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日露戦争の現場を訪ねて その1 203高地の攻防戦

2011年の8月、日露戦争の激戦地の一つである旅順要塞、203高地を訪ねてみました。

あの山が203高地か


203高地を望む

          203高地を望む


想像していた「はげ山」と違い、樹木が生い茂っているのにまずはびっくり。

でも、あれから107年も経っているのだからあたりまえか。

旅順港は中国海軍の基地になっているので、

それを見下ろす203高地は長い間立ち入り禁止区域となっており、

20年くらい前から観光が許可されたそうです。

203高地へ入る案内看板

       203高地へ入る案内看板


203高地入り口に建つ石造りの案内オブジェ

     203高地入り口に建つ石造りの案内オブジェ



203高地の入り口には、写真のような立派な案内オブジェが建っており、

ここから麓にある管理事務所までは整備された道路が続きます。

山頂に行くには専用バスに乗り継がなければならず、

管理事務所で150元払って専用バスで頂上を目指しました。

残念ながらあいにくの雨模様、果たして旅順港は見下ろせるでしょうか・・・。

曲がりくねった山道を、うっそうとした樹木の間を専用バスは進みます。


(ここが203高地か・・・、あの壮絶な戦いがあった場所なのか、と思っただけで胸が締めつけられる思いに・・・)


そして、発車してから10分ほど経った時である。

バスが急に止まるので、 (どうしたのかな) と思っていたら、

ガイドの趙さんが、

「乃木さんの息子さんが戦死した場所を見に行きましょう」

と言うので、 専用バスを降りてみると、廻りは木々に覆われた崖。

下の方を見ると石碑が建っていました。

石段を降りて行くと、結構大きな石碑なので再びのびっくり。


乃木保典陸軍少尉の慰霊碑が見える

乃木保典(やすすけ)少尉の慰霊碑が見える。(ここで戦死したのか!)


乃木希典大将の次男、乃木保典陸軍少尉のまぎれもない石碑でした。


乃木保典少尉は、1881年(明治14)12月16日に乃木希典・静子夫妻の次男として生まれました。

1904年(明治37)2月8日の仁川上陸を皮切りに日露戦争が勃発すると、乃木希典大将は第3軍の司令官に抜擢され、旅順包囲戰を指揮しました。

遼東半島の戦場に2人の息子を送り出した乃木将軍。

2歳上の長男の乃木勝典(かつすけ)陸軍少尉は第2軍に配属され、

大連の北方に位置する金州南山の攻撃に参加して、すでに5月27日に命を落としています。

次男の保典は、父と同じ第3軍に配属されました。

203高地への凄まじい突撃の中で、

伝令として司令部と前線を行ったり来たりの任務を遂行。

しかし、203高地陥落寸前の11月30日、

ロシア軍の砲弾を至近距離に受けて崖から滑落、

大きな岩に頭をぶつけての即死でした。


ここがその現場だったのか!


乃木保典陸軍少尉の殉職の地に建つ慰霊碑

       乃木保典少尉の殉職の地に建つ慰霊碑


上を見ても木々が覆っていて山頂なんか見えない。

当時はここから頂上に陣取るロシア兵のトーチカが見えたんでしょうね。

今、この場所にいると、

映画のシーンにある山肌を駆け上る日本兵の突撃の様子が脳裏を駆け巡ってしまいます。


日露戦争とはいったい何だったんだろう!


ここで戦争に至った原因を考えてみましょう。

今から遡ること107年。

日清戦争(1894~1895)に勝利した10年後のことです。

三国干渉で辛酸をなめた日本政府は、大国ロシアと一戦を交える決意をします。

でも、その背景には何があったのか。

「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ!」

この文面、実は連合艦隊参謀・秋山真之が草案し、

東郷平八郎総司令長官がバルチック艦隊を迎えた1905年(明治38)5月27日、

旗艦三笠にZ旗を揚げて全艦に打電した言葉でした。

Zはアルファベットの最後の文字。

この後はない、という背水の陣という意味。

全艦の士気を高揚させる目的で使ったものでした。

実はこのZ旗、最初に使ったのは英国のネルソン提督だったそうです。

日本海海戦の100年前、1805年に起きたトラファルガーの海戦ではじめて用いられたといわれています。


Z旗

                Z旗


この日露戦争での勝利が、大日本帝国の礎をつくる出発点になろうとは誰が想像したでしょうか。


5年後には大韓帝国を併合。


日本はアジアの覇権を狙う新たな帝国として頭角を現すのです。

日本は何故、ロシアと戦わなければならなかったのか。

ロシアは1891年(明治24)の5月からシベリア鉄道の敷設に着工します。

最終目標はモスクワからウラジオストックまでの約9300㎞です。


ウラジオストック駅

       ウラジオストック駅


ウラジオストック駅にあるシベリア鉄道終着地点看板

ウラジオストック駅にあるシベリア鉄道終着地点の看板。


ウラジオストック駅のホーム

    ウラジオストック駅のホーム


その時点で、ロシアにとって喉から手が出るほどほしかったのが、

シベリア鉄道に連結する満州を縦断させる鉄道、東清鉄道でした。

本線はシベリア鉄道のチタから満州里、哈爾浜を通ってウラジオストックへ。

支線は哈爾浜から長春を通って大連・旅順へと続く路線です。


南満州鉄道

            遼東半島の鉄道図


そんな時、ロシアにとって予想外の事が起こったのです。

朝鮮の支配権を争って日清両国が激突したからです。

1894年(明治27)に朝鮮国内で減税や排日を訴えて東学党の乱が発生すると、朝鮮政府は清国に出兵を依頼。

それに対し日本も天津条約と日本公使館の保護という名目で出兵。日清戦争の勃発でした。

結果は日本軍の圧倒的勝利に終わります。

当時の清国は、アヘン戦争やアロー戦争で国力を消耗してるところに、

追い討ちをかけるように太平天国で混乱し、

国家への求心力は急速に衰え国民の信頼はすでに失墜していたのです。

講和条約は山口県の下関(昔は馬関)で行われたので下関(馬関)条約とも言われます。

清国代表は北洋軍閥を代表する李鴻章が全権を努め、

日本側は伊藤博文が全権を握って交渉に当たりました。

この条約によって日本は数々の利権を獲得することになります。


春帆桜1

        春帆楼(しゅんぱんろう)(下関市)
(1895年(明治28)4月17日に締結された日清講和条約(下関条約)の締結会場として知られている)


