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尼港事件の現場を訪ねて その4  尼港守備隊兵舎 

 尼港事件は、何故、起きてしまったのでしょうか。
 歴史の裏に隠された真実とは・・・。


1918年(大正7)8月から始まった連合国のシベリア出兵。

もともとはロシア革命に対する干渉、出来れば革命を失敗に終わらせたいとする連合国の思惑が働いていました。

もちろん、アメリカにとってはチェコ軍の救済という名目もありましたが・・・。

それでは日本の場合はどうなのか。アメリカからの誘いを良いことに、

シベリアに大軍を出兵させた日本政府。

その背景には、ロシア沿海州での傀儡政権樹立という領土的野心が見え隠れしていました。

8月に干渉軍がウラジオストックに集結すると、
日本軍は早くも9月に単独行動で尼港を占領してしまいます。

軍事拠点としての評価が高かったのでしょう。

ウラジオストックの景色
         ウラジオストック港を望む


当時、尼港(ニコラエフスク)には400人近い日本人居留民が生活していました。

日本帝国領事館を設置し、ロシア沿海州の中心地にしようとする日本政府。
定航船(小樽〜尼港)まで導入して交流を図りました。


尼港山頂からの写真
           尼港市街全景を望む

尼港を占領した日本軍は、さっそく守備隊と海軍電信隊に351人を配置します。
もともとの居留民は383人。
1920年(大正9)1月の時点で、734人の邦人が尼港に滞在していました。

尼港守備隊が駐屯していたレンガ造りの兵舎が、今でもその雄姿を残しています。

尼港 守備隊兵舎その1
              尼港守備隊兵舎跡


(これが尼港守備隊の兵舎か・・・まるで当時のままだ)

何やら、胸に迫るものが・・・。

車から降り、私は兵舎跡の写真を撮り始めました。

そして、5分ほどたった頃でしょうか、
玄関前にいた元館長の娘、エレーナさんが急に大声を上げたのです。
どうしたんだろうと思って近づいていくと、 今度はイーゴリーが驚いた様子で、

「中に誰か人がいますよ。あッ!こっちを向きました」

おっかなびっくり、私も覗いてみると、
くしゃくしゃの顔した老人がもの凄い形相でこっちを睨んでいるじゃありませんか。

まるで「オペラ座の怪人」だ。

尼港 守備隊兵舎その2
               尼港守備隊兵舎跡


(これはまずい)

と、思った瞬間、

大柄で毛むくじゃらの怪人がドアを開けて飛び出してきたのです。
迫力ある怒鳴り声で。(ロシア語ですから意味は不明ですが)

ソーニャ元館長、そしてエレーナさんも急いで車の方へ駆け出しました。

イーゴリーも逃げの一手。

(おい!私を置いていくのか!お前たち、そりゃないだろ〜〜〜!)

ファントムに追いかけられる私たち(笑)

車に逃げ込むように乗って立ち去りましたが、本来は倉庫のはずなのに、

誰か住み着いてしまったんですね。

それにしてもあの形相は恐ろしかった。

尼港の町並み
              ニコラエフスクの現在の住居

建物は当時の歴史を物語っていますが、ファントム・オブ・ザ・ニコウにはお気をつけを・・・。


これから遊郭跡へ・・・。




大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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尼港事件の現場を訪ねて その5

守備隊兵舎から西へ300mほど行くと、そこは当時、繁盛していたと言われる遊郭跡があります。

やはり、この世界は町の外れにあるんですね。

今は空き地になって殺風景な感じですが、おそらく93年前(1920年)の事件以降も、
この場所には建物が建つことはなかった。

そんな印象さえ受けます。

何せ、ニコラエフスク尼港事件後もほとんど街並みが変わっていないんですから。

尼港の遊郭跡地
              尼港の遊郭跡地

尼港の遊郭には2件の遊女屋があったそうですが、

その一つに

「お菊さん」という名物「お姐さん」がいたそうです。

   名前は「お菊さん」。

娼家名は夕霞楼か朝日館か、それはともかく地元ではたいそう人気の「お姐さん」だったようです。

元館長ソーニャさんによると、20年近く前に日本から小説の題材にしようと、
資料館に問い合わせがあったというから、その名は語り継がれていたのかも知れません。

遊郭近くにある家並み
             遊郭近くにある家並み 

それにしても日本人の商魂はたくましい限り。

こんなシベリアの果てまで遊郭をつくってしまうんですから。

   しかし、   よーく考えてみると、

日本人がただの助兵衛ということではなく、
むしろ日本の伝統的文化と解釈すべきなのではないでしょうか。

この時代、満州でもこの手の商売は流行っており、

「色恋、時と場所を選ばず」とはよく言ったもの。

それだけ町が活気づいていたという証拠でしょう。

遊郭跡地で戯れるイーゴリー
            遊郭跡地で戯れるイーゴリー 

1920年(大正9)1月、トレピーチン率いる赤軍パルチザンが尼港(ニコラエフスク)の町を包囲します。

このトレピーチンという男、

第1次世界大戦ではロシア軍の下士官として出征しましたが、その後はウラジオストックの赤軍パルチザンに入隊し、
最近になってハバロフスク支部で革命教育を受けていました。

ロシア革命の終盤、ロシア中の町が革命か帝政かで揺れ動いており、

ペテルブルグからモスクワ、

そして東方面へと革命軍が順次勢力を伸ばしつつあり、

ついに尼港(ニコラエフスク)にも革命の嵐が迫っていたのです。

尼港に赤旗を!

