満州事変の現場を訪ねて
1931年(昭和6)9月18日午後10時20分、奉天駅の北東約7、5㎞の地点、
柳条湖付近の南満州鉄道脇で日本の歴史を変える爆音が起こりました。
柳条湖事件です。
柳条湖と言っても湖があるわけでなく、この付近の地名がそうなのです。

柳条湖事件の歴史的現場

1931年(昭和6)9月19日 東京朝日新聞
張作霖爆殺現場から3㎞ほど北に進んだ所が爆発現場ですが、張作霖爆殺事件から3年が経ち、関東軍は用意周到の末、政府の了解を取らずに独断で決行に踏み切ったのです。
張作霖爆殺事件では関東軍の挑発に乗らなかった張学良。
柳条湖事件の時は奉天を留守にしており、北京から自軍に対して関東軍には抵抗するなとの号令を出しました。
関東軍の行為を国際連盟に提訴しようと考えたからです。
その為か、関東軍は奉天軍が駐屯する北大営を簡単に占拠しただけでなく、未明には奉天城も攻略、あっという間に奉天市を制圧してしまいました。
そればかりか翌日には長春、営口の各都市を占領、満州全域に攻撃を仕掛けたのです。
占領したからには市政も取って代わらなければならない。
奉天市の臨時市長には関東軍の特務機関長、土肥原賢二大佐を据えるという、電光石火で満州領有の既成事実をつくろうとしました。

満州事変・現場地図想像図
柳条湖事件から満州事変へ!
この事件についての列強諸国の反応はどうだったか。
当初のうちは日本政府も局地的な紛争として捉え、また、列強を代表するアメリカのスティムソン国務長官も比較的柔軟な姿勢を示しました。が、
3日後の9月21日、
林銑十郎中将率いる朝鮮軍1万余りが鴨緑江を越えて満州・吉林省へ侵攻した時点でアメリカの態度は激変しました。
パリ不戦条約に反する行為は断固として認めない、と日本政府を糾弾するようになります。
パリ不戦条約とは、1928年8月にアメリカとフランスが中心となり、国際紛争の解決は戦争ではなく平和的手段に訴えることを約した条約です。
アメリカの国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンによって調印されたのでケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれるこの条約、15ヶ国が参加し、日本もこの条約を批准していたのです。
この条約は現在も続いており、60ヶ国以上の国が調印しています。
ただ、欠点として、国際連盟(現在は国際連合)の制裁として行われる戦争や個別に行う自衛戦争は、この条約の対象から外れてしまうことが後に物議を醸し出すことになります。

1931年(昭和6)9月22日 東京朝日新聞
林銑十郎中将率いる朝鮮軍部隊は1万を越える大軍でした。
この部隊が他国に侵出したということは、この事態が局地的な事件ではなく国際的な事変へと姿を変えることを意味します。
他国で軍隊を動かすには天皇陛下の裁可が必要。
朝鮮軍の行動は大命を待たずしての行動で、こんなことが許される訳がありませんでした。
その林銑十郎中将が6年後(1937年2月)には首相に就任するわけですから、日本の政治はどうかしていると言われても仕方がない。
戦前の時代でもこんなことがまかり通ったんですね。
でも、この首相、4ヵ月で解散に追い込まれ、期間中に何もしなかったということで「食い逃げ解散」と揶揄されたことも事実でした。

1931年(昭和6)9月23日 東京朝日新聞 満州時局地図
政府や宮中の不拡大方針、軍中央の局地的解決の指示を無視した関東軍の侵攻は、自衛のためと称してどんどん戦線を拡大していきました。
10月8日には錦州を爆撃、11月18日にはチチハル占領。
1932年(昭和7)1月3日には「万歳」、「万歳」と喚声を上げながら錦州を占領してしまいました。尚も騎虎の勢いは止まらず、ついには熱河省を通り越して万里の長城の東端、山海関にまで日章旗を立ててしまったのです。
歴史を変える爆音は日中戦争15年の幕開けを意味することになり、延いては太平洋戦争への階段を駆け上るきっかけとさえなってしまいます。
こんなことになるとは、誰が予想し得たでしょうか。
これが自衛戦争として通用するのか、それとも侵略への序曲だったのか。
この問題は、中国が提訴した国際連盟に委ねられることになります。
現在も、この鉄道は中国東北部の南北を走る幹線として使用されています。
この場所で起こった柳条湖事件は、その後の日本をとてつもない方向に進めてしまいました。
歴史の現場に立って当時を振り返ってみましょう。

線路脇に建つ9・18記念館

9・18事件の記念塔
柳条湖事件は中国側では9・18事件と呼んでいます。
この記念館に入ると、それはそれは悲惨な光景が目に入ってきます。
柳条湖事件から満州事変に至る過程や、翌年に建国された満州国、4年後の華北分離工作に伴う冀東防共自治政府の成立、そして盧溝橋事件へと、日本の中国本土侵出への過程が目を覆いたくなるような表現でアピールされているではありませんか。
中国側の見方である以上、仕方ない面があるにしても、何でこんな事になってしまったのでしょうか。
記念館の敷地の隅には、日本軍が満州事変を記念して建てたオブジェが見せしめのために投げ捨てられていました。