春帆桜2

         日清講和条約締結碑


朝鮮の独立を認めさせた日本。


台湾の獲得と遼東半島の割譲に成功し、この直後、朝鮮は大韓帝国と名を変え独立を宣言することになります。


李鴻章の道  講和交渉のため、李鴻章はこの坂道を利用して春帆楼に通いました。

        李鴻章の道 (下関市)
(講和交渉のため、李鴻章はこの坂道を利用して春帆楼に通いました)


実はここからが問題なのです。


下関講和条約が締結された6日後の1895年(明治28)4月23日、ロシアは満州への鉄道建設を目指しており、

日本に遼東半島の放棄を勧告してきたのです。

これに同調したのがフランスとドイツでした。


世に言う三国干渉です。


日本は3国を同時に相手にすることは出来ず、5月5日、苦渋の選択として、

この勧告を受諾せざるを得ませんでした。

三国干渉は日本にとって屈辱の一語だった!

ロシアは三国干渉の見返りとして、清国から満州に鉄道施設権を獲得します。

そればかりか

遼東半島の最南端にある旅順(旅順港を含む)を租借地とし、

大連の町づくりを開始したのです。

このやり方は、衰退する清国の足元を見ての、

言わば脅しでの権益確保でした。


大連大広場 現在は中山広場と呼ばれている

     大連大広場  現在は中山広場と呼ばれている。


ロシアはシベリア鉄道のチタから満州里、哈爾浜、綏芬河(すいふんが)までの本線と、哈爾浜から長春、奉天、大連、旅順までの南満州支線の2経路を1903年(明治36)に完成させ、特に哈爾浜から旅順の線を東清鉄道と呼びました。


大連駅

              大連駅


三国干渉に物を言わせたロシア。


遼東半島に鉄道を敷き、ロシア陸軍を西から極東方面へと大移動できるよう画策し、沿線の町々をロシア色に染め始めたのです。

50年前、クリミア戦争でセバストポリ要塞を放棄した苦い経験を糧に、

今回は本腰で満州の利権確保に乗りだしたというわけです。

日本国民は怒った!

ロシアへの報復が国民感情として高揚し、臥薪嘗胆の思いが募るばかりとなっていきます。

しかし、日本が単独でロシアと戦うのは苦しい。

そこで、ロシアとの一戦を窺いながらも、同じ中国権益確保を狙う英国と急接近し、

ロシアの極東への進出を牽制しようと、1902年(明治35)1月30日、軍事応援を伴う攻守同盟をイギリスと締結しました。

日英同盟の締結です。

ロシアが満州へ侵出したことは、朝鮮半島に君臨する大韓帝国の身の振り方にまで影響を及ぼし、

当時、日本が水面下で進めていた韓国併合計画までもが頓挫する憂慮すべき事態に・・・。

ついに我慢の限界に!


1904年(明治37)2月8日、日本はロシアと国交を断絶! 


ここに日露戦争が勃発したのです。


日本軍は2月8日の夜、第1軍が朝鮮半島の仁川に威嚇の意味を込めて上陸し、鴨緑江を越えて満州に進出します。

そこでロシア軍と交戦状態に入り、鴨緑江会戦が始まりました。

2月10日には両軍が宣戦布告を行い、緒戦は日本軍が勝利して兵は満州の奥へと進軍して行きます。

当時、旅順港はロシア太平洋艦隊の基地となっており、

故に日本帝国艦隊に脅威を及ぼし、日本陸軍による遼東半島への上陸を阻めていました。

しかし、鴨緑江会戦に勝利したのを機に日本兵の士気は大いに奮い立たちます。

ロシア側の総司令官は陸軍大臣だったクロパトキン大将。

満州軍総司令官として赴任すると、ロシア陸軍を鉄道を使って遼東半島へ移動する計画を立てます。

それに対し、日本側は大山巌元帥が満州軍総司令官に抜擢され、

児玉源太郎大将が満州軍参謀総長という、薩長派閥が二人三脚として立ち向かいます。


旅順港を封鎖せよ!