ハバロフスク支部より指令を受けたトレピーチンは、
副官としてレベデワ(女性)を伴って尼港を目指します。

ハバロフスクから尼港までは陸上で約800kmの距離。

もちろん、アムール川を含めて海上輸送は氷に閉ざされて不可能です。


陸路の長い遠征で2人は恋仲に・・・。

彼らは、

ハバロフスク支部より尼港(ニコラエフスク)の町を革命派に属するよう指示を受けていたとはいえ、

正規の共産党員でもなく、所詮は一旗揚げよう組の一派です。

徒党のゆえ、残忍極まりない無法者に成り下がる可能生もありました。

その間にも、ロシアに点在する町々には、革命派の手が忍び寄っています。

トレピーチン一党が尼港(ニコラエフスク)に辿り着いたときは
4000人を超える支持者で膨れ上がっていました。

町からも革命派に寝返る人たちが激増、帝政派(白系ロシア)は日毎に不利になって行く状況に・・・。

そして1月中旬、

ついに町は戦乱の渦に突入・・・。

緒戦は、あっという間に革命軍の勝利となります。

当時の尼港市街図



ここで、現地住民たちは日本の尼港守備隊に町の防衛を託します。

衆寡敵せずとはいえ、守備隊長の石川正雅少佐は最後の臨みを託して、

町に夜間外出禁止を出して守りを固めます。

ここに乾坤一擲の戦いが始まろうとしています。

守備隊を含めた734人の居留民。

この中には当然、女性や子供も含まれています。
それと白系ロシア人との混成部隊がどうやって赤軍パルチザンと戦うのか。

若者や女性、そして民間人までもが自警団や義勇軍を結成して守備隊の傘下に入りました。

果たして「お菊姐さん」はどうしていたのか。その運命は如何に!

これから、パルチザン本部跡へ行ってみましょう。






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尼港事件の現場を訪ねて その6

中央通り沿いにあるセンター街から1kmほど空港方面(西方向)に行くと、
右側に赤軍パルチザンの陣地跡が見えてきます。

その一角を右折して100mほど進むと、


イーゴリーが興奮気味に、

「ありましたね! トレピーチンの本部が・・・」

「 この緑の建物がそうです」

赤軍パルチザン本部建物
            パルチザン本部建物

入り口の看板には、当時の様子が書かれてあります。

この建物にもファントム・オブ・ザ・ニコウがいるのではないか

と回りをキョキョロ見渡しますが、その気配はなし。

でも、

何となく怖い・・・。

看板には、1920年3月12日、この本部で11人の勇敢なパルチザン兵士が死亡したと書いてあります。

赤軍パルチザン本部入り口にある看板
        パルチザン本部の看板

そう、
この建物で壮絶なる戦闘が、日本隊(民間人を含む)と赤軍パルチザンとの間で繰り広げられたのです。

1920年2月28日、赤軍パルチザンの隊長、トレピーチンは尼港(ニコラエフスク)の町に革命政府樹立を宣言しました。

これに対し、尼港の治安を託された守備隊長の石川少佐は、帝国領事館に下士官を集めて作戦会議。

そこで出た結論は起死回生の策、赤軍本部への夜襲でした。

しかし、

ここで日本側に大きな問題が発生してしまいます。

1ヵ月前の戦いで海軍の電信設備が破壊されてしまったのです。

したがって、ハバロフスクやウラジオストックの日本軍司令部との交信ができません。

最後の電文が残っています。

「尼港の町は赤軍に包囲され、全員、玉砕で臨む」

当時の日本帝国領事館(ニコラエフスク資料館所蔵)
        日本帝国領事館 (ニコラエフスク資料館所蔵)

乾坤一擲の戦いは、1920年(大正9)3月12日の早暁と決まりました。

日本隊は陸軍守備隊を中心に海軍電信隊、それに義勇軍と自警団、およそ120人の戦士です。

ついにその日がやってきます。

石川隊長以下の70人は正面から、そして50人ほどが裏側に回って合図を待ちます。


「突撃!」

石川隊長の声と同時にドアが蹴破られます。

「続け!」

「タン、タン、タン!」

三八式歩兵銃の乾いた銃声と、投げつけた手榴弾の爆風と閃光。

不意を突かれた赤軍も反撃。

両者の間で凄まじい銃撃戦が展開されました。

しかし、この戦いで石川隊長は胸を打ち抜かれて絶命という不運に・・・。

それでも勇猛果敢に攻め抜く日本隊。

応援に駆け付けてきた赤軍兵士たちとの壮絶な戦いが繰り広げられる中、
時間と共に優劣は否めません。

圧倒的な敵軍に血まみれの敗走を余儀なくされるという事態に陥り、

這々の体で帝国領事館か守備隊兵舎に・・・。

その日本隊の中には20歳に満たない青年や女性の姿もあったといいます。

元館長から話を聞いていたイーゴリーは声を詰まらせ、

「何ていうことだ!」

赤軍パルチザン本部周辺の風景
          赤軍パルチザン本部周辺の風景


これから悲劇の戦場となった日本帝国領事館の跡地へ行ってみましょう。






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