無造作に横たわる記念碑
暴走する関東軍
日露戦争を勝利した日本はロシアから遼東半島南端部の旅順、大連の2つの港湾、そして軍港を含む約3400k㎡に及ぶ範囲を租借地として、当時の清国の承認を取って継承しました。
日本はこの地域を関東州と名付けて統治し、1919年(大正8)には旅順に関東庁と関東軍司令部を新設して、南満州鉄道付属地とともに満州支配の拠点としたのです。
しかし、日本政府が南満州鉄道(旅順から奉天)や軽便鉄道・安奉線(安東から奉天)に対して、線路の長さ10㎞につき15人の兵隊を駐留するという権利を獲得したり、沿線の付属地では中国人の介入を許さない行政権まで付与させると、鉄道を管理運営する満鉄と、満州の支配を狙う関東軍は切っても切れない関係になっていきます。
満州の面積は日本の約3倍。
人口も3000万人と増える傾向にありました。
遼寧省、吉林省、黒竜江省の東3省から構成され、鉄鉱石、錫、マンガンなどの鉱物資源が豊富で、その資源的魅力は世界から注目を浴びていました。
そんな満州で独自の統治権が確立されれば、当然、その権利を満州全土に拡大したくなるのは帝国主義の性というもの。本土の経済的困窮を考えれば当然の成り行きか。案の定、関東軍には政府や軍中央の指示を無視する傾向が強まり、独立独歩で一人歩きする要素が顕在化してゆくのでした。
3年前の張作霖爆殺事件では、関東軍の高級参謀、河本大作大佐が首謀者として断定されましたが、河本大佐は、「もし、私を軍法会議にかけるなら、陸軍の謀略をすべて暴露する」
と爆弾発言。
陸軍中央は「これは大変なことだ!」
と関係者一同を穏便な処置ですませてしまいました。
このことも関東軍の増長を促す原因の一つになったんでしょう。
結局、この頃から関東軍は陸軍中央の強硬派と連んで満州の武力占領を考え始めます。
そこに現れたのが、陸軍きっての秀才と言われた男、関東軍作戦主任参謀として旅順に赴任してきた石原完爾中佐でした。
その後に高級参謀の板垣征四郎大佐が着任し、この2人、政府や陸軍中央の思惑を余所に独断で柳条湖事件を引き起こし、満州事変の立役者となったのです。

旅順の関東軍司令部跡
柳条湖事件を画策した石原完爾中佐は、1929年(昭和4)に「満蒙領有計画」なる私見を陸軍中央に提出していました。
満蒙を領有することは中国4億人の民を救うことになるし、それによって日本の国力は養われ、日本の商工業は発展する。
それが日本の生きる道である、と説いたんです。
その理論に幾多の陸軍中央強硬派が共感を持ち、政府の軟弱外交(幣原外相のワシントン会議精神)に反発するかのように板垣・石原ラインが主導して満州事変は引き起こされてしまいました。
さて、このような日本の進路を決定づけるような重大な決断が、関東軍内部でどのようにして決められていったのか。
ここに面白いエピソードを紹介しましょう。
石原完爾作戦主任参謀が9月18日の作戦決行を板垣征四郎高級参謀に迫ると、板垣高級参謀は事の重大性に躊躇していまい、決断を猶予してしまいます。
翌日、板垣高級参謀は関係者を自室に集め、今度は鉛筆を転がして決めようと言い出す始末に一同は唖然。
それでも六面体の鉛筆は日本の運命を背負って転がったのです。そして出た目は・・・。
この場面を「大日本帝国の轍」6章101ページから引用してみました。
石原は、憤る気持ちを抑えながら念を押した。
「板垣さん、ここまで来て弱気になってどうするんですか。
延期したら終わりですよ。建川少将と話したって何にもなりません。
そもそも満蒙を領有しないでこの地域の安定、平和、延いては日本国の繁栄などあり得ない。
わかっているでしょう。
中国国民党政府は、もともと満蒙などは中国の領土とは考えていなかった。
だから蒋介石だって満蒙問題よりも反共を重視しているのが何よりの証拠です。
孫文にしたって満蒙を金銭で日本に割譲する条件を考えていた。
だから日本政府だってそれを暗黙の了解のもとで彼を援助したんです。
張学良があまりにも満蒙地域に固執するんで、蒋介石だって本当は迷惑しているかもしれない。
満蒙は漢人の国とは歴史的にも違うんですから。
張学良は南満州鉄道に平行した独自の鉄道を建設して満鉄に大打撃を与えようとしている。
排日運動を煽って、何が何でも日本人をこの満蒙の地から追い出そうとしています。
今、叩いておかなければ、満蒙における日本の権益が損なわれることは明白だ。
ロシアだって機械化部隊を育成して満蒙への侵出を狙っている。
満蒙の領有こそ、日本が生きる唯一の道だと私たちは信じているじゃありませんか。
マスコミ対策にしたって、3年前の二の舞はしないということで各新聞社にも根回しをしてきた。
今、まさに、その時が来たんです」 板垣はじっと目を閉じて聞いていたが、それでも最終決断は出来なかった。
「君の言うことはわかっている。しかし、これは日本の運命を変える決断になるんだ。もう少し考えさせてくれ」
翌日、16日の夜、板垣は関係者に再招集をかけた。
今度は石原中佐の他に花谷少佐、今田大尉、松村大尉らの実行部隊も参加した。
決行か中止か、議論は丁々発止となり翌朝未明まで続いた。が、結論は出ない。
ここで、しびれを切らした板垣が突拍子もないことを口にした。
こうなったら「鉛筆を転がして決めようじゃないか」、と言い出したのだ。
これには周囲も驚いた。しかし、時間は刻々と迫ってくる。
結論が出ないのだから仕方がないと思ったのか、渋々と松村大尉が六面体の鉛筆に印をつけ始めた。
しばらくすると、運命の鉛筆が転がった。しかし、出た目は中止の面だった。
この計画、一度は中止と決められ、一同は解散しかかったのである。
でも、今田や松村らの行動派たちが、どうしても諦めきれないでいた。
そうこうしているうちに、「やっぱりやるか」という雰囲気になり、最終的には決行することになった。
石原は、「あとの事はお願いする」と言い残して、関東軍司令部の本庄繁大将を説得するため急ぎ旅順へ戻った。
日本の運命を動かす決断がこんな経緯で決まったとは、ちょっと意外でした。
ここで満州事変が起こった時代的背景を考えてみましょう!
1 世界から閉め出された日本
第1次世界後の世界経済は急速にブロック化(スターリングブロック、ドルブロック、フランブロックなど)が進み、世界貿易が縮小されてゆく中、蚊帳の外に置かれた日本は世界市場から閉め出されてしまいます。
それが故、海外市場の確保は急務と考えられ、特に満州の利権は日本の生命線と認識されるようになります。
2 日本国内の不況
1930年(昭和5)1月に浜口内閣が実施した金解禁は、日本に強烈なデフレーションを招きました。
当時、アメリカは1920年代を評して永遠の繁栄と高をくくっていましたが、第1次世界大戦で戦場になったヨーロッパが終戦となり、農産物を自国生産してくると、アメリカの輸出は当然の如く激減し、それが祟ってか、ついに1929年(昭和4)10月、ニューヨーク株式市場は大暴落を起こしてしまいます。
世界大恐慌の始まりでした。
日本の農村経済は米と繭の2本柱で成り立っていたため、アメリカ国内の不況が原因で生糸の輸出量は大幅に減り、それに加え米価の下落状態が続くという不運が重ねって、特に東北の農村を中心に大不況に陥ってしまいました。
1年間で生糸は約30%、米は37%の下落という異常なまでの暴落ぶりでした。
農村では来年の収穫を見越して先売りする青田売りや、家族が生きるための口減らし、娘の身売りといった痛ましい様子が現実に起こってしまったのです。
その煽りは都市圏にも波及し、株式市場の暴落、労働争議の増大と中小企業の倒産、大学を卒業しても3分の1が就職さえできない状態が続き、その捌け口を満州に求める国民世論のコンセンサスが出来上がりつつありました。