旅順にいるロシア太平洋艦隊を撃滅しない限り、

日本帝国連合艦隊が黄海の制海権を確保することは出来ません。

バルチック艦隊が動き出すという情報はすでにキャッチしており、

早急に対処する必要がありました。

そこで考えたのが、旅順口(旅順港の入り口)の閉塞作戦でした。

旅順口の幅は狭く(約240m)、大型艦船が通行できるのは、

その内でも中央部分の約100mだけです。 

そこで海軍は、その付近に貨物船などを沈めたり、

廃船を爆破したりして旅順口を封鎖しようと考えたのです。

ロシア太平洋艦隊が旅順港から出られなければ、

日本の連合艦隊がバルチック艦隊との挟み撃ちにあう危険性がなくなるからです。

旅順口閉塞作戦は失敗に終わる。

1回目は2月24日、2回目は3月27の未明に実行しましたが、

いずれも失敗に終わってしまいました。

この時、広瀬武夫少佐が敵の砲弾をもろに受けて戦死。

のちに軍神として崇められます。

そして3回目は5月2日の夜に行われましたが、

いずれも戦艦や陸上からの集中砲火が激しく旅順口の中央まで行けなかったのです。

残念ながら、旅順口閉塞作戦は失敗に終わりました。


旅順駅

              旅順駅


鴨緑江の会戦に勝利した第1軍は遼陽に向かい、第2軍は遼東半島に上陸して渤海に面する金州城を攻略、南山を確保しました。

 
これでロシア満州軍の本隊と旅順要塞部隊とは完全に分断されたわけです。


金州周辺地図2

            金州周辺地図


その時、日本海軍はどうしていたのか。


何としてでもバルチック艦隊が日本海に到達するまでに旅順艦隊を叩かなければならない。

それでないと完全な日本側の勝利とはならないからです。

しかし、旅順口閉塞作戦は失敗に終わっています。

では、どうすればよいのか。

旅順港にいるロシア艦隊に背後の山から砲撃してはどうか、

という作戦が生まれるわけです。

旅順要塞へ突撃!

ロシア太平洋艦隊を潰すのには、

旅順港の裏手に聳える山々から旅順港に停泊しているロシア艦船に砲撃を加えるしかありません。

大本営は5月に第3軍を編成し、司令長官に乃木希典(まれすけ)を任命します。


乃木希典司令長官率いる第3軍は、6月6日に遼東半島に上陸。


しかし、この戦いが日本戦史に残る膨大な死傷者を出すとは、

この時点では予想もしていなかったことです。

8月19日から11月26日までに計3回の総攻撃が行われ、

約2万3千名の死傷者を出す結果となってしまいました。

この時、大本営は旅順港を見渡せる203高地の奪取を命令しますが、

乃木司令官はロシア旅順要塞の中でも中枢をなす二龍山や東鶏冠山攻略に

大軍を投入するという失敗を繰り返すという有様。

日清戦争から10年も経つと、要塞の構造や敵の武器も進歩するもの。

遮二無二突っ込んだところで死体の山を築くだけでした。


その間、遼東半島では遼陽周辺で日露の地上戦、遼陽会戦が勃発!


大日本帝国の歴史の中でも、これほどに大規模な地上戦は、後に行われる奉天会戦を除いて記憶にない。


日本軍の主力は第1軍と2軍。ロシア満州軍本隊との一大決戦です。


8月24日から9月4日にかけて首山堡をめぐる一大攻防戦が繰り広げられたのです。

遼陽会戦といわれるこの戦闘、日露両軍合わせて35万の大軍が衝突し、

日本軍の死傷者は2万5千名に及ぶ苦戦を呈してしまいました。

それでも9月1日には首山堡を確保するという、日本陸軍の辛勝ながらもロシア軍を北方に押し返したのです。


首山峰 車窓から眺める首山峰

       首山峰 (車窓から眺める首山峰)


9月4日、退路を断たれると思ったクロパトキン大将は全軍に撤退を指示、奉天へ移動させますが、日本側にそれを追撃する余力はありませんでした。

秋山好古少将が率いる騎兵旅団の活躍はこの会戦でした。

また、首山堡の争奪戦では8月31日に橘周太少佐が戦死するという、日本軍苦戦の程度が感じられます。

しかし、この戦いは金州の南山占領と同じく、ロシア満州軍本隊と旅順要塞部隊とを分断するわけで、

これで日本軍は一気に旅順要塞攻略を仕掛けることが出来ます。

黄海海戦で制海権を掌握!

遼陽会戦が展開される直前のことでした。

旅順要塞を攻撃中の第3軍に同行している海軍特殊部隊が旅順港に

散発的に砲弾を撃ち込んだのです。

すると、海面に凄まじい爆発音と波しぶき。

ロシア太平洋艦隊は動揺してパニックに陥ってしまいます。

結局、二転三転した上でウラジオストックに向かうために旅順口を出たのです。

そこで待っていたのが日本の連合艦隊でした。

8月10日に起きた黄海海戦です。

黄海海戦と言えば、普通は1894年(明治27)9月17日に起きた日清戦争時の日本連合艦隊と清国の北洋艦隊の衝突を指しますが、ロシア太平洋艦隊との海戦も歴とした黄海海戦なのです。

結果は日清戦争と同様に大勝利。

1日で勝負がつき、日本連合艦隊は旅順口閉塞作戦の失敗を余所に黄海の制海権を確保したのです。

ロシア太平洋艦隊は損傷した上で再び旅順港へ逃げ帰り、それ以降、黄海に出ることはありませんでした。


その後、旅順要塞攻防戦はどうなったか。


乃木司令長官の攻め方に不安を持った満州軍総参謀長の児玉源太郎大将は、

大山巌元帥の代理として第3軍の司令部に赴き、

乃木3軍司令官と会談。

自ら第3軍の指揮を取ると言い出して前線へ。

今度は、203高地への集中的な攻撃を行ったのです。

それでも一進一退を繰り返す有様で、一度は占領した高地も再度奪回されるという苦戦を呈します。

旅順港の裏手にある山々には、ロシア軍が港を守るために頂上各所に要塞を築いており、約4万人のロシア陸軍が展開していました。


203高地を望む

          203高地を望む



日本軍が203高地の攻撃に集中すると見たロシア軍は、各所から兵を移動させ、ここに両軍入り交じっての壮絶なる戦いが展開されたのです。


金州周辺地図

           203高地周辺の地図


203高地攻略に成功!


