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大日本帝国の轍 出版日が決まりました。 土方 聡

みなさん
はじめまして

土方 聡(ひじかた そう)と申します。

この度、「大日本帝国の轍」と言うタイトルの電子書籍を

2014年1月15日から

Appstoreより発売する事となりました。

本編では書く事ができない
実際にロシア・中国・日本の各地で取材した事柄をこの場をお借りして
発信したいと思っております。

なぜ 日本が戦争をしなければならなかったのか!
戦争を避ける事はできなかったのか。
数々の事件現場に行って取材してまいりました。
問われる歴史認識の参考にして頂ければと思っております。

是非読んでほしい!日本人として知って欲しい歴史の真実を!


大日本帝国の轍ホームページ

大日本帝国の轍  著者 土方 聡 ひじかた そう

大日本帝国の轍 電子書籍 表紙

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取材日記について 土方 聡

大日本帝国の轍 著者 土方 聡(ひじかた そう)です。

様々な国や場所へ行き色々な事が分かったのもそうですが

その場所では今の日本では当たり前に出来る事が出来ず困った事、

交通事情が整っていない為、現地に行くことが困難であったり。

色々な経験をして来ました。

 この日記では本書では掲載しない裏のお話しをさせて頂きます。

きっと楽しんでいただけるでしょう。

では またお会いしましょう。

 大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


大日本帝国の轍ホームページはこちら

尼港事件の現場を訪ねて その1 ハバロフスク空港  土方 聡

みなさん 大日本帝国の轍 著者 土方 聡です。

ロシア沿海州の北端、と言えばアムール川河口近くの町、ニコラエフスク・ナ・アムーレが頭に浮かびます。

戦前は尼港(にこう)と呼ばれ、日本人も多く住んでおり、オホーツク海で取れる海産物の中継基地として、また加工場としても栄えていました。
木材の集積地としても重要な地点になっていたのです。
この町に悲劇が襲ったのは1920年(大正9)の春、尼港守備隊と民間人を合わせて734人の日本人全員が虐殺された現場なのです。
歴史の渦に葬り去られた尼港事件、果たして今、現場はどうなっているのでしょうか。
私、土方聡は2011年(平成23)の6月に現地を訪れてみました。

日本からニコラエフスク(尼港)へ行くには、ハバロフスクを経由しなければなりません。
ハバロフスクからは週三便、何と不便な所でしょうか。
まずは成田空港へ・・・。  
成田空港からウラジオストック航空でハバロフスクまでは約3時間、飛行機は200人は優に乗れるのに乗客は25人しかいません。
それも日本人は私一人の心許無さ。
その年の3月11日に東日本大震災が起き、福島第1原発の放射能事故が世界の関心事になっていたことを考えれば、
それも止む無しというところか。 
 それでも飛行機は無事にハバロフスク空港に無事到着。

しかし、ここからがびっくりなのです。

飛行機は空港ターミナルなどまったく見えない隅の方に追いやられて立ち往生、1時間は梨の礫になってしまいました。

でも同乗のロシア人たちは何の疑問も持たないのか、誰一人として不満が出ないのです。

きっと機内放送で事情がわかっていたんでしょうね。理解出来ないのは私だけかも・・・。

その内、外を眺めていたら、

アポロ11号のアームスロング船長のような宇宙服を身につけた10人ばかりが近づいてきて、
放射能測定器のような器具を持って何やら飛行機の廻りをうろちょろし始めたのです。
(こりゃ何だ!)

まったく状況を知らない私には何が起こっているのかさっぱりわからず、

狐につままれた気分でいると、今度は宇宙服の2人が機内に乗り込んできたのです。

そして、ガイガーカウンターのような探知機で一人づつ頭から足の先までチェックを始めたのには驚きました。

やっとの思いでタラップから降りると、すでに3時間が経過していました。   

広大な空港の一番隅っこに追いやられた成田発の飛行機。放射能に対する警戒感は所変われば品変わるか、チェルノブイリの教訓はこうやってロシア国民に受け継がれていたのです。


 いよいよ明日は尼港です。


 大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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尼港事件の現場を訪ねて その2  いよいよ尼港へ・・・

 1920年(大正9)に起きた尼港事件の取材から始めます。ハバロフスク空港で私を出迎えたのは、イーゴリーという地元出身のロシア人。日本語は専門学校で学んだという38歳のイケメン。日本の歴史にも詳しく、今回の取材には頼もしい助っ人になりそう。

