備を自粛制限する時代に終わりを告げ、今度は他国からの干渉を受けることなく自由に海軍力を増強できる、いわゆる健艦競争の時代に突入することになります。

特に日本の場合は、米英に対する戦争への準備が背景にあり、世界における立場はますます孤立、以後、難しい舵取りを迫られることになります。



決起への前段階



陸軍士官学校事件の首謀者と見られた村中孝次と磯部浅一は、1935年(昭和10)8月2日付けで陸軍を免官となり、その後は仲間の青年将校たちと陸軍上層部の反応を探るために数々の幹部と接触していました。

主だった幹部だけでも、川島義之陸軍大臣、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、荒木貞夫、真崎甚三郎両軍事参議官など錚々たる顔ぶれでした。


ここでの問題は、青年将校たちに陸軍の重鎮たちが何れも好感触を示したので、決起に対して彼らが理解を示したものと思い込んでしまったことです。

年が明けた1936年(昭和11)1月20日、皇道派の青年将校たちが多く所属する第1師団に、追い討ちを掛けるように満州派兵の決定が下されました。

この命令に青年将校たちの心は揺れ動きます。

決起、すなわち昭和維新を早めるべきか、それとも断念すべきなのか、意志統一を図るためにも、彼らは皇道派の重鎮たちのところを慌ただしく訪問し始めます。


第1師団司令部跡地  歩兵第1連隊、第3連隊を統括する司令部

第1師団司令部跡地
(歩兵第1連隊、第3連隊を統括する司令部。青山1丁目の交差点から青山霊園に向かう通りに面しています。)現在の青葉公園周辺。



ここで、村中や磯部が皇道派と称される重鎮たちと、どんな話をしていたのでしょうか。



「大日本帝国の轍」176ページに磯部浅一が真崎甚三郎大将宅を訪問した時の様子を書いていますので引用してみましょう。

閣下もご承知のことと存じますが、政府は2度の統帥権干犯をしております。

1930年の第1回ロンドン海軍軍縮条約の調印、そして閣下の更迭問題です。

これはまさに陛下の大権をないがしろにする行為であり、断じて許されるものではありません。

我々としては、これらの諸問題に対して決死的な努力をする所存があります。

相沢中佐の公判も始まりますので、今日はお願いがあって参りました」
 
真崎は、磯部の表情がいつもと違うのに気づいた。

「いいか磯部!決死の覚悟とか、決起などという言葉は軽々しく出してはいかん。前にも言ったが、くれぐれも慎重に、そして冷静に対応することが必要だ。気持ちはわかるが早まったらいかんぞ。で、頼みとは何だ」

磯部は相手の目をじーっと見つめ、

「少し、ご用立て出来ないかと思いまして」

磯部が本気で金を借りようとしたのか、それとも真崎の本心を探ろうとしたのかは定かではない。

しかし、真崎は人を介して金銭面での応援を約束したのである。

この一件が、決起の暁には真崎大将が内閣首班の受け皿になるという風評が伝わり、青年将校たちに自信と勇気が湧き出たことに間違いはない。

この話を聞いた第1師団歩兵第3連隊第6中隊長の安藤輝三大尉は、磯部や村中の情報だけでは、まだ決断する材料が不十分だとして、10人ほどを引きつれて2月上旬、山下奉文少将の自宅を訪ねた。

山下は、彼らを自室に案内すると、

「君らの言わんとすることは、よーくわかる。理もあると思う。士官学校事件は永田一派の小細工にして軍の意図するものではないし、真崎閣下の更迭問題も統帥権干犯だ。統制派が仕組んだものに間違いない」

と言ったもんだから、安藤大尉らの一行は、村中、磯部の見解は、やはり間違っていなかったと再認識し、当然、この話は第1師団の中で最も急進派で知られる歩兵第3連隊第7中隊長の野中四郎のもとにも伝わった。

この一説からもわかるように、青年将校たちは、重鎮たちが決起を認めたものと解釈してしまったところに大きな間違いがあったようです。

青年将校たちの思いはどこにあったのか。

何のために決起、すなわち昭和維新を断行する必要があったのか。

それは偏に天皇陛下がお喜びになると思ったからに他ならない。

その根底には、北一輝が執筆した「日本改造法案大綱」があり、そこで説かれている国家主義的国家改造の必要性を認識していたからです。

国家主義的改造の主旨とは「日本は明治維新によって、天皇と国民が一体となった民主主義国家が実現した。

しかし、現在は財閥や官僚などによって、その一体性が損なわれているのが現状だ。

その原因を取り除くためにも、天皇が指導する国民クーデターが必要であり、天皇は大権を発動して憲法を3年間停止する必要がある。

その後、衆議院と貴族院を解散させて戒厳令を敷き、普通選挙の実地によって国家改造が可能な議会と内閣が誕生する」これらの内容に関し、皇道派の青年将校たちは、この国民クーデターこそが昭和維新であり、それによって初めて軍部が政治と経済を支配する体制がつくれ、日本の窮状を救えるものと信じていました。