弾丸が底をつき始めた日本兵の攻撃は絶体絶命の様相、

その奮戦ぶりはまるで阿修羅のごとく。

12月5日、第3軍がやっとのことで山頂を制圧すると、ロシア兵は浮き足立って雪崩の如くに敗走する始末でした。

こうして日本軍は203高地の攻略に成功しますが、

その代償は莫大なものになりました

結局のところ6万5千の兵力を投入して、死者5千、負傷者1万2千という膨大な犠牲者を出しての占領でした。

標高が203mだから203高地と名付けられたこの山も、

双方の砲弾で3mは低くなったと言われています。

突撃と退却を何度も繰り返した壮絶なる戦い。多くの死傷者を出したことで、日本人にとっては忘れられない死闘として後世に語り継がれるようになります。


さて、バスは203高地山頂の専用駐車場に着きました。


少し歩いて頂上へ。



山頂にあるロシア軍が使用したカノン砲のオブジェ

 山頂にあるロシア軍が使用したカノン砲のオブジェ


ロシア軍の使用したカノン砲の詳細

     ロシア軍の使用したカノン砲の詳細


203高地頂上のど真ん中には、爾霊山(にれいさん)と書かれた銃弾の形をした忠魂碑が建っていました。

これは、日露戦争が終結した1905年、戦場で亡くなった将兵たちの霊を慰めるために、

乃木大将が付近にあった砲弾や薬莢を集めさせて鋳型に流し込んで作らせたものです。

1913年に完成しましたが、203を中国語に訳すと爾霊山となるので、その名を刻ませたそうです。


霊山と刻まれた大砲の弾をもじったオブジェ。乃木大将がつくらせたものです。

爾霊山と刻まれた大砲の弾をもじったオブジェ。(乃木大将がつくらせたものです)


しかし、今日はあいにくの雨。

案の定、旅順港は見渡せません。残念でした。


この方向に旅順港が見えるはずなのに、雨では無理か!

(この方向に旅順港が見えるはずなのに、雨では無理か!)


晴れていたらこんな写真が撮れていたんでしょうね。

 (晴れていたらこんな写真が撮れていたんでしょうね)


この頂上に立って、先人たちが107年前、ここを占領しようと壮絶な戦いをしたのかと思うと、


つい目頭が熱くなって・・・。


旅順攻囲戰における全死傷者は、

日本側が約6万人(内、戦死者は約1万6千)、ロシアが約4万人(内、戦死者は約1万人)という凄惨な数字となり、まさに両国の死闘が繰り広げられた一戦でした。


日露戦争の現場を訪ねて 








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日露戦争の現場を訪ねて その2 奉天会戦とその後

旅順要塞の攻略が終わっても、日露戦争の決着はつきませんでした。

旅順要塞を占領されたクロパトキン大将率いるロシア満州軍は、

「戦略的撤退」

と銘打って奉天へと退却を開始しました。

この段階に至っても、ロシアはシベリア鉄道を経由して

続々と援軍を送り込んでくる余力があったのです。

1905年(明治38)1月下旬、日本軍は旅順から奉天を目指して北上を開始します。

いよいよナポレオン戦争以来の地上戰、

双方合わせて55万の兵力が激突する

という陸上での史上最大の戦い、奉天会戦の火蓋が切られるのです。


1932年頃の絵はがき

   瀋陽駅(旧奉天駅) 1932年頃の絵はがき


奉天会戦の結果はどうなったのでしょうか!

日本軍は総力で25万。

迎え撃つロシア軍は30万。

両軍合わせての一大決戦です。


乃木大将率いる第3軍がロシア軍の右翼、鴨緑江軍がロシア軍の左翼を狙い、

第1軍、第2軍、第4軍は正面から奉天を攻撃する計画です。

1905年(明治38)の3月1日、

日本軍の総攻撃で奉天会戦は開始されました。

その範囲は60㎞以上に及ぶ広域戰となります。

1904年2月からの開戦以来、1年間で日本軍は多大な犠牲を払ってきましたが、その状況は人員的な面だけでなく、財政的にも負担が響いて、これ以上の戦争継続が難しくなっていました。

しかし、ロシア側はバルチック艦隊が日本へ向けて航行中だし、今、ここで講和に乗る状況ではありません。

こうした事情から、日本の首脳陣は、一刻も早くロシア軍の主力を撃破して

相手の戦争能力にダメージを与え、

講和への道を切り開かねばならなかったのです。

結果は日本軍の逆転勝利、辛勝か!

塹壕を掘って日本軍を迎え撃つロシア軍。

包囲網を徐々に狭めていく日本軍。

その白兵戦は凄まじいものとなりました。

特に正面攻撃の第1軍、第2軍、第4軍が苦戦し、

総攻撃の初日だけで第2軍に約5千人の損害が出ました。

奉天会議における両軍配置図

         奉天会戦における両軍の配置図


ロシア軍がやや優勢で展開される中、3月9日のことでした。

突然とロシア軍が後方に退却を始めたのです。

これには日本軍の方が驚きました。

3月10日の夜、日本軍が奉天の町に入城することで、奉天会戦は終了しますが、日本軍としては兵力的にも経済的にもすでに限界にきており、

ロシア軍を追撃する余裕などありませんでした。

クロパトキン大将は、この決断によって満州軍総司令官を罷免されますが、

何故、優位な立場であるのに後方に退く命令を出したのか。

よく考えてみると、

これはロシアの伝統的な作戦だったのです。

ナポレオン戦争の時もそうでした。

後方に退くことで敵を懐奥まで誘い込み、疲弊させて最終的に勝利を導くという、戦略的撤退といってロシアの常套手段だったのです。

しかし、ロシア本国では、

そんな悠長なことはやってられない状況が発生していました。

民衆の経済的困窮からデモが相次ぐという、

ロシア政府も冷静な視点で受け止める余裕などなくなっていたのです。

1905年の1月9日には首都・ペテルブルグで労働者が立ち上がり、

日露戦争の中止、基本的人権の確立などを掲げて

ニコライ2世に直訴するというデモがありました。

その時、軍隊が非武装のデモ隊に発砲するという事件が発生。

世に言う「血の日曜日事件」です。

このように、ロシア国内で社会不安が増大している中、

奉天会戦での撤退を伝統的撤退などと言ってはおれず、

したがってクロパトキン大将の更迭は当然の措置だったのかも。

奉天会戦での両国の損害は、

死者だけでも日本側が1万6千人ロシア側が9千人という膨大な数字になり、負傷者に至っては日本側が6万人
ロシア側は5万人
という大激戦でした。


日本は旅順攻略から奉天会戦に至るまで相次ぐ勝利を重ねたものの、

常備兵員が20万人と言われる中、100万人以上の兵力を動員せざるを得ない総力戦は、すでに国力の限界に達し、あまつさえ戦費のほとんどは戦時国債でまかなうという苦しい状況では、これ以上の戦争の継続は困難でした。