 ロシアは日本よりも西に位置するはずなのに、時差は日本より2時間プラスするというロシア独特の時間制を採用しています。3時間の放射能ロスタイムがあった為にホテルに着いたのは4時を過ぎてしまいました。明日の尼港(ニコラエフスク)行きの飛行機は朝9時発。イーゴリーと別れた私は、1人でアムール川を散策することにしました。

 ホテルから5分ほど歩くと、そこは雄大なるアムール川。水源から測ると全長4000㎞を超す大河です。中国との国境線を為して流れ、ウラジオストック方面から流れるウスリー川とはハバロフスク市内で合流、一段と水量を増してオホーツク海に向かって流れてゆきます。 
 
 川沿いには「文化と憩いの公園」という、市内でも有数な大きな公園があり、土曜日ということもあってたくさんの人が集まっていました。

ハバのコンサート
          アムール川に沿った公園にある野外音楽堂

 小さな野外コンサート場では、市民オーケストラが日頃の成果を披露しようとロシア民謡を奏でているし、展望台からの眺めは、河畔で日焼けを楽しむビキニスタイルのカワイコチャンたちの姿がどうにも目に眩しい。

ハバのアムール河畔
          アムール川のハバロフスク桟橋


 長い冬から抜け出した開放感か、短い夏を満喫しようと、こんな光景が随所で見られるのは、まさにヨーロピアン情緒といったところでしょうか。

 夜9時を廻ると、中国側の方向に真っ赤に染まった夕日が沈みかけます。市内周辺の川幅は約2、川面はまさにダイヤモンドの輝き。

 雄大なロシアの大地に身を任せるように流れてゆくアムール川。ここから800㎞下ったところに尼港(ニコラエフスク)はあります。 

ロシアの夕日
        アムール川を照らすハバロフスクの夕日

 翌日、ハバロフスク発、ニコラエフスク行きは朝9時ちょうどに離陸しました。

30人乗りの小型ジェット(イリューシン社製)は周3便で飛んでいるそうで、乗務員は機長と副操縦士の2人だけ。
乗降口も最後部という日本では見られないスタイルに唖然としました。

私とイーゴリーが最前列に座ろうとすると、そこは郵便物の置き場だそうで、下がるように指示されたのには参りました。

結局、私たちの前列は大きな麻袋に入った荷物がいっぱい。これは3日遅れの便りなのか。

上空からのアムール川
             雄大なシベリア平原を走るアムール川
 
 飛行時間は1時間30分、眼下には大シベリア平原を流れる壮大なアムール川が・・・、まるで大蛇のように曲がりくねり、大小の支流を吸収して益々肥大してゆく。天気が良いせいか、大湿原地帯がよく望め、そのスケールの大きさに感動してしてしまいました。  
 
 あと20分で着陸というアナウンスが機内に流れると、(もちろんロシア語ですが)その時、イーゴリーが急に携帯電話をかけはじめるのです。

 私は思わず、「おい、まずいだろ!」
 たしなめると、イーゴリーは悠然と、
 「大丈夫ですよ」
 と、全く意に介さない。

 気まずくなった私は、バツ悪そうに後ろを振り返ったのですが・・・、(何ていうことだ)20人程度の乗客のほとんが携帯電話をしているではありませんか。他国では考えられないことですよ。

それでも飛行機は、無事にニコラエフスク空港に到着。降りると、そこは滑走路の端っこ、駐機場もありません。出迎えの人たちが自家用車で滑走路まで乗り込んでくるのです。当然、管制塔もなければターミナルもない、原っぱの飛行場なんですよ。

尼港の飛行場
            ニコラエフスク(尼港)の空港ビル

 そして、私たちのところにも28歳の運転手、ニコライが4WDのワンボックスで迎えにきていました。 いよいよ市内へ。15分ほど走るともう市内、丘の上には歓迎の看板、そしてミグ戦闘機のオブジェ。この町の創立は1850年だそうで、日本に置き換えるとペリーが黒船で浦賀に現れる3年前のことです。

ミグ戦闘機
       ニコラエフスク(尼港)にあるミグ戦闘機のオブジェ

尼港看板
       ニコラエフスク(尼港)市内に入る看板

 私たち日本人が忘れてはならない事件の一つ、それが尼港事件です。1920年(大正19)の3月から5月にかけ、この町に住んでいた734人の日本人全員が赤軍パルチザンに虐殺されてしまいました。その事件からすでに91年が経ち、今、この町に足を踏み入れようとしています。町はどのように変貌したのか。当時あった大日本帝国領事館は如何に・・・。