1932年(昭和7)6月9日 東京朝日新聞
3 万宝山事件
万宝山事件は関東軍が日本領事館と示し合わせて発生した事件でした。
1931年(昭和6)7月2日、長春の北方30㎞にある万宝の町はずれで、吉林省の間島(従来の移住地)を追われた朝鮮人移住者が開墾のために水路を建設しようとしたところ、地元の中国人農民の反対にあって双方が発砲騒ぎになったという事件です。
死者が1人も出ていないのに、関東軍は朝鮮人記者を使って800人の移住朝鮮人が中国人農民によって殺されたという記事を捏造させました。
それが原因で朝鮮半島では中国人に対する報復運動が起こり、在朝鮮中国人が100人以上殺されるという大惨事に発展したのです。
関東軍は朝鮮人の反中国感情を最大限に煽り、日本政府の方針を対満蒙積極外交に転換する口実にしたというわけです。

1931年(昭和6)7月7日 東京朝日新聞

万宝山事件の碑

万宝の町 長春の北方30㎞にある万宝の町
4 中村震太郎大尉殺害事件
陸軍参謀の中村震太郎大尉が1931年(昭和6)の6月中旬、軍属の井杉延太郎氏と通訳兼道案内3名を連れて太興安嶺という山岳地帯を軍用調査していたところ、張学良配下の関玉衛率いる屯墾軍に拘束され、射殺された上に遺体が焼き捨てられるという事件が発生しました。
その時、焼死体は耳がそぎ落とされ、手足が切断されていたというから事態は大きく変貌することになります。
幣原喜重郎外相はこの事件を外交交渉で結着つけようとしていましたが、それでは埒があかぬ、と踏んだ関東軍は8月17日、旅順の関東軍司令部で当該事件を独断で発表したのです。
現役の日本陸軍参謀が中国軍によって虐殺されたのです。
これが日本の世論に火をつけ、満蒙の確保は日本の生命線であるという意識が蔓延するようになります。
ただ、中村大尉が探索していた太興安嶺は、日本人の立ち入り禁止区域となっていたことは事実です。