この結果を受けて、


日本政府はアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト和平交渉の斡旋を依頼しますが、


ロシア政府は間もなく日本海に接近するバルチック艦隊に最後の望みを託しており講和を拒否します。

いずれにしても陸上での戦いは奉天会戦をもって終了し、あとは艦隊決戦にすべてを託すだけとなります。


今の奉天はどうなっているのでしょうか。


当時の奉天は瀋陽と名を変え、中国国内でも目覚ましい発展を遂げています。

日露戦争の激戦地の一つ、現在の瀋陽にこれから行ってみましょう。

大連から瀋陽までの距離は約380㎞。

列車は瀋陽へ向けて発車しました。


大連駅構内(1)

            大連駅構内


大連駅構内(2)

             大連駅構内


大連駅構内 遼東半島を南北に走る鉄道は、当初、ロシアが清より租借して東清鉄道と名付けました。

旅順・大連から奉天、長春を経て哈爾浜へ。

そこからは満州北部を通ってシベリア鉄道のチタまで連結しています。


車窓の景色

            車窓の景色


ロシアの時代が東清鉄道。

1905年のポーツマス条約によって大連から長春までの区間は

ロシアに代わって日本が清より租借し、南満州鉄道と名付けました。

その後、辛亥革命で長春以北は中東鉄道と名を変え、満州国が成立すると、今度はソ連から全線を買い取って北満鉄道と名を変えます。


革山駅に近づくと、煙突が見え始める。

       (鞍山駅に近づくと、煙突が見え始めた)


列車は鞍山に到着しました。


革山駅ホーム

             鞍山駅ホーム


鉄鉱石の産地でもあり、満州国時代は満鉄が鉄の生産を一手に引き受け、

当時は鉄鋼技術者を中心に日本人が多く住んでいたところです。

鞍山の次はいよいよ遼陽ですが、この列車は特急なので止まりません。

この一帯は遼陽会戦が繰り広げられた場所で、その中でも首山堡の戦いは歴史に残る激戦でした。

両軍の主力がはじめて激突したのが遼陽会戦。

ロシア軍20万人が展開する防御陣地に15万人の日本陸軍が挑んだ激戦です。

日本軍にとっては近代陸軍を相手にした始めての衝突でした。


両軍合わせて4万人以上の死傷者が出たのです。


首山峰が窓越しに見えてきました。

あれが首山峰か!



車窓から見る首山峰

           車窓から見る首山峰


列車は瀋陽北駅に到着!

さすがに瀋陽は大きいですね。

瀋陽北駅は新しい駅ですが、再開発が進み、この一帯は新しい開発地区として発展を遂げています。


これが昔の奉天駅か!


現在の瀋陽駅(旧奉天駅)

          現在の瀋陽駅(旧奉天駅)


瀋陽駅(旧奉天駅)を見ると、まるで東京駅にそっくりではありませんか。

でも、それもそのはず、当時の満鉄と関東軍が協力して東京駅を真似てつくったというのだからあたりまえか。


旧奉天大広場(中山広場)

          旧奉天大広場(現中山広場)


大連大広場と並んで比べられるのが、現・中山大広場(奉天大広場)です。

毛沢東の像が北京を指さして立っていますが、

広場の大きさは当時のままだそうです。


旧千代田公園(中山公園)

          旧千代田公園(中山公園)


当時の千代田公園は中山公園と名を変えても、今もその姿は昔のまま。

満州時代の給水塔がその面影を残しています。

107年前、この一帯で両軍合わせて55万の兵たちが死闘を繰り広げたんですね。それを思うと感慨も一入です。


奉天会戦のその後は?

三国干渉の雪辱を果たす!



1905年(明治38)5月27日、7ヵ月に及んだ航海の末にバルチック艦隊は日本海に姿を現しました。


旅順港を基地としていたロシア太平洋艦隊は、日本陸軍の旅順要塞攻撃によって湾外に出ることは出来ません。

日本海を舞台にしたロシア・バルチック艦隊と日本帝国連合艦隊の激突、まさに雌雄を決する戦いでした。

結果は欧米列国の予想を覆し、バルチック艦隊がほとんどの艦船を失うという惨敗で幕引き。

ロシア司令長官までもが捕虜に

なるという近代海戦史上、例を見ない

日本帝国連合艦隊の圧勝で終わったのです。

頼みの綱と見られたバルチック艦隊の完敗は、ロシア政府を講和に引き込むきっかけとなり、9月5日、セオドア・ルーズベルト大統領の仲介でアメリカ東部の港湾都市、ポーツマスで日露間での講和条約が締結されました。

その結果、賠償金は取れなかったものの、10年前の日清戦争での苦い経験、

遼東半島を返還した三国干渉の借りを返すという雪辱を果たしたのは大きな成果でした。

旅順・大連から長春までの東清鉄道は南満州鉄道と名を変え、

その後の満州進出への足がかりとなってゆくのは周知の通りです。


その代償は?