しかし、青年将校の頭の中には、1932年(昭和7)に起きた5・15事件で時の総理を暗殺し、実行者に死刑の判決が出なかったのは、昭和維新実行の気概が陛下に伝わったからであり、直々に情状酌量を賜ったものと理解していたのも事実です。

したがって、今回、決起を起こしても、5・15事件と同じように情状酌量が認められると思い込んでいたのです。



226事件発生



1936年(昭和11)2月26日の未明、前夜から降り続く雪の中で、陸軍の一部の決起部隊がクーデターを起こしました。


1936年(昭和11)2月26日  東京朝日新聞

     1936年(昭和11)2月26日  東京朝日新聞  

                        

第1師団の歩兵第1連隊と歩兵第3連隊、それに近衛師団の歩兵第3連隊が加わり、少数ながら陸軍豊橋教導学校、野戦重砲第7連隊などの生徒も混じった総勢1400人余りの反乱でした。


連隊では、下士官によって兵隊たちに非常招集がかけられ実弾が配布されました。

出動目的は都心で起きた暴動鎮圧ということで、全員が靴の内側に3銭切手を貼って一斉決起の午前5時に間に合うように出動したのです。

そんな時、一般の下士官や兵隊たちには本当の目的は知らされていなかったのです。永田町、霞ヶ関界隈を占拠した場合、3銭切手を貼っていない者は通すべからず、という命令だけが下されていました。


皇道派青年将校たちに率いられた下士官・兵約1400人は、午前5時、一斉に目標への攻撃を開始します。

永田町の総理官邸、

赤坂の高橋是清大蔵大臣私邸、

四谷の斎藤実内大臣私邸、

荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸、

麹町の鈴木貫太郎侍従長私邸、

神奈川県湯河原に宿泊していた牧野伸顕前内大臣などを襲撃し陸軍大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部を占拠しました。




襲撃目標



1936年(昭和11)2月27日  東京朝日新聞

    1936年(昭和11)2月27日  東京朝日新聞 


陸軍省周辺地図

            陸軍省周辺地図                              


東宮御所周辺地図

          東宮御所周辺地図




その1  首相官邸襲撃



歩兵第1連隊は、六本木と乃木坂の中間に位置していました。

外苑東通りを六本木から青山方向に向かって右側です。現在の東京ミッドタウンの場所になります。

元は防衛庁でした。


第1師団歩兵第1連隊の跡地

第1師団歩兵第1連隊の跡地
(現在は東京ミッドタウンとなっています。)(港区)


第1連隊に所属する栗原安秀中尉に率いられた291名は雪の降る中、首相官邸を目指して出発しました。

官邸玄関前で撃ち合いになったため、

外の異変に気づいた岡田首相は、青年将校の決起だと咄嗟に感じ、

「やりおったか」

と言って女中部屋に逃げ込み、そのまま押し入れに隠れて時期を待つことにしました。

その間、秘書官で義弟の松尾伝蔵が総理と間違えられて射殺されるという悲劇が起きてしまいました。

総理を殺害したと思った決起部隊は、首相の死亡を発表しますが、

当の首相は30時間以上もじっと押し入れの中で息を潜めていたのです。


旧首相官邸跡

旧首相官邸跡
(現在の首相官邸内に保存建物として残っています。)(千代田区)




その2  高橋大蔵大臣私邸襲撃



赤坂にある近衛歩兵第3連隊、中橋基明中尉に率いられた138名の将兵は、

連隊近くにある高橋是清蔵相私邸へと向かいました。


近衛歩兵第3連隊跡

近衛歩兵第3連隊跡
(現在はTBS・赤坂ビズタワーになっています。)


警備の警官を制圧して屋内に入り、2階で寝ている蔵相を見つけると、中橋中尉は軍刀を抜いて斬りつけ、

その場で射殺してしまいました。

高橋蔵相が目標となったのは、陸軍の予算を削減したのが原因とみられています。


高橋是清大蔵大臣の私邸跡にある銅像

     高橋是清大蔵大臣の私邸跡にある銅像 (港区)


小金井公園内にある「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸


小金井公園内にある「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸(小金井市)


「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸内部

「歴史たてもの園」に移設された蔵相私邸内部。
この部屋で蔵相は刺殺されました。 (小金井市)



その3  鈴木貫太郎侍従長邸襲撃



第1師団歩兵第3連隊は、外苑東通りを挟んで第1連隊とは反対側に位置していました。

その距離はわずかに歩いて5分程度。


歩兵第3連隊跡

歩兵第3連隊跡
現在は、政策研究大学院大学と国立新美術館になっています。(港区)


安藤輝三大尉に率いられた約150人は、麹町区三番町にある鈴木貫太郎侍従長邸を襲いました。

決起部隊は、塀を乗り越えて怒濤の如く乱入し、侍従長に銃弾4発を撃ち込んで立ち去ったのです。

運良く一命は取り止めましたが、4発の銃弾のうち、1発は生涯、体の中に残ったままでした。


千鳥ヶ淵にあった鈴木貫太郎侍従長邸跡


千鳥ヶ淵にあった鈴木貫太郎侍従長邸跡 (千代田区)



