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尼港事件の現場を訪ねて 悲劇の尼港監獄 2

トレピーチン一党が尼港を包囲したのは1月の中旬でした。


それから3ヵ月に及ぶ死闘の末、

尼港の町は廃墟と化してしまいました。

3ヵ月間で2500人以上の白系ロシア人が虐殺され、

邦人の死者も600人以上に上りました。

残った邦人は獄舎に収監されている
132名だけ。

その日本人獄舎にも魔の手は
容赦なく迫っていました。


そして5月24日

ついに獄舎から引きずり出された邦人たち。

そこで彼らに待っていたものは・・・。

赤軍パルチザンは獄舎では殺さず、まずは半殺しに・・・。

そしてアムール川河畔でサーベルで刺し殺したのです。 


当時のニコラエフスク

     当時の監獄 (現在はニコラエフスク拘置所) 

                                
現在のアムール湖畔

           現在のアムール河畔                                             

四方から聞こえてくるる悲鳴、悲痛な叫びは町全体を包み込みます。

「助けて!」

と泣きじゃくる女性や、逃げ惑う邦人を追いかける赤軍兵士。


あたりは地獄絵図へと変貌し、

そして、邦人は皆殺しの運命に・・・

ここで赤軍パルチザンは、町を破壊する行動に出ました。

トレピーチンは逃げなければならない。

日本の派遣隊が近づいているし、

こんな虐殺を新たに樹立された革命政府も容認するはずがないからだ。

トレピーチンは焦った。

「全員、ケルビに向かうぞ!」

それは退却の合図でした。

ケルビは尼港から350キロ西へ行ったところの小さな町。

尼港とケルビの地図

            尼港とケルビの地図


日本の派遣隊は過酷な状況を乗り越え、少しでも早く尼港へと全力で進んでいました 。

「もう少しで尼港に上陸だ!」

尼港派遣隊の声が聞こえました。


第7師団、多聞大佐が尼港に上陸したのは6月3日のことでした。

続いてアムール川を下ってきたハバロフスク派遣隊も5日遅れで到着。


アムール川の河口を望む

          アムール川の河口を望む 

                                          
上陸した派遣隊が尼港の町で見たものは・・・。

それは想像を絶する光景でした。

あたりは瓦礫の山、おびただしい死体の山。

これを地獄絵と言わず何と表現すればよいのか。

最大の悲劇は、日本人が収監されていた獄舎に派遣隊が入ったときのことでした。

壁に書かれた血みどろの文字。 

死ぬ直前、収監者の誰かが書いたと思われる最期のメッセージです。

「大正9年5月24日午後12時を忘れるな!」

同胞たちの死を目のあたりにする派遣隊員の悔しさは、

とうてい言葉に表現できるものではありませんでした。

1人の将兵が嗚咽交じりに、
                                         

「もう少し、早くに来てあげることができれば・・・」


それは、兵士全員の気持ちでした。

派遣隊一人一人に無念の涙が溢れていました。

イーゴリーは監獄の前に立ち、憤る表情で、


「こうやって当時を振り返ると、亡くなった人たちの悲痛が聞こえてくるようです」

続いてソーニャ元館長が、

「廃墟となった尼港の町には7人の生存者がいましたが、中国人が4人とアメリカ人が1人。
あとはロシア人の牧師が2人でした。
残念ながら日本人の生存者はいなかったんです」


尼港事件の全容を知ったイーゴリーは唇を噛みしめた。

「冬の閉ざされた尼港で4000人の無頼漢たちに囲まれたんじゃ、

所詮、日本側に勝ち目はないですよ。

革命の状況を考えれば、もう少し守備隊人数を

充実させておく必要があったんじゃないですか」                                


破壊された尼港の町

    破壊された尼港の町(ニコラエフスク資料館所蔵)


尼港にいた日本人居留民は守備隊を合わせて734名でした。

しかし、この事件で全滅。

日本政府は、発足したばかりの革命政府に補償の要求をしますが、

革命政府は係わっていないの一点張り。

最後まで赤軍パルチザンとの関係を全面否定したのです。

果たして、
尼港事件の結末はどうなったのでしょうか。







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尼港事件の現場を訪ねて  さらば尼港

尼港事件は歴史的に

どんな意味を持っていたのでしょうか。



日本側から見れば、漁業や木材などの資源確保はもちろん、

防共拠点としての地理的要因があったことは確かです。

ただ、居留民の安全を図るという立場から考えると、

防備の点でどうだったのか。

海軍電信隊と守備隊を合わせて350名の配置で十分だったのだろうか。

領事館を置く重要地域で、且つ冬の間は氷で閉ざされて移動が出来ないのです。

隣の町までは50㎞以上もあるんですよ。

でも、この町を歩いてみればわかります。

本当に小さな町なんです。

普通の感覚から言えば、350名の熟練度の高い守備隊がいれば、

居留民の安全は十分に保たれると誰もが思うでしょう。

 しかし、この時代は何が起こるかわからない。

特にこんな辺境地では逃げるに逃げれないのだから・・・。

韓国併合の時もそうでした。

現地では反対運動が激化しているにも拘わらず、

意外にも日本国内ではその反響を無視する傾向があった。

つまり、

他国のナショナリズムを軽んずる傾向のあったことは否定できないでしょう。

まさか、こんなことが起こるとは誰も想像してなかったのです。

当時の尼港(ニコラエフスク資料館所蔵)

     当時の尼港 (ニコラエフスク資料館所蔵)