1931年(昭和6)8月18日 東京朝日新聞
これらの要素が重なり合ってか、日本の窮状を打開するには満蒙の確保以外に道はなし、という勝手な空気が関東軍の中に充満していきます。
満州国とリットン調査団
このような状況のもと、9月18日の夜10時20分、南満州鉄道の線路脇で日本の運命を決める爆発が起こったのです。
夜11時過ぎには長春発の大連行き列車が通過するのはわかっていました。
しがって線路を爆破するわけにはいきません。
線路から少し離れた所を爆発させ、それを奉天軍の仕業と見せかけて奉天軍駐屯地の北大営を急襲、満州全域に戦線を拡大させたのです。
これ、すべて自衛の処置だとして国際世論に訴えたのでした。

北大営跡
蒋介石率いる国民党も、この事件を黙って見ていたわけではありません。
国際連盟への提訴に始まり、米英を味方につけて頑なに抵抗の意思を見せつけました。
当然、日本も一歩も引くことは出来ない。
双方の駆け引きが列強諸国を巻き込み、国際連盟内は騒然とした雰囲気に包まれます。
そんな中、1932年(昭和7)3月1日、関東軍の主導で満州国が建国され、執政には清朝最後の皇帝だったラストエンペラー、愛新覚羅溥儀が就任したのです。
満州国の首都が長春(新たに新京と名称変更)になったことで、関東軍司令部も長春(新京)に移転しました。

1932年(昭和7)3月9日 東京朝日新聞

満州国・国務院

旧関東軍司令部(長春)
国際連盟からはリットン調査団(海外の有識者5名で構成、イギリスのリットン卿が主任に選出されます)が派遣され、日本の満州侵攻は自衛として正当なのか、それとも侵略だったのか、果たして満州国は国際的に承認されるのかどうか、正念場を迎えることになります。
その答えがリットン調査団から出される2週間前のことでした。
1932年(昭和7)9月15日、大日本帝国と満州国との間で日満議定書が取り交わされ、日本は満州をいち早く承認して独立国として認めてしまったのです。

1932年(昭和7)9月16日 東京朝日新聞
そして1932年(昭和7)10月1日、リットン報告書がついに連盟に提出され、2日には世界に向かって公表されたのです。
報告書の内容は、柳条湖事件以後の日本の軍事行動を正当と認めず、満州国も中国人による自発的な独立運動の結果ではないと位置づけ、中国の主権の範囲とした上で、自治政府を樹立することを提言してきたのです。
この条件を日本が承諾するなど、当時の情勢下では天地がひっくり返ったって出来っこありません。
そこで関東軍のとった行動は前進あるのみ、万里の長城に接する熱河省を、満州国へ吸収するための工作を仕掛けることでした。
世界から孤立する日本、満州だけで満足すれば絞れば良かった!
関東軍は、万里の長城を越えて関内作戦と称する軍事行動を実行します。
何と言っても北京の近郊まで攻め上がってしまったのですから、中国人民の反日感情は激昂し、列強の我慢もここまでだったのでしょう。
1933年(昭和8)2月24日、国際連盟の本部(スイス・ジュネーブ)で総会決議が行われました。
結果は予想通り、日本の主張は認められませんでした。
満州の主権は中国にあるとされ、日本の占領を不服とする決議が、44ヶ国の中、42ヶ国が賛成し、反対は日本の1票のみ、棄権が1票(シャム・現在のタイ)ということで採択されたのです。

1933年(昭和8)2月25日 東京朝日新聞
これによって日本は国際連盟を脱退することになります。しかし、ここからが問題でした。
満州国の建国だけで止めておけば良いものを、中国本土に侵出する計画が組まれていたのです。
関東軍はこれらのお膳立てを緻密に行い、自衛処置、緊急避難と大義名分を付けてはその事態を閣議に追認させるという図式を貫き、日中戦争は泥沼の状況下に陥ってしまいます。
1933年(昭和8)に締結した塘沽停戦協定によって河北省の一部は非武装地帯となり、1935年(昭和10)には、その地に日本の傀儡政権、冀東防共自治政府が成立します。
1937年(昭和12)7月に起きた盧溝橋事件。この事件が日中全面戦争のきっかけとなりますが、その後も上海、南京、武漢三鎮と侵出し、最後は広東、香港へと火の手を上げていきます。
盧溝橋事件から第2次上海事変と続き、南京を占領する時点で、蒋介石は国民政府の首都を四川省の重慶に遷都しました。
時政治的には、1938年(昭和13)1月16日に発表された第1次近衛声明といわれる、「爾後(じご)国民政府を相手にせず、真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待し・・・」という声明によって、日中講和への道はすべて閉ざされてしまいます。
この声明によって、日本は中国国内で交渉相手をなくしたも同然となってしまいます。

1938年(昭和13年)1月17日 東京朝日新聞
満州事変から6年が経ち、日本は日中全面戦争という泥沼に足を踏み入れてしまったのです。
結局、1940年(昭和15)3月30日、重慶国民政府を脱退した親日派の汪兆銘による南京国民政府が立ち上がり、日本は満州国だけでなく、中国本土にも大きな傀儡政権を打ち立ててしまいました。これで、いよいよ中国から足を抜けない状況をつくってしまったんですね。
世界から孤立してゆく日本、アメリカとの一大決戦の幕が開きます。

1940年(昭和15)3月31日 東京朝日新聞
1931年(昭和6)9月18日に起きた柳条湖事件。この爆発音が日本の運命を決めたんですね。ここが太平洋戦争への原点だったのではないでしょうか。