その4  斎藤実内大臣私邸襲撃



斎藤内大臣の私邸跡  東宮御所正門前の坂を登り切った所に学習院初等科

斎藤内大臣の私邸跡
東宮御所正門前の坂を登り切った所に学習院初等科がありますが、その裏手に内大臣の私邸がありました。 (新宿区)


時を同じくして、歩兵第3連隊の分隊、坂井直中尉以下約200人は、営門を出て青山1丁目、信濃町、四谷仲町を通って斎藤実内大臣邸に到着。

斎藤実内大臣が襲撃の目標になったのは、天皇の側近たる地位、内大臣にあったからです。

決起部隊は警察官を制圧して室内に乱入。

そこで内大臣を発見すると、

「春子」夫人が横にいて、「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃で狙う青年将校らの前に立ちはだかります。

が、将校らの銃は一斉に火を噴き、斎藤内大臣の体内に40発以上の弾丸を撃ち込んでしまいます。

「春子」夫人も内大臣をかばって腕に貫通銃創を受ける重傷を負ってしまいました。



その5 渡辺錠太郎教育総監私邸襲撃



渡辺錠太郎教育総監の私邸跡

渡辺錠太郎教育総監の私邸跡
荻窪駅から青梅街道を立川方面に向かい、環状八号線を通り越して少し進んでから左に曲がります。
中央線線路にぶつかる手前に教育総監私邸がありました。(杉並区)


斎藤内大臣を襲撃した後、高橋少尉らは30人ほどの下士官兵を引きつれ、トラックで杉並区上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へと向かいました。

外で警官が大声を出すので、飛び起きた渡辺教育総監は、すぐに机の中から拳銃を取って外へ出てみると、決起部隊と警官が撃ち合いになっていました。

総監自身も応戦しますが、衆寡敵せず、急いで部屋へ逃げ込みます。

それを機に決起部隊は玄関から突入し、夫人の「すず」さんが必死で制止するも無視、渡辺教育総監を狙い撃ちしたのでした。



その6 牧野伸顕前内大臣襲撃



湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘(神奈川県・湯河原町)

 湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘(神奈川県・湯河原町)                        

河野寿航空兵大尉に率いられた別働隊8名は、伊豆の湯河原伊藤屋旅館別館・光風莊で静養していた牧野伸顕前内大臣を襲撃しました。

その時、数日前から渋川善助が絹子夫人と牧野前内大臣の動向を探るために伊藤屋旅館本館に宿泊していました。

河野大尉は裏木戸に回って、「電報です」と声をかけると、扉がわずかに開きました。

泊まり込みで警護に当たっていた警官、皆川義孝巡査が中にいたのです。

河野大尉は扉を蹴り破って乱入し、辺りに火を付けると、皆川巡査との間で銃撃戦が展開。

狭い室内なので、奥で異変に気づいた牧野伸顕伯爵は女性用の着物を頭からかぶって、ともに宿泊していた妻子と看護婦を連れて旅館の従業員の手引きで脱出を図りました。

近所の旅館店主が光風荘から煙が出ているというので、地元の消防団が駆け付けつけると、牧野伯爵夫妻らはちょうど外へ出ようと必死で逃げ回っているところでした。

消防団たちは伯爵一行を裏の山に逃がして無事に助けることが出来ましたが、旅館内には銃弾2発を受けて即死した皆川巡査が倒れていました。

5・15事件の時も自宅に手榴弾が投げ込まれ、その時も留守で運良く助かった牧野伸顕伯爵。

狙われたのは、かつて内大臣として天皇の側近であったことと、欧米協調主義を貫いていたことが標的の理由であったといわれています。


光風荘玄関前に設置してある226事件に関する看板

光風荘玄関前に設置してある226事件に関する看板
当時の模様が記されています。 (神奈川県・湯河原町)



後編は、陸軍省一帯と警視庁を占拠した決起部隊に対する天皇の決断。


その結末は如何に! 







大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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226事件の現場を訪ねて・後編

警視庁を占拠した第3連隊


陸軍省跡地(憲政記念館の庭)から警視庁を望む

     陸軍省跡地(憲政記念館の庭)から警視庁を望む                      


桜田門にある警視庁には、第1師団第3連隊第7中隊長の主犯格、野中四郎大尉に率いられた兵約500人が向かいました。

何でこんなに多くの兵を終結する必要があったのか。

警視庁では最近の不穏な情勢に対処するため、特別警備隊を編成して治安の維持に取り組んでいたので、それが決起部隊には脅威に映っていたからです。

午前5時、警視庁を取り囲んだ決起部隊は一気に中へ突入。

しかし、警視庁では相手が陸軍将校に率いられた軍隊とあっては抵抗しても無駄だと判断し、始めから警察による鎮圧は断念していました。

したがって、決起部隊は抵抗を受けずに占拠し、全館を掌握して一部は屋上に上がって指示を待ちました。


陸軍省・参謀本部・陸相官邸を占拠した決起部隊


陸軍省跡地にある憲政記念館  (千代田区)