もともと、シベリアへの出兵はチェコ・スロバキア軍の救援とロシア革命への干渉が目的でした。

しかしながら、ロシア革命が成立して第1次世界大戦が終結すると、

潔く連合国は自国へ引き揚げてしまったのに、

何故か、日本軍だけはシベリアに居座った。


その代償がこの事件なのか。

それにしては、あまりにも犠牲が大き過ぎた。

尼港の町を臨む


        尼港の町を臨む


尼港事件から11年後に勃発する満州事変、

そして17年後には大陸浸出のきっかけとなる盧溝橋事件が起きますが、

すべて軍隊駐留に対する相手国の反発が根底にありました。

盧溝橋事件の3週間後に起きた通州事件は、

よく第2の尼港事件と言われますが、

あの時も日本の居留民と通州守備隊が中国保安隊に襲われ、

ほぼ全滅となって尊い命が失われてしまいました。

これ、すべて侵略を前提とする
帝国主義的発想がもたらしたものではないだろうか。

大日本帝国の根底を成す領土拡張主義、

結局はその発想が時代を踏み越えて大東亜戦争まで拡大してしまった。

尼港事件は、大日本帝国が満州に隣接する

ロシア沿海州に傀儡国家の建設を夢見た代償であり、

帝国が終焉を迎える大東亜戦争までの一過程で起きた事件の一つです。

その特異性はロシア革命の真っ只中にあったことと、

シベリアのはずれで冬の交通手段が遮断されるという特殊要因でした。

尼港がいくら日本から近くても、

また軍事上の利点があるからと言っても、他国の領土なのです。

居留民の保護に関しては、もう少し防衛上の配慮が必要なのではなかったか。

尼港事件が起きる5年前もそうでした。

第1次大戦中に第2次大隈内閣が中国に強要した

という権益拡大の要求、

「対華21ヶ条要求」

中国国民を団結させてしまい、

反日、抗日の主たる原因をつくってしまったことを思い出してみましょう。

あの時も、列強諸国が第1次世界大戦の最中で

自国の方に目が向いているのを余所に、

どさくさに紛れての要求でした。

その結果、

中国では一般市民による五・四運動が起き、

最終的には日中全面戦争へと発展してゆくわけです。

他国への配慮が欠如している時代だった、
と言ってしまえばそれまでですが・・・。


赤軍パルチザンの幹部達(ニコラエフスク資料館所蔵)

赤軍パルチザンの幹部たち 中央にトレピーチン、左がレベデワ
     (ニコラエフスク資料館所蔵)


さて、その後のトレピーチンはどうなったのでしょうか。

発足したばかりのハバロフスク革命政府は、

日本との関係悪化を恐れてトレピーチン一味の逮捕に乗り出しました。

革命政府の追討軍はケルビまで追いかけ、

隠れていたトレピーチンら幹部を発見すると、

形式的な裁判で終わらせて死刑を宣告します。

日本側の引き渡し要求には応ぜず、

かつて彼らがしたようにアムール川河畔で処刑したのです。

日本政府はソビエト政府に猛然と抗議しました。

犯人の引き渡しと賠償金の請求。

しかし、解決には至りませんでした。

日本政府は解決するまで、北樺太を保障占領して抵抗の意を示しますが、

それでも関係なしの一点張りで押し通されてしまいます。

そうこうしているうちに、連合国側は次々とソビエトを承認してしまいます。

各種条約を革命政府との間で再締結して

双方のメリットを享受する行動に出たのです。

日本政府は焦りました。

帝政ロシアと結んでいた条約の継続や改廃、

漁業権などの経済的確保が急がれたからです。

結局のところ、1925年(大正14)1月、

日ソ基本条約が締結され、日本はソビエトを承認することになります。

その席で、ソ連側が事件について遺憾の意を表明すると、

どういうわけか、そこで決着がついてしまいました。

日本政府は賠償金も取れず、

5年間に渡って保障占領していた北樺太からも撤退するという、

苦渋の選択でした。

無益なシベリア出兵がもたらした悲劇の尼港事件。

この事実をしっかりと心に刻み、後世に語り継ぎたいものです。

帰る前日、

私たちはソーニャ元館長の自宅で尼港事件のことについて語り合いました。

革命下での動乱とはいえ、

この事件では邦人734名の尊い命が犠牲になりました。

そればかりではありません。

白系ロシア人に対する虐殺も

3000人を上回るという暴挙だったのです。


彼らの慰霊碑は、アムール側に沿った市民公園の中に建てられましたが、

邦人についてはどうなったのでしょうか。


白系ロシア人の慰霊碑(ニコラエフスク市民公園)


    白系ロシア人の慰霊碑 (ニコラエフスク市民公園) 


尼港派遣隊が遺体を回収すると、当地でだびに付し、

尼港と関係の深かった北海道小樽市が引き取ることになりました。

小樽市・手宮公園の中に納骨堂と慰霊碑が建立され、

現在も静かに遠い海の向こうを見つめています。


尼港事件・慰霊碑


   尼港殉難者追悼碑についての説明板(小樽・手宮公園内)


小樽・手宮公園


   尼港事件・慰霊碑(小樽・手宮公園内)


この事件が起こる10年前、

日本は韓国併合という植民地政策を実行しました。

ここに日本帝国主義の出発点があります。

今回の事件もシベリア出兵を口実に、

ロシア沿海州に傀儡国家を建設しようとした儚い夢の代償となってしまいました。

この事件を風化させてはならない。

それが私たちの努めではないでしょうか。

次の時代を担う若い人たちにこそ、事件の真相を知ってもらい、

尼港事件を語り合うことで犠牲者の鎮魂としたいものです。

翌日の早朝、ソーニャさんたちの見送りを受けながら、

再びこの地に訪れることを祈って、

イーゴリーと共にハバロフスクへ戻りました。

さらば尼港よ!



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