柳条湖事件の歴史的現場
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柳条湖付近の南満州鉄道脇で日本の歴史を変える爆音が起こりました。
柳条湖事件です。
柳条湖と言っても湖があるわけでなく、この付近の地名がそうなのです。

柳条湖事件の歴史的現場

1931年(昭和6)9月19日 東京朝日新聞
張作霖爆殺現場から3㎞ほど北に進んだ所が爆発現場ですが、張作霖爆殺事件から3年が経ち、関東軍は用意周到の末、政府の了解を取らずに独断で決行に踏み切ったのです。
張作霖爆殺事件では関東軍の挑発に乗らなかった張学良。
柳条湖事件の時は奉天を留守にしており、北京から自軍に対して関東軍には抵抗するなとの号令を出しました。
関東軍の行為を国際連盟に提訴しようと考えたからです。
その為か、関東軍は奉天軍が駐屯する北大営を簡単に占拠しただけでなく、未明には奉天城も攻略、あっという間に奉天市を制圧してしまいました。
そればかりか翌日には長春、営口の各都市を占領、満州全域に攻撃を仕掛けたのです。
占領したからには市政も取って代わらなければならない。
奉天市の臨時市長には関東軍の特務機関長、土肥原賢二大佐を据えるという、電光石火で満州領有の既成事実をつくろうとしました。

満州事変・現場地図想像図
柳条湖事件から満州事変へ!
この事件についての列強諸国の反応はどうだったか。
当初のうちは日本政府も局地的な紛争として捉え、また、列強を代表するアメリカのスティムソン国務長官も比較的柔軟な姿勢を示しました。が、
3日後の9月21日、
林銑十郎中将率いる朝鮮軍1万余りが鴨緑江を越えて満州・吉林省へ侵攻した時点でアメリカの態度は激変しました。
パリ不戦条約に反する行為は断固として認めない、と日本政府を糾弾するようになります。
パリ不戦条約とは、1928年8月にアメリカとフランスが中心となり、国際紛争の解決は戦争ではなく平和的手段に訴えることを約した条約です。
アメリカの国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンによって調印されたのでケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれるこの条約、15ヶ国が参加し、日本もこの条約を批准していたのです。
この条約は現在も続いており、60ヶ国以上の国が調印しています。
ただ、欠点として、国際連盟(現在は国際連合)の制裁として行われる戦争や個別に行う自衛戦争は、この条約の対象から外れてしまうことが後に物議を醸し出すことになります。

1931年(昭和6)9月22日 東京朝日新聞
林銑十郎中将率いる朝鮮軍部隊は1万を越える大軍でした。
この部隊が他国に侵出したということは、この事態が局地的な事件ではなく国際的な事変へと姿を変えることを意味します。
他国で軍隊を動かすには天皇陛下の裁可が必要。
朝鮮軍の行動は大命を待たずしての行動で、こんなことが許される訳がありませんでした。
その林銑十郎中将が6年後(1937年2月)には首相に就任するわけですから、日本の政治はどうかしていると言われても仕方がない。
戦前の時代でもこんなことがまかり通ったんですね。
でも、この首相、4ヵ月で解散に追い込まれ、期間中に何もしなかったということで「食い逃げ解散」と揶揄されたことも事実でした。

1931年(昭和6)9月23日 東京朝日新聞 満州時局地図
政府や宮中の不拡大方針、軍中央の局地的解決の指示を無視した関東軍の侵攻は、自衛のためと称してどんどん戦線を拡大していきました。
10月8日には錦州を爆撃、11月18日にはチチハル占領。
1932年(昭和7)1月3日には「万歳」、「万歳」と喚声を上げながら錦州を占領してしまいました。尚も騎虎の勢いは止まらず、ついには熱河省を通り越して万里の長城の東端、山海関にまで日章旗を立ててしまったのです。
歴史を変える爆音は日中戦争15年の幕開けを意味することになり、延いては太平洋戦争への階段を駆け上るきっかけとさえなってしまいます。
こんなことになるとは、誰が予想し得たでしょうか。
これが自衛戦争として通用するのか、それとも侵略への序曲だったのか。
この問題は、中国が提訴した国際連盟に委ねられることになります。
現在も、この鉄道は中国東北部の南北を走る幹線として使用されています。
この場所で起こった柳条湖事件は、その後の日本をとてつもない方向に進めてしまいました。
歴史の現場に立って当時を振り返ってみましょう。

線路脇に建つ9・18記念館

9・18事件の記念塔
柳条湖事件は中国側では9・18事件と呼んでいます。
この記念館に入ると、それはそれは悲惨な光景が目に入ってきます。
柳条湖事件から満州事変に至る過程や、翌年に建国された満州国、4年後の華北分離工作に伴う冀東防共自治政府の成立、そして盧溝橋事件へと、日本の中国本土侵出への過程が目を覆いたくなるような表現でアピールされているではありませんか。
中国側の見方である以上、仕方ない面があるにしても、何でこんな事になってしまったのでしょうか。
記念館の敷地の隅には、日本軍が満州事変を記念して建てたオブジェが見せしめのために投げ捨てられていました。