陸軍省跡地にある憲政記念館  (千代田区)


参謀本部跡にある水準原点

参謀本部跡にある水準原点
日本に現存する建物で、当時の大日本帝国の文字を残すのはここだけです。            (千代田区)


陸軍大臣官邸、陸軍省、参謀本部は国会議事堂の正面斜め前にあって同じ一角にありました。

午前5時、歩兵第1連隊の丹生誠忠(にうよしただ)中尉の指揮する約170人の部隊がその周囲を囲みました。

丹生中尉を先頭に、香田清貞大尉、村中孝次、磯部浅一らは陸相官邸に突入すると、6時半過ぎに川島義之陸軍大臣が玄関に姿を現しました。

香田大尉が「決起趣意書」なるものをその場で読み上げ、7項目からなる要望書を手渡します。

陸相に昭和維新の断行を迫り、速やかに天皇陛下に奏上してご裁断を仰ぐことを要求します。この時点で、決起した青年将校たちの頭には、真崎甚三郎陸軍大将を首相にしたい考えを持っていましたが、当の本人の意思については確認が取れておらず、了承する確証はなかったのです。

その時、主力部隊は、官邸表門に陣取って裏門と道路を封鎖、陸軍省、参謀本部の各門には機関銃分隊が配備されていました。

「決起趣意書」の差出人は、陸軍歩兵大尉、野中四郎と同志一同と記されており、その内容は、2度に及ぶ統帥権干犯と3月事件の対処への批判、そして血盟団事件、515事件、相沢事件の正当性を述べたものでした。

そして午前8時を過ぎると、真崎甚三郎大将と山下奉文少将が陸相官邸に到着します。

真崎大将は村中や磯部を宥めると、川島陸相には天皇に拝謁することを勧めます。

その後は加藤治海軍大将とともに軍令部総長の伏見宮博恭王宅へと向かいましたが、その目的は天皇に新内閣の組閣と昭和維新の大詔渙発を伏見宮にお願いすることでした。
 
この時点での真崎大将の脳裏には、もし、天皇が新内閣を組閣する気があるのであれば、自分が内閣首班に名乗り出ようとする気持ちがあったのでは・・・。


その頃、宮中では何が起こっていたのでしょうか。


皇居二重橋   正面が鉄橋で、その向こう側が二重橋

皇居二重橋  正面が鉄橋で、その向こう側が二重橋 (千代田区)


鈴木侍従長の妻、「たか」夫人は、兵士たちが出て行った後、医者を手配してもらうために宮中へ電話をかけました。

すると、電話を受けた甘露寺受長侍従は咄嗟の話に仰天し、震えた声で、

「大変なことが起きました」と、天皇陛下に報告したのが5時30分を過ぎた頃でした。

陛下は事情を聞いて、

「とうとうやったか。これは陸軍の反乱である」

と言われ、いつもは平服なのに、この日は大元帥の軍服に身を固めて執務室へ向かわれます。
  
午前9時前、真崎大将の一行が宮中に到着しました。

さっそく伏見宮が新内閣の話を上奏すると、陛下は意外な表情で、 

「宮からそのようなお言葉を聞くとは、これ心外である」

と、機嫌を悪くされ、取り合う隙もありませんでした。

つまり、天皇はこの決起を反乱と決めつけていたのです。

それに輪を掛けたのが川島陸相の言動でした。

9時過ぎに宮中に到着すると、すぐさま天皇に拝謁を許されたまでは良かったのですが、事もあろうに決起部隊が渡した「決起趣意書」を読み上げ、状況の説明に入ったもんだから天皇は激怒。

「何故、そのようなものを読み聞かせるのか。早く反乱部隊を鎮圧せよ」

と一喝される始末でした。
 

2月27日午前3時、戒厳令が施行!                                             



当時の戒厳司令部(当時は軍人会館で、終戦後は九段会館として使用)

当時の戒厳司令部(当時は軍人会館で、終戦後は九段会館として使用)(千代田区)            


午後8時になると、早朝の襲撃時に留守で命拾いした後藤文夫内務大臣が臨時首相に指名され、鎮圧に強い意思を持たれる昭和天皇の意向を背景に、翌27日の午前3時をもって戒厳令を施行することが決まりました。

戒厳司令部は九段の軍人会館に設立され、香椎浩平中将が戒厳司令官に、そして戒厳参謀には、あの満州事変で主役を演じた石原完爾参謀本部作戦課長が任命されました。

しかし、27日になっても、軍上層部は依然として皇軍同士の衝突を避けようと交渉を続けていました。

それでも、天皇の鎮圧の意思は予想以上に固く、軍との唯一の窓口である本庄侍従武官長に、幾度となく鎮圧の動きを問い質すようになります。

それに対し、本庄侍従武官長がしきりに陛下に決起した将校らの精神だけでも汲んでほしいと奏上しますが、陛下は、「股肱の老臣を殺戮する将校の精神を、何で認める必要があるのか!」

と、機嫌を損なわれるだけでした。

27日の午後になって、川島陸相が拝謁に訪れた時も、陛下は強い意思を表明され、決起部隊を鎮圧するよう何度も指示を繰り返されますが、終いには痺れを切らされて、

「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧にあたる。馬を引け!」

と席を立たれる始末に。

これには関係者一同も真っ青。

すぐに止めに入って事なきを得ますが、それだけ事態を収拾できない軍部に対して憤りがあったのでしょう。


2月28日午前5時、大元帥命令発動!