日露戦争は1904年(明治37)の2月8日の仁川上陸に始まり、

1905年(明治38)9月5日の講和条約まで約1年半の戦いでした。

戦争に勝利したとは言え、


日本軍の戦死者は8万8千人

病死者は2万7千人

負傷者は何と15万人

という莫大な数字で、合わせて26万5千人

という途方もない犠牲を払ってのことでした。

それに比べてロシア側の損害は、

戦死者だけなら日本側の40%というから

日本軍の消耗の程度がわかります。


大日本帝国は日露戦争で獲得した様々な利権によって、その後は満州の開発を促進し、やがては大東亜戦争へと階段を上り詰めてしまうのです。








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張作霖爆殺事件の現場を訪ねて(張作霖の足跡を追う)

瀋陽駅(旧奉天駅)を降り、待ち合わせの車に乗って20分ほど走ると

張作霖爆殺事件の現場に到着しました。


当時の新聞を読んでいたので、上を走る旧南満州鉄道と

下を通る京奉線の交差する陸橋の写真が頭に浮かんだ。

やっぱりそのままだ!

周囲こそ、ビルが建ち並び、アパート群が密集して当時とは違いますが、

線路の形態や陸橋の橋桁は当時のまま。

半分は爆発で崩れ落ちて新設したそうですが、

半分は当時のコンクリートがそのまま残り、

爆薬が仕掛けられた橋桁の回りはススで黒ずんでいました。


事件現場の陸橋の橋桁部分

         事件現場の陸橋の橋桁部分


事件現場となった陸橋の爆薬が仕掛けられたと思われる橋桁周辺には、

当時の爆薬のススがしみ込み黒ずんでいるのがわかる。

中国側はこの事件を皇姑屯事件と言いますが、

隣接するアパートの非常階段を上って踊り場から見ると、

確かに線路内の敷地に「皇姑屯事件の碑」と書かれた石碑が見えます。


皇姑屯事件と書かれた石碑

      皇姑屯事件と書かれた石碑が遠くに見える


1928年(昭和3)6月4日の早朝、

張作霖元帥の乗った特別列車はこの陸橋の下を通り抜けた瞬間、

橋桁に仕掛けられた爆薬によって列車が吹き飛ばされ、

奉天軍司令部内にある張作霖の自室に担ぎ込まれました。

1週間後に死亡の発表がありましたが、

張作霖の死が何者の仕業によるものだったのか。

そして何の目的があったのか。

いずれにしても、張作霖の死が帝国日本の進路に

多大な影響を及ぼしたことは間違いない。

張作霖とはどんな人物だったのか。

事件に至るまでの足跡を追ってみました。

張作霖は馬賊出身の頭目であった!

日露戦争の最中、スパイ容疑で日本軍に1人の男が捕らわれました。

その男、小柄な恰幅ですが、

双眸の奥に秘められた鋭い光は到底凡人とは思えない何かを感じさせていた。

日本側はこの男に死刑を宣告しますが、

使える男と見た日本帝国陸軍・満州軍総参謀長の児玉源太郎は、

その男の命と引き替えに「味方になれ」と誘うのでした。

その男の名は張作霖

遼寧省海城県出身の馬賊上がりの熱血漢でした。

海城は遼陽の南50㎞ほどにある、旅順から哈爾浜まで続く

東清鉄道・南満州支線の沿線にある小さな町です。

遼東半島の鉄道地図

          遼東半島の鉄道地図


1875年(明治8)に貧しい農家の家に生まれた張作霖は、

父と死に別れてからは継父に育てられますが折り合わず、

突然、家を飛び出して吉林省に渡り馬賊に身を投じます。

しかし、1904年(明治37)に日露戦争が始まると、

満州の中でも遼寧省や吉林省は戦場となり、

張はロシア軍のスパイとして活躍していました。

児玉源太郎大将の計らいで命拾いした張作霖。

でも、そう簡単に逆スパイを承知しません。

そこで児玉は、ある部下に張作霖を説得するよう命じるのですが、

その部下こそ、

後に政友会から首相となって張と大きく関わる田中義一(当時は少佐)でした。

張は田中少佐の執拗な説得に促されると、その旨を承諾。

今度は日本軍のスパイとしてロシア軍の駐屯地へ潜入し、

数多くの有益な情報を日本軍にもたらせました。

満州(東3省)という地域は、

もともと清朝・中央政府の命令や統制が浸透しにくいところであり、

警察力も弱く、非合法の組織が乱立するという、

そんな中で張作霖は成長します。

日露戦争が終結すると、張は日本軍を離れて清朝に帰順。

それは清朝政府が馬賊や軍閥に優遇政策をとった為で、

この行為で張は2000人以上の清朝軍を率いる部隊長に昇格。

すると、張のもとには各地から人が集まり、

顕然たる勢力に拡大してゆきます。

その時、張は阿片売買で財源を稼ぎ出し、

その金を目当てに再び人が集まるという好循環を繰り返し、

見る見るうちに大軍閥に成長してゆく。

地域の大軍閥として君臨する張作霖。

小軍閥を吸収して満州の事実上の支配者にのし上がると、

日本とは持ちつ持たれつの関係を保ちながら

満州全体を席巻していく姿勢をみせます。

日本の満州政策は南満州鉄道が基盤に!