無造作に横たわる記念碑
暴走する関東軍
日露戦争を勝利した日本はロシアから遼東半島南端部の旅順、大連の2つの港湾、そして軍港を含む約3400k㎡に及ぶ範囲を租借地として、当時の清国の承認を取って継承しました。
日本はこの地域を関東州と名付けて統治し、1919年(大正8)には旅順に関東庁と関東軍司令部を新設して、南満州鉄道付属地とともに満州支配の拠点としたのです。
しかし、日本政府が南満州鉄道(旅順から奉天)や軽便鉄道・安奉線(安東から奉天)に対して、線路の長さ10㎞につき15人の兵隊を駐留するという権利を獲得したり、沿線の付属地では中国人の介入を許さない行政権まで付与させると、鉄道を管理運営する満鉄と、満州の支配を狙う関東軍は切っても切れない関係になっていきます。
満州の面積は日本の約3倍。
人口も3000万人と増える傾向にありました。
遼寧省、吉林省、黒竜江省の東3省から構成され、鉄鉱石、錫、マンガンなどの鉱物資源が豊富で、その資源的魅力は世界から注目を浴びていました。
そんな満州で独自の統治権が確立されれば、当然、その権利を満州全土に拡大したくなるのは帝国主義の性というもの。本土の経済的困窮を考えれば当然の成り行きか。案の定、関東軍には政府や軍中央の指示を無視する傾向が強まり、独立独歩で一人歩きする要素が顕在化してゆくのでした。
3年前の張作霖爆殺事件では、関東軍の高級参謀、河本大作大佐が首謀者として断定されましたが、河本大佐は、「もし、私を軍法会議にかけるなら、陸軍の謀略をすべて暴露する」
と爆弾発言。
陸軍中央は「これは大変なことだ!」
と関係者一同を穏便な処置ですませてしまいました。
このことも関東軍の増長を促す原因の一つになったんでしょう。
結局、この頃から関東軍は陸軍中央の強硬派と連んで満州の武力占領を考え始めます。
そこに現れたのが、陸軍きっての秀才と言われた男、関東軍作戦主任参謀として旅順に赴任してきた石原完爾中佐でした。
その後に高級参謀の板垣征四郎大佐が着任し、この2人、政府や陸軍中央の思惑を余所に独断で柳条湖事件を引き起こし、満州事変の立役者となったのです。

旅順の関東軍司令部跡
柳条湖事件を画策した石原完爾中佐は、1929年(昭和4)に「満蒙領有計画」なる私見を陸軍中央に提出していました。
満蒙を領有することは中国4億人の民を救うことになるし、それによって日本の国力は養われ、日本の商工業は発展する。
それが日本の生きる道である、と説いたんです。
その理論に幾多の陸軍中央強硬派が共感を持ち、政府の軟弱外交(幣原外相のワシントン会議精神)に反発するかのように板垣・石原ラインが主導して満州事変は引き起こされてしまいました。
さて、このような日本の進路を決定づけるような重大な決断が、関東軍内部でどのようにして決められていったのか。
ここに面白いエピソードを紹介しましょう。
石原完爾作戦主任参謀が9月18日の作戦決行を板垣征四郎高級参謀に迫ると、板垣高級参謀は事の重大性に躊躇していまい、決断を猶予してしまいます。
翌日、板垣高級参謀は関係者を自室に集め、今度は鉛筆を転がして決めようと言い出す始末に一同は唖然。
それでも六面体の鉛筆は日本の運命を背負って転がったのです。そして出た目は・・・。
この場面を「大日本帝国の轍」6章101ページから引用してみました。
石原は、憤る気持ちを抑えながら念を押した。
「板垣さん、ここまで来て弱気になってどうするんですか。
延期したら終わりですよ。建川少将と話したって何にもなりません。
そもそも満蒙を領有しないでこの地域の安定、平和、延いては日本国の繁栄などあり得ない。
わかっているでしょう。
中国国民党政府は、もともと満蒙などは中国の領土とは考えていなかった。
だから蒋介石だって満蒙問題よりも反共を重視しているのが何よりの証拠です。
孫文にしたって満蒙を金銭で日本に割譲する条件を考えていた。
だから日本政府だってそれを暗黙の了解のもとで彼を援助したんです。
張学良があまりにも満蒙地域に固執するんで、蒋介石だって本当は迷惑しているかもしれない。
満蒙は漢人の国とは歴史的にも違うんですから。
張学良は南満州鉄道に平行した独自の鉄道を建設して満鉄に大打撃を与えようとしている。
排日運動を煽って、何が何でも日本人をこの満蒙の地から追い出そうとしています。
今、叩いておかなければ、満蒙における日本の権益が損なわれることは明白だ。
ロシアだって機械化部隊を育成して満蒙への侵出を狙っている。
満蒙の領有こそ、日本が生きる唯一の道だと私たちは信じているじゃありませんか。
マスコミ対策にしたって、3年前の二の舞はしないということで各新聞社にも根回しをしてきた。
今、まさに、その時が来たんです」 板垣はじっと目を閉じて聞いていたが、それでも最終決断は出来なかった。
「君の言うことはわかっている。しかし、これは日本の運命を変える決断になるんだ。もう少し考えさせてくれ」
翌日、16日の夜、板垣は関係者に再招集をかけた。
今度は石原中佐の他に花谷少佐、今田大尉、松村大尉らの実行部隊も参加した。
決行か中止か、議論は丁々発止となり翌朝未明まで続いた。が、結論は出ない。
ここで、しびれを切らした板垣が突拍子もないことを口にした。
こうなったら「鉛筆を転がして決めようじゃないか」、と言い出したのだ。
これには周囲も驚いた。しかし、時間は刻々と迫ってくる。
結論が出ないのだから仕方がないと思ったのか、渋々と松村大尉が六面体の鉛筆に印をつけ始めた。
しばらくすると、運命の鉛筆が転がった。しかし、出た目は中止の面だった。
この計画、一度は中止と決められ、一同は解散しかかったのである。
でも、今田や松村らの行動派たちが、どうしても諦めきれないでいた。
そうこうしているうちに、「やっぱりやるか」という雰囲気になり、最終的には決行することになった。
石原は、「あとの事はお願いする」と言い残して、関東軍司令部の本庄繁大将を説得するため急ぎ旅順へ戻った。
日本の運命を動かす決断がこんな経緯で決まったとは、ちょっと意外でした。
ここで満州事変が起こった時代的背景を考えてみましょう!
1 世界から閉め出された日本
第1次世界後の世界経済は急速にブロック化(スターリングブロック、ドルブロック、フランブロックなど)が進み、世界貿易が縮小されてゆく中、蚊帳の外に置かれた日本は世界市場から閉め出されてしまいます。
それが故、海外市場の確保は急務と考えられ、特に満州の利権は日本の生命線と認識されるようになります。
2 日本国内の不況
1930年(昭和5)1月に浜口内閣が実施した金解禁は、日本に強烈なデフレーションを招きました。
当時、アメリカは1920年代を評して永遠の繁栄と高をくくっていましたが、第1次世界大戦で戦場になったヨーロッパが終戦となり、農産物を自国生産してくると、アメリカの輸出は当然の如く激減し、それが祟ってか、ついに1929年(昭和4)10月、ニューヨーク株式市場は大暴落を起こしてしまいます。
世界大恐慌の始まりでした。
日本の農村経済は米と繭の2本柱で成り立っていたため、アメリカ国内の不況が原因で生糸の輸出量は大幅に減り、それに加え米価の下落状態が続くという不運が重ねって、特に東北の農村を中心に大不況に陥ってしまいました。
1年間で生糸は約30%、米は37%の下落という異常なまでの暴落ぶりでした。
農村では来年の収穫を見越して先売りする青田売りや、家族が生きるための口減らし、娘の身売りといった痛ましい様子が現実に起こってしまったのです。
その煽りは都市圏にも波及し、株式市場の暴落、労働争議の増大と中小企業の倒産、大学を卒業しても3分の1が就職さえできない状態が続き、その捌け口を満州に求める国民世論のコンセンサスが出来上がりつつありました。