1936年2月28日   東京朝日新聞

    1936年2月28日   東京朝日新聞 



「戒厳司令官は、三宅坂付近を占拠している将校以下を原隊に復帰させよ」との発令が出ました。

この瞬間から、もし退去しない場合、決起部隊は奉勅命令違反によって逆賊となり、反乱軍になってしまいます。

この事件は、この段階で万事休すか。

午後4時、戒厳司令部が武力鎮圧を表明すると、決起部隊の一般兵士たちに動揺が起こります。

それもそのはず、決起部隊1400人といっても、たった数十名の青年将校たちに率いられた部隊です。

下士官や一般兵士のほとんどは目的も何もわからず、ただ連れてこられただけなのですから。


2月29日午前5時、討伐命令が発令!


討伐命令は8時30分に攻撃命令と変わります。

反乱部隊の襲撃に備えるため、愛宕山の日本放送協会には憲兵隊を派遣して警護し、空からはビラが捲かれ、周辺のビルにはアドバルーンが上がります。

ラジオ放送では午前9時、香椎戒厳司令官の名で、「兵に告ぐ」と題した勧告が放送されました。

「勅令が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである・・・」

2機の飛行機からは、赤坂見附周辺にビラが投下され、「下士官兵に告ぐ」という主題で以下の文面が書かれたありました。


1 今からでも遅くはないから原隊へ帰れ。 

2 抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。

3 お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いているぞ。


2月29日 戒厳司令部 



1936年(昭和11)2月29日  東京朝日新聞・号外

1936年(昭和11)2月29日  東京朝日新聞・号外 
                

師団長をはじめとする上官たちは、執拗な説得を何度も繰り返します。

しかし、討伐命令が発せられた以上、陸軍中央は実力行使に出なければなりません。

東京近郊の連隊を続々と周辺に集結させ、戦車隊が音を立てて永田町界隈を走り出すと、一瞬、緊張した空気に包まれますが、天皇陛下が決起軍の行動を認めないのであれば、彼らがそこに留まる理由はありません。

正午過ぎには続々と下士官兵たちは原隊へ帰り始め、これで事件はあっけなく幕引きとなってしまいます。 


青年将校たちへの処分


警視庁を占拠した歩兵第3連隊第7中隊長、野中四郎大尉は陸軍省で自決。

鈴木貫太郎侍従長を襲撃した歩兵第3連隊第6中隊長、安藤輝三大尉は下士官兵に原隊復帰を命じた後、山王ホテルで自決を図りますが失敗。

その他の青年将校たちも午後5時頃までには全員が逮捕され、民間人の北一輝、西田税、渋川善助も同様に逮捕されます。

湯河原の伊藤屋旅館別館・光風荘で牧野伸顕前内大臣を襲撃した河野寿航空兵大尉は、負傷して熱海の陸軍衛戌病院に収容されましたが、3月5日、病院の庭で切腹、6日に死亡しました。


1936年(昭和11)3月11日 東京朝日新聞

   1936年(昭和11)3月11日 東京朝日新聞  


この事件の報道は、皇道派の大将クラスが事件に関与している可能性があるのに、

「不逞の思想家に吹き込まれた、血気盛んな陸軍青年将校たちの暴走」ということで世に公表されました。

裁判は3月4日の緊急勅令によって、代々木の練兵場で4月28日から始まりましたが、戒厳令の解除がされていないために通常の軍法会議ではなく、一審制、非公開、弁護人なし、上告なしという暗黒裁判で行われました。
民間人を含めて125名が起訴され、首謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一、民間人の北一輝、西田税、渋川善助ら19名に死刑が宣告されました。

それに有期禁固54名、無罪47名の判決が下ったのでした。
 
事件の黒幕とされた皇道派の真崎甚三郎大将(前教育総監)は、1937年(昭和12)1月25日、反乱幇助ということで軍法会議で起訴され、論告求刑は禁固13年でしたが、9月25日、証拠不十分で無罪となります。
さらに、青年将校たちに理解を示した皇道派の将官たちも全員が不問となり、この事件のすべてが終了しました。


226事件慰霊塔 渋谷税務署内にある慰霊塔です。

226事件慰霊塔 渋谷税務署内にある慰霊塔です。
当時の銃殺現場がこの辺りといわれています。( 渋谷区)



渋谷のNHK前に渋谷税務署がありますが、その一角に226事件の慰霊塔が建っています。

常に花が手向けられているこの場所、実は代々木練兵場の跡地であり、慰霊塔の周辺で刑が執行されたといわれています。


二十二士の墓」  麻布の賢崇寺

     「二十二士の墓」 麻布の賢崇寺 (港区)