ポーツマス条約の締結後、

吉林省・長春以南は南満州鉄道として日本側が管理運営することになり、

鉄道運営や沿線のインフラ整備を行う会社として、

1906年(明治39)に南満州鉄道株式会社(通称・満鉄)が設立されました。


南満州鉄道株式会社の本社跡 (大連市)

      南満州鉄道株式会社の本社跡 (大連市)


1911年10月10日、孫文による辛亥革命が勃発すると、

清朝に代わって中華民国が成立し、孫文の後を引きついだ袁世凱は

満州の支配者になりつつあった張作霖に一目置くようになります。

しかし、袁世凱が1916年に死去すると、

待ってましたとばかりに張作霖は満州の覇権争いに乗り出します。

40万の兵力を擁し奉天軍と名付け

日本側の顔色を窺いながらも北京政権にちょっかいを出し始めたのです。

一方、日本側は1919年(大正8)に関東州(旅順・大連周辺の租借地)の

防衛と満鉄の権益保護のために旅順に関東軍司令部を設置し、

満鉄が行う沿線の町づくりに協力して体制を強化してゆきます。


関東軍司令部跡  大連市旅順区

         関東軍司令部跡 大連市旅順区


満州東3省の地図 1931年頃

        満州東3省の地図 1931年頃


1924年(昭和3)には東3省の人口は3000万人を

越える勢いを見せていました。

張作霖、大元帥に就任。

中華民国の主権者に!

張作霖という人物、いったいどうやって中央政界に打って出たのか。

袁世凱が1916年(大正5)に急死してからは、

中央政権を担う北洋軍閥にまとまりがなくなってしまいます。

すると、北洋軍閥は直隷派と安徽派に分裂し、直隷派の代表、

馮国璋と安徽派の代表、段祺瑞の2大勢力が対立しながら北京政権を担っていました。

そんなところに奉天派を代表する張作霖が顔を出したもんだから、

政権は大混乱に。

3者牽制する中、張は自分が政権を奪取して中国の覇者になろうと、日本を味方につけて優位に立とうと画策します。


紫禁城 北京市

          紫禁城 (北京市)


1924年1月24日、混乱する北京政府を余所に、

孫文は中国国民党第1回大会を広東州・広州で開催したのです。

第1次国共合作と呼ばれるこの大会、

ここで始めて共産党を引き入れた中国国民党が成立し、

軍閥を主体とした北京政府に対抗するため、「北伐」と称して

華北への進攻を宣言しました。

この大会には湖南省を代表して参加していた1人の青年がいました。

その人の名は毛沢東、言わずと知れた将来の中国共産党の指導者でした。


1920年の安直戦争に始まり、

1922年と24年には第1次、2次奉直戦争を経て、

1924年10月23日には馮玉祥が北京政変を起こして孫文に北上を要請すると、

孫文は北京に入り、

北京政府には一時的にせよ統一という一文字が見え始めてきました。

しかし、ここで予想外のことが起こってしまいます。

体調を崩して孫文が急死してしまうのです。

その後は再び軍閥同士の勢力争いに・・・。

孫文の後継者と目された蒋介石は国民革命軍を率いて動き出だします。

1926年7月1日、国民政府は第1次北伐を発表。

と同時に北京を目指して進攻が開始されたのです。(第1次北伐)

張作霖に運が向いてきた!

孫文の死後は奉天派が実権を握りつつ、

張作霖はこれなら「国民革命軍に勝てる」と思ったのか、

自分が中国を統一しようと考え始めました。

それは北上してくる国民革命軍が寄せ集め軍隊だったからです。

北京政府は張作霖の一人舞台に!

蒋介石の国民革命軍は共産党を引き入れていたために、

背後のソ連と共産党の影響を考え、日本政府は張作霖を支援してきました。

この考えは欧米列強にも共通することです。

そんなこともあり、1926年(昭和元年)12月に

張作霖は北京で大元帥に就任。

自らが中華民国の主権者であることを宣言したのです。

ここで、張は将来を見据えて、何かと注文つけて

うるさく言ってくる日本よりも、このところ自分に好意を寄せる

欧米への歩み寄りを優先しようとします。

この辺から張作霖と関東軍との間に確執が見え隠れするようになります。

張作霖の勢いはここまでだった!

蒋介石の国民革命軍が北伐を開始し、

1927年3月に南京を占領したときのことでした。

革命軍の一部の兵隊が日・英・米などの領事館を襲撃する事件が起きます。

南京事件です


新聞 南京事件

 南京事件の記事  1927年(昭和2)3月26日 東京朝日新聞


蒋介石はこの事件を共産党分子の仕業と判断。

国民党内部の共産党勢力の拡大を憂慮し、

また、欧米諸国を味方につけるためにも共産党は排除すべきと決意します。

そして翌月、4月12日に

上海で共産党を弾圧するクーデターを起こしたのです。


新聞 上海クーデター

上海クーデターの記事  1927年(昭和2)4月13日 東京朝日新聞


蒋介石は内部を固めるために北伐の中止を決定。

南京に戻って北京政府とは別に新たな国民政府を樹立したのです。(南京政府樹立)

ここに第1次国共合作は崩壊。

背後に潜む共産主義を排したことで、蒋介石は欧米諸国からの

信任を得ることに成功します。

それに答えるように欧米諸国は、張作霖から蒋介石へ乗り換える姿勢を見せ始めます。

日本の山東出兵!

日本政府は張作霖の援護と居留民保護を名目に

第1次山東出兵を敢行しますが、このときは国民革命軍が山東省に入らなかったために撤兵。

    
新聞 1927年5月29日  第1次山東出兵の記事

           第1次山東出兵の記事 
     1927年(昭和2)5月29日 東京朝日新聞



1928年4月、蒋介石は改めて国民革命軍を改編し、

今度は欧米の指示を取り付けて再び北伐を開始したのです。(第2次北伐)

このとき、日本政府は第2次山東出兵を決めました。

日本軍が山東省の省都、済南城を包囲すると、ちょっとした情報の錯綜で、

日本軍と国民革命軍との間で武力衝突が発生。


5月8日には日本軍が済南市を総攻撃するという済南事件が発生してしまいました。


しかし、城内を占領してみると、そこに国民革命軍の姿はなし。

蒋介石率いる国民革命軍はすでに脱出して北京へ進軍していたのです。

日本軍は無防備な済南市民だけを殺戮するという、

非難こそあれ、益はなし。

中国国民にさらなる抗日・反日の口実を与えてしまう、

とんでもない事件だったのです。

どうしてこんな事件を起こしてしまったのか。

普通なら敵であっても相手は大軍。

軍の移動は察知できたはずなのに・・・。

そんなことがあってか、

蒋介石と日本軍部の中枢とで暗に密約が交わされていたのではないか、

という情報まで飛び交う始末に・・・。

果たして蒋介石との密約はあったのか・・・。


それは、蒋介石が中国統一を成し遂げるのを日本軍は邪魔しない。

それと引き替えに満州へは国民党軍を差し向けないとする条件の取り決めです。


済南城の景色

            済南城の景色 
(超然楼から眺める大明湖と済南市街。 城内で凄まじい日本軍の攻撃がありました)


張作霖の北京脱出が決定!