1932年(昭和7)6月9日 東京朝日新聞
3 万宝山事件
万宝山事件は関東軍が日本領事館と示し合わせて発生した事件でした。
1931年(昭和6)7月2日、長春の北方30㎞にある万宝の町はずれで、吉林省の間島(従来の移住地)を追われた朝鮮人移住者が開墾のために水路を建設しようとしたところ、地元の中国人農民の反対にあって双方が発砲騒ぎになったという事件です。
死者が1人も出ていないのに、関東軍は朝鮮人記者を使って800人の移住朝鮮人が中国人農民によって殺されたという記事を捏造させました。
それが原因で朝鮮半島では中国人に対する報復運動が起こり、在朝鮮中国人が100人以上殺されるという大惨事に発展したのです。
関東軍は朝鮮人の反中国感情を最大限に煽り、日本政府の方針を対満蒙積極外交に転換する口実にしたというわけです。

1931年(昭和6)7月7日 東京朝日新聞

万宝山事件の碑

万宝の町 長春の北方30㎞にある万宝の町
4 中村震太郎大尉殺害事件
陸軍参謀の中村震太郎大尉が1931年(昭和6)の6月中旬、軍属の井杉延太郎氏と通訳兼道案内3名を連れて太興安嶺という山岳地帯を軍用調査していたところ、張学良配下の関玉衛率いる屯墾軍に拘束され、射殺された上に遺体が焼き捨てられるという事件が発生しました。
その時、焼死体は耳がそぎ落とされ、手足が切断されていたというから事態は大きく変貌することになります。
幣原喜重郎外相はこの事件を外交交渉で結着つけようとしていましたが、それでは埒があかぬ、と踏んだ関東軍は8月17日、旅順の関東軍司令部で当該事件を独断で発表したのです。
現役の日本陸軍参謀が中国軍によって虐殺されたのです。
これが日本の世論に火をつけ、満蒙の確保は日本の生命線であるという意識が蔓延するようになります。
ただ、中村大尉が探索していた太興安嶺は、日本人の立ち入り禁止区域となっていたことは事実です。