麻布の賢崇寺には、226事件で処刑された人、自ら命を絶った人の「二十二士の墓」が建立されています。この中には、226事件の先駆けとなった相沢三郎中佐も含まれています。


226事件の及ぼした影響


4年前にも、これと同じような事件が起きました。

軍の一部の青年将校、当時は海軍士官が主でしたが、犬養首相を官邸で暗殺し、宮中側近の一部を殺戮しようとした515事件です。

それは、世の中の不況を背景に政財界癒着に対する警鐘と満州への強硬姿勢の貫徹。

政党政治の腐敗と農村を窮乏させた政治への喝、という意味で青年将校たちが個別に参加し、民間人が武器を手配するという、いうなれば「3月事件」や「10月事件」の延長のようなテロ的性格をもったクーデターでした。
これに対し226事件は、首謀者である青年将校たちが、北一輝の執筆した「日本改造法案大綱」に思想的な影響を受け、国家改造を主唱して皇軍としての軍隊を動かし、昭和維新の名目で軍の粛清、天皇を中心とした絶対的軍事政権樹立を目指した本格的なクーデターでした。

それは、20人程度の規模で遂行した515事件に比べれば、1400人もの組織だった軍人が出動し、政府、宮中の要人をことごとく襲撃、殺戮の限りを尽くしたという、日本の歴史上でも例を見ない大規模なものといえます。
 
天皇陛下の股肱の老臣をことごとく殺害し、又は傷つけ、自分たちの真意が陛下に伝わるとでも思っていたのか、その認識自体、理解に苦しむところです。このクーデターは、陛下の逆鱗に触れた時点で、すでに勝負あったと見るべきでしょう。

軍事政権を目指したわりには、首班指名や組閣の内容が不明確だし、1400人もの兵を動かした大がかりなクーデターなのに、革命の緻密性や計画性は杜撰でした。

いくら第1師団の満州移駐が決まって決起を急ぐ必要があったとはいえ、リーダーの不在、皇道派の軍首脳部に対して事前に同意を取り付けていなかったのも腑に落ちません。

それでも、彼らの天皇への忠誠心は厚く、天皇を中心とした軍事政権を純粋に目指していたことは確かです。

いずれにせよ、この事件のあとは陸軍統制派が実権を握り、軍部を中心に戦時体制確立へと軍事国家の基礎が築かれていきます。








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西安事件の現場を訪ねて

 
日中戦争の転換点となった西安事件

再起をかけた張学良


熱河省は言わずと知れた芥子(阿片の原料)の産地でした。

満州事変後に起きた日満連合軍による熱河作戦では完膚無きまでに叩きのめされた張学良。

今度は東北軍司令官の役職まで蒋介石から剥奪されるという、その苦悩、恨み、悲しみは到底言葉に表すことの出来ない深い挫折の心中にあったはずです。

結局は阿片に手を出してしまい、その症状は重く自暴自棄に陥っていたところ、阿片中毒の治療をかねてヨーロッパ歴訪のチャンスが舞い込んできました。

張学良はイタリアからヨーロッパへと回り、各国の指導者との面会を済ませて中国に戻ったのが1934年。

そして、翌年の春に西安方面の司令官に任命されると、張学良のもとには昔の部下たちが続々と集まって来て、再び東北軍が結成されるのでした。


当時の熱河省周辺地図

         当時の熱河省周辺地図


蒋介石は西安地域にあった軍閥を17路軍と銘打って国民党配下とし、その司令官の楊虎城と、新しく結成された東北軍の司令官、張学良の2人の司令官に延安攻撃の指令を出し、西安を共産党攻撃の本拠地としました。

この段階で、張学良の頭には何が描かれていたのか。

父軍の陰謀よって殺害(張作霖爆殺事件)され、3年後の1931年9月18日には柳条湖事件を発端に満州事変が勃発し、その後の満州国建国によって東3省すべてを失い、最後の砦と思われた熱河省までが満州国に取り込まれてしまった怨恨は計り知れないほどに膨れ上がっていました。