日本政府は張作霖政権を応援するため山東出兵を計3回繰り返しましたが、

この時の首相が、日露戦争の当時、児玉総参謀長の命令で

張作霖の命を救ったあの田中少佐、政友会の田中義一なのです。

田中首相は張作霖の命を救ったのは自分である。と、

何かにつけて御託を並べる。

何としても生かして再起を図らせようとする首相と、

張作霖は今や不要と判断した関東軍との間に大きな確執が生じていました。

関東軍に不穏な動きが!

この動きを一番心配していたのが宮中の側近たちでした。

元老・西園寺公望を筆頭とする宮中穏健派と呼ばれる陛下の信任が厚い人たちです。

何か事件が起きなければ良いが、と軍部に度々の注意を促していました。

張作霖が中央政権を担って2年4ヵ月が経った今、

張作霖元帥は蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)に追われ、

奉天へ逃げ帰るしか手立てがなくなりました。

帰還する途中で何か異変が起きるのでは・・・。

そんな懸念の中、元帥は安全な飛行機に乗らず、

あえて鉄道を使って帰る手段を選びます。

張作霖元帥ついに北京脱出!

6月2日午後11時、北京・正陽門駅の貴賓室では張作霖元帥が奉天まで帰るまでの警備体制の話し合いが行われていました。


旧・正陽門駅 現在は鉄道博物館になっています (北京市)

 旧・正陽門駅 現在は鉄道博物館になっています (北京市)


1928年(昭和3)6月4日  東京朝日新聞

1928年(昭和3)6月4日 東京朝日新聞



6月3日午前1時、小柄な大元帥は、軍楽隊の演奏と儀仗兵による礼砲に送られ、見送りの人たちと握手を交わして車中の人に・・・。

午前1時20分、張作霖を乗せた20両編成の特別列車は、満天の星空の下、

汽笛を鳴らして北京を後にします。

正陽門を出ると、環城線を使って北京城を一周して京奉線へと入っていきます。そこからは天津、山海関、錦州、新民府、奉天へと続く約750㎞の道程。


北京城の周囲を走る環城線

         北京城の周囲を走る環城線


北京~奉天  鉄道地図

           北京~奉天  鉄道地図


警戒心の強い張作霖は列車を通常通りには運行させませんでした。

天津までは一気に突っ走り、そこで2時間の休憩をとったり、

5本の列車をダミーとして先に行かせるなどして用心を怠りません。

山海関に到着した時は予定時間を大幅に過ぎていました。

ここからはいよいよ満州入りです。

6月4日午前5時30分、張作霖の乗った列車が奉天瀋陽駅から1つ手前の駅、

皇姑屯駅を通過して南満州鉄道との立体交差の陸橋に差し掛かります。



皇姑屯駅(瀋陽市)

        皇姑屯駅(瀋陽市)


張作霖の乗った貴賓車は先頭から8両目、

鮮やかなコバルトブルーの車両が爽快に陸橋に入りかけた時、

その時でした。

「ドドッ、ドカーン」

強烈な爆発音が地響きをともなって、

瞬く間に炎と黒煙が暁暗を破って空に突き上げたのです。

現場は京奉線と満鉄本線が立体交差する陸橋で、

上を満鉄本線が通り、下を京奉線がくぐる形になっていました。

皇姑屯駅と奉天瀋陽駅の中間辺りでした。


爆殺現場の地図 奉天 1928年頃

       爆殺現場の地図 奉天 1928年頃


1928年(昭和3)6月5日 東京朝日新聞

     1928年(昭和3)6月5日 東京朝日新聞


現在の張作霖爆殺現場列車は脱線

       現在の張作霖爆殺現場


列車は脱線。


付近は火薬の匂いと黒煙が充満し、

怒号と銃声が鳴り響く極度の緊張状態になりました。

煙の間から見えてくるのは、焼けただれて外枠だけが残り、

上部の屋根が破壊された無残にも脱線した貴賓車でした。

張作霖大元帥は偶然にも通りかかった奉天軍の憲兵司令車に

乗せられて奉天城へ担ぎ込まれます。

そして帥府からは重体との発表が。

実はこのとき、元帥はすでに死亡していたのではないかとの憶測が・・・


現存する奉天城の城壁

          現存する奉天城の城壁


張氏帥府

          張氏帥府(奉天軍司令部)


新聞は

「南軍便衣隊の仕業か、怪しき支那人捕らわれる」

などど報道しましたが、この事件、だれが見ても関東軍の仕業としか思えませんでした。

事件が落ち着くと、奉天軍からは張作霖の死と、長男の張学良がその跡を引き継ぐことが公表されました。

張作霖爆殺事件は、昭和という時代の幕開けに起きた事件です。

その後の日本の方向性が、この事件によって形づけられたといっても過言ではないでしょう。


3年後の1931年9月18日、満州事変の勃発とともに大日本帝国は中国大陸にどっぷりと足を踏み入れ、

延いては太平洋戦争へと突入してしまうのです。






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