1931年(昭和6)8月18日 東京朝日新聞
これらの要素が重なり合ってか、日本の窮状を打開するには満蒙の確保以外に道はなし、という勝手な空気が関東軍の中に充満していきます。
満州国とリットン調査団
このような状況のもと、9月18日の夜10時20分、南満州鉄道の線路脇で日本の運命を決める爆発が起こったのです。
夜11時過ぎには長春発の大連行き列車が通過するのはわかっていました。
しがって線路を爆破するわけにはいきません。
線路から少し離れた所を爆発させ、それを奉天軍の仕業と見せかけて奉天軍駐屯地の北大営を急襲、満州全域に戦線を拡大させたのです。
これ、すべて自衛の処置だとして国際世論に訴えたのでした。

北大営跡
蒋介石率いる国民党も、この事件を黙って見ていたわけではありません。
国際連盟への提訴に始まり、米英を味方につけて頑なに抵抗の意思を見せつけました。
当然、日本も一歩も引くことは出来ない。
双方の駆け引きが列強諸国を巻き込み、国際連盟内は騒然とした雰囲気に包まれます。
そんな中、1932年(昭和7)3月1日、関東軍の主導で満州国が建国され、執政には清朝最後の皇帝だったラストエンペラー、愛新覚羅溥儀が就任したのです。
満州国の首都が長春(新たに新京と名称変更)になったことで、関東軍司令部も長春(新京)に移転しました。

1932年(昭和7)3月9日 東京朝日新聞

満州国・国務院

旧関東軍司令部(長春)
国際連盟からはリットン調査団(海外の有識者5名で構成、イギリスのリットン卿が主任に選出されます)が派遣され、日本の満州侵攻は自衛として正当なのか、それとも侵略だったのか、果たして満州国は国際的に承認されるのかどうか、正念場を迎えることになります。
その答えがリットン調査団から出される2週間前のことでした。
1932年(昭和7)9月15日、大日本帝国と満州国との間で日満議定書が取り交わされ、日本は満州をいち早く承認して独立国として認めてしまったのです。

1932年(昭和7)9月16日 東京朝日新聞
そして1932年(昭和7)10月1日、リットン報告書がついに連盟に提出され、2日には世界に向かって公表されたのです。
報告書の内容は、柳条湖事件以後の日本の軍事行動を正当と認めず、満州国も中国人による自発的な独立運動の結果ではないと位置づけ、中国の主権の範囲とした上で、自治政府を樹立することを提言してきたのです。
この条件を日本が承諾するなど、当時の情勢下では天地がひっくり返ったって出来っこありません。
そこで関東軍のとった行動は前進あるのみ、万里の長城に接する熱河省を、満州国へ吸収するための工作を仕掛けることでした。
世界から孤立する日本、満州だけで満足すれば絞れば良かった!
関東軍は、万里の長城を越えて関内作戦と称する軍事行動を実行します。
何と言っても北京の近郊まで攻め上がってしまったのですから、中国人民の反日感情は激昂し、列強の我慢もここまでだったのでしょう。
1933年(昭和8)2月24日、国際連盟の本部(スイス・ジュネーブ)で総会決議が行われました。
結果は予想通り、日本の主張は認められませんでした。
満州の主権は中国にあるとされ、日本の占領を不服とする決議が、44ヶ国の中、42ヶ国が賛成し、反対は日本の1票のみ、棄権が1票(シャム・現在のタイ)ということで採択されたのです。

1933年(昭和8)2月25日 東京朝日新聞
これによって日本は国際連盟を脱退することになります。しかし、ここからが問題でした。
満州国の建国だけで止めておけば良いものを、中国本土に侵出する計画が組まれていたのです。
関東軍はこれらのお膳立てを緻密に行い、自衛処置、緊急避難と大義名分を付けてはその事態を閣議に追認させるという図式を貫き、日中戦争は泥沼の状況下に陥ってしまいます。
1933年(昭和8)に締結した塘沽停戦協定によって河北省の一部は非武装地帯となり、1935年(昭和10)には、その地に日本の傀儡政権、冀東防共自治政府が成立します。
1937年(昭和12)7月に起きた盧溝橋事件。この事件が日中全面戦争のきっかけとなりますが、その後も上海、南京、武漢三鎮と侵出し、最後は広東、香港へと火の手を上げていきます。
盧溝橋事件から第2次上海事変と続き、南京を占領する時点で、蒋介石は国民政府の首都を四川省の重慶に遷都しました。
時政治的には、1938年(昭和13)1月16日に発表された第1次近衛声明といわれる、「爾後(じご)国民政府を相手にせず、真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待し・・・」という声明によって、日中講和への道はすべて閉ざされてしまいます。
この声明によって、日本は中国国内で交渉相手をなくしたも同然となってしまいます。

1938年(昭和13年)1月17日 東京朝日新聞
満州事変から6年が経ち、日本は日中全面戦争という泥沼に足を踏み入れてしまったのです。
結局、1940年(昭和15)3月30日、重慶国民政府を脱退した親日派の汪兆銘による南京国民政府が立ち上がり、日本は満州国だけでなく、中国本土にも大きな傀儡政権を打ち立ててしまいました。これで、いよいよ中国から足を抜けない状況をつくってしまったんですね。
世界から孤立してゆく日本、アメリカとの一大決戦の幕が開きます。

1940年(昭和15)3月31日 東京朝日新聞
1931年(昭和6)9月18日に起きた柳条湖事件。この爆発音が日本の運命を決めたんですね。ここが太平洋戦争への原点だったのではないでしょうか。

柳条湖事件の歴史的現場
大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう
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