彼の脳裏には日本に対する復讐の怨念が炎のように燃え上がっていた。

対日共闘でソ連を仲間に引き込もうとしても中ソ紛争による衝突で自分がスターリンに嫌われていることは百も承知。

その上、上司の蒋介石は対日闘争よりも反共を重視し、中華ソビエトの攻略に全勢力を費やして対日対策の話なんか聞く耳も持たないのが現状でした。

張学良は熟慮します。

ここは中国共産党と国民党を同じテーブルにつかせ、12年前に孫文が成しえた国共合作を再現すること。

つまり、第2次国共合作の実現、中国人が共に手を繋ぎ、総力をもって日本に当たることを頭に描き始めます。

そこで彼がとった行動は、共産党の本拠地、延安に行って話をつけることでした。

しかし、共産党の指導者、毛沢東は蒋介石に江西省・瑞金を追われ、長征という多大な犠牲を払って延安に辿り着いたばかりで、蒋介石憎しで頭がいっぱい。

張学良は中国共産党ナンバー2の周恩来に話を持ち込み、西安から自家用飛行機を自ら操縦して何度も足を運びます。


西安付近の地図

           西安付近の地図


しかし、そんな状況下にあるとは露ほども知らない蒋介石。

2人の司令官に延安攻撃の気配がないのは何故なのか。

痺れを斬らした蒋介石は、張学良と楊虎城に造反の噂を耳にした為、その確認も兼ねて1936年(昭和11)12月4日、自ら督戦のために西安へ出向いたのでした。

西安は陝西省の省都です。

古くから漢民族が活躍した中心地で、古代中国の王朝、周の時代から国都が置かれた歴史都市。周では鎬京、秦では咸陽、漢、隋、唐の時代には長安と呼ばれました。

この周辺には当時を偲ばせる遺跡が目白押し。

秦の始皇帝の墳墓に始まり、最近発見された兵馬俑はもとより、唐の時代からある温泉保養地、華清地では当時の温泉が未だに噴出していました。


秦の始皇帝陵

            秦の始皇帝陵


始皇帝陵の一角にある兵馬俑

          始皇帝陵の一角にある兵馬俑


未だに噴出する華清地の温泉

        未だに噴出する華清地の温泉


西安市内は靄がかかり、歴史の重みを尚一層醸し出しています。

その中でも目を見張るものの一つに城壁がありました。

唐の時代には一周36㎞もの城壁が威厳を放ち、100万の人口を誇っていましたが、現在は明代に建て直された周囲14㎞の城壁が残っているだけ。

それとて大層見応えがあるのにびっくりです。


西安市内の一角西安城壁の上から眺めた市内

    西安市内の一角  西安城壁の上から眺めた市内


西安城壁堀に囲まれた城壁 周囲は14㎞もあります。

  西安城壁 堀に囲まれた城壁 周囲は14㎞もあります。


西安城壁の上部

西安城壁の上部
幅が15mもあり、床は石畳になっており、現在はこの上で市民マラソンも行われているとのこと。



この他にも、孫悟空のモデルとなった玄奘三蔵が16年の歳月をかけてインドに学び、657部の教典や仏舎利を携えて帰国した際、仏像や教典を納めるために創建した大雁塔には当時の技術の高さを物語っていました。


夕日を受けて琥珀色に輝く大雁塔

       夕日を受けて琥珀色に輝く大雁塔


玄奘三蔵の銅像

玄奘三蔵の銅像
玄奘の銅像と遠方に見えるのは慈恩寺山門、大雁塔と一列に並んでいます。


危機一髪の蒋介石


蒋介石が宿泊地に選んだのは、唐の時代、玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした温泉保養地、華清地でした。

西安市内から東に25㎞の地点にあり、裏側には秦嶺山脈が連なり、その前山として1300mの高さを誇る驪山が聳えていました。


驪山

驪山  
この碑の向こう側が驪山であり、蒋介石はこの山に逃げ込みまし た。


華清地

華清地
唐の時代、玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした別荘地 


華清地にある楊貴妃の像

         華清地にある楊貴妃の像


蒋介石自身は12月12日には帰る予定でいました。

が、張学良と楊虎城の様子が何となくおかしい、落ち着かないのです。

そんな空気の立ちこめる12月12日の朝、やっぱり事件は起きてしまいました。


華清地・司令部にある蒋介石の執務室

華清地・司令部にある蒋介石の執務室
この部屋の横に寝室があり、そこで張学良の東北軍に襲われます。


朝の5時30分、華清地の敷地内で突如、銃声が鳴り響いたのです。

飛び起きた蒋介石はすぐに反乱だとわかりました。

護衛部隊が銃撃戦を展開している最中、その間隙を縫って裏山の驪山へ逃げ込んだのです。


西安事件の銃弾跡

西安事件の銃弾跡
蒋介石の部屋の外壁に弾痕の跡が残っています。


華清地にある蒋介石の司令部跡

      華清地にある蒋介石の司令部跡


数人の従者を従え、蒋介石は必死で山の麓から急勾配の山肌を登っていきました。
が、49歳になる蒋介石にとってこの難所は酷。

岩場が多くてこれ以上進むことができません。

下の華清地では依然として銃声が鳴り響いています。

半ば諦めて岩肌の踊り場で覚悟を決めていると、下から反乱部隊が追いついてきました。

そこで双方が押し問答となりますが、張学良側も始めから殺す気などはありません。蒋介石を諫めて抗日統一戦線に同意させることが目的だったからです。


驪山の山肌この岩場で蒋介石は張学良軍に身柄を確保されます。

驪山の山肌
この岩場で蒋介石は張学良軍に身柄を確保されます。


蒋介石確保の現場から華清地を望む

        蒋介石確保の現場から華清地を望む


驪山から華清地に連れ戻された蒋介石は、楊虎城によって西安城内にある楊の自宅に移され軟禁されるのでした。

張学良が楊虎城と示し合わせて蒋介石を威嚇、抑留するという、地方の司令官が自分たちの最高司令官を監禁する前代未聞のこの事件、これが西安事件です。


1936年(昭和11)12月13日  東京朝日新聞

   1936年(昭和11)12月13日  東京朝日新聞


第2次国共合作の成立 
(12年ぶり、中国が一致団結して日本に向かう態勢が出来上がります)


張学良が蒋介石の部屋に面会を求めてやってくると、すでに覚悟を決めている蒋介石の卑劣な罵声は凄い迫力をもっていました。

「お前!何てことをしでかしてくれたんだ。こんな事してただで済むと思ってんのか、この馬鹿野郎!これが国民党への裏切りならすぐ俺を殺せ。そして延安へ行って戦いの準備でもしたらいいだろう。その代わり、南京政府だって黙ってないぞ。すぐに何応欽が駆けつけるから見ていろ!」


あまりの迫力に張学良は萎縮。

所詮、蒋介石と張学良では役者が違いました。


それでも、言うべきことは言わなければならない。

張学良は緊張しながら、

「私どもの要求を聞き入れていただけるなら、すべて蒋委員長の言う通りに致します。今は中国人同士で争っている場合ではありません。このままでは、華北も内モンゴルも日本に占領されてしまいますよ。そのうち南京だってどうなるかわかりません。どうか、内戦の停止を第一義にお考えください!」

張学良は、前もって中国共産党と協議しておいた内戦停止や民主化を織り込んだ8項目を要望として突きつけますが、蒋介石は頑なに拒否します。

交渉が難航する中、焦った張学良は12月17日、再び自家用飛行機で延安へ飛びます。

張学良は周恩来に調停を依頼しますが、共産党内の雰囲気はけっして良い雰囲気ではありませんでした。

にも拘わらず周恩来は意を決し、賛否両論のある中、危険を承知で西安に行くことを約束するのです。

そんな空気が漂う中、今度は蒋介石の妻、宋美麗が兄の宋子文に連れられて12月22日に西安入りします。

周恩来と蒋介石の仲を取り持ち、妥協点を見つけるのが目的でした。



西安城内にある張学良の公館現在は西安事件の記念館になっています。

西安城内にある張学良の公館
現在は西安事件の記念館になっています。


周恩来を囲み、張学良、楊虎城、宋美麗、宋子文が内戦中止、政治犯の釈放、民主政治の導入などを巡って、その交渉は丸2日間に及びました。


張学良公館における5人の会議現場

張学良公館における5人の会議現場
周恩来、張学良、楊虎城、宋美麗、宋子文による交渉の様子が蝋人形になっています。


1936年(昭和11)12月20日  東京朝日新聞

   1936年(昭和11)12月20日  東京朝日新聞


西安城内にある張学良の公館跡

西安城内にある張学良の公館跡
現在は西安事変(中国側呼称)の記念館になっています。


その時の焦点が、内戦の中止と第2次国共合作の成立でした。

12月24日、頑なに拒否していた蒋介石は、ついに周恩来と会う約束をします。

周恩来は蒋介石より11歳も年下、この時、38歳です。

実はこの2人、旧知の間柄なのでした。

1924年(大正13)に周恩来がフランス留学から帰国すると、黄埔軍官学校の教官を務めることになりますが、その時の校長が蒋介石でした。

その時点で親密な師弟関係が結ばれていたとしても不思議ではありません。

今回の会議で、中国の将来についてどうあるべきか、膝を交えて話したに違いない。

この事件、結局は8項目に修正が加えられ、蒋介石がほぼ要求を受け入れる形で結着がついたのです。

ここが歴史の転換点だったのか。

日本の侵略に対する中国側の団結、第2次国共合作が成立することになりました。

思い起こせば、12年前の1月20日、、孫文が中国国民党一全大会で第1次国共合作を成し遂げました。

その後、1927年4月12日の蒋介石による上海クーデターで国共合作は脆くも瓦解し、それから9年の歳月が経っていました。

今、中国は再び中国人同士の団結という、思いもよらぬ展開を見せ始めたのです。


歴史の舞台から姿を消した張学良


12月26日、蒋介石は無事に南京空港に戻ってきました。

そこで待っていたのは5000人もの国民党関係者や一般民衆の出迎えでした。

割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がり、名実共に中国の国家指導者として復活した瞬間でした。


1936年(昭和11)12月26日  東京朝日新聞

  1936年(昭和11)12月26日  東京朝日新聞




総統府(国民党本部)にある蒋介石の執務室

    総統府(国民党本部)にある蒋介石の執務室


さて、その後の張学良はどうなったのか。

東北軍の部下たちが引き留めるのを振り切り、逮捕を覚悟で西安を離れる決意をします。

蒋介石に遅れること約1時間、張学良の自家用飛行機は南京に着陸しますが、国家元首を監禁したという罪で軍事裁判にかけられ、その結果は有罪でした。

その後、恩赦で出獄するものの軟禁状態は続き、それ以後、歴史の舞台に顔を出すことはありませんでした。

そして、1949年(昭和24)に蒋介石が台湾へ逃れた際も同行するのです。

張学良は何故、西安に残らなかったのでしょうか。

銃殺刑になるかもしれない南京へ、何で蒋介石の後を追って南京へ行ったのか。

今となっては永遠の謎となってしまいました。






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