大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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尼港事件の現場を訪ねて その3  レストラン・Hong Kong(香港) 

 現在のニコラエフスクの人口は1万5千人。事件当時もそうでした。

1850年に軍事拠点として建設されたのをきっかけに、樺太やオホーツク海から運ばれる物資の積み替え基地として栄えたのです。

ロシア沿海州地図
     ロシア沿海州の地図


 日本人の居留民が増えたのは、1918年(大正7)に始まったシベリア出兵の時からです。

いち早く日本陸軍が尼港の町を占領すると、守備隊が置かれ、夏場には邦人が1000人を越えることもあったようです。

当時の状況では、11月から5月までの間は氷で閉ざされた町になってしまい、すべての交通機関は停止して尼港に入ることはできませんでした。事件はロシア革命(1917)が終わり、白系ロシアの町であった尼港に革命の波が押し寄せてきた時に起こりました。
 
 まずはホテルへ・・・。

この町にホテルは一つしかありません。その名はセーベルホテル。

どういうわけか常に満室の状態なのです。

たぶん、火力発電所が建設されて、そのメンテナンスの労働者が利用するのでしょう。イーゴリーとチェックインした私は、荷物を置いてニコライの車で町の要所を見て廻りました。

尼港発電所                   アムール川河畔にある火力発電所

当時の尼港町並みその1                     当時の尼港の町並み(当時の絵はがき)

現在の尼港の町並みその2
               現在の尼港の家並み

(どうしたんだろう、この町は・・・)

 窓越しの景色は、まるで時間が止まったような感じ。事件当時にタイムスリップした感覚を受けてしまいます。

それはなぜか。

当時の絵ハガキと比べてみても、街並み、道路の幅、区画、そして位置関係までもが殆ど昔のままなのです。

当時を想像しながら、30分ほど廻って再びホテルへ戻りました。

 セーベルホテルの前は大きな広場になっています。ここは昔の人民広場、ロシア革命時には市民が集まって、革命か帝政かの議論をした場所です。

現在の中央広場                    セーベルホテル前の中央広場

当時の人民会議                当時の広場の様子(ロシア革命時の人民会議)



 私たちはここで、ある女性が来るのを待つことにしました。

尼港事件に詳しい人を前もってイーゴリーが探し当てていたのです。

10分ほど待つと、2人の女性が向こうから歩いてきました。1人はニコラエフスク資料館の元館長ソーニャさん、年格好は70前後か。もう1人は娘さんのエレーナさんでした。

ちょうどお昼時だったので、ランチを誘ったのですが、驚くことなかれ、この町にはレストランが1件しかありません。

ホテルもランチはなし。

しかたなく、私たちは町外れにある唯一のレストランといわれる「HongKong(香港)」に足を運ぶことにしました。

レストラン香港                       レストラン香港



 この一帯は、昔から中国系の人が多く住むチャイナタウンで、現在でも中国系の人が多く住んでいるとのこと。


ソーニャ元館長の話では、事件当時、この町は日本人よりも中国系や朝鮮系の人の方が多く住んでいたとのことでした。

木材の切り出しや海産物の塩漬けを作るのに労働力は不可欠。

この二つは尼港の産業でした。したがって他国からも多くの人が働きに来ていたのでしょう。

 運転手ニコライを含めた総勢5人は、この町で唯一とされるレストラン、「Hong Kong」に入ってみました。

店内にはロシア人と思しき家族連れが3組いて、普段から結構繁盛している様子。

店内の装飾にしても、赤、白、黄を基調にした中国独特な煌びやかさ、銀座のチャイニーズレストランも顔負けといったところか。カラオケセットが置かれ、それにステージまで備わっている。

 でも、味はどうなのか。

 それぞれがお好みで注文すると、出てきた物は回鍋肉(ホイコーロー)や青椒肉絲(チンジャオロース)、餃子といった日本の定番ばかり。ひょっとすると、これらはロシアでも定番だったのかもしれませんね。

そして料理の味は・・・、いや〜 これが実にうまい! 

一瞬、自分がシベリアの果てにいることなど、しっかり忘れてしまうほどに感激。

中国人夫婦2人が切り盛りするアットホームなレストラン。シベリアでもチャイナタウンは不滅でした。

 レストランからチヌイラフ方向に5分ほど車を走らせると、アムール川の河口が良く見える地点を発見しました。

アムール川の河口     
             アムール川の河口を望む


あの河口の向こうがオホーツクだ。

 91年前、事件を知った日本政府は陸軍に救援隊を要請。

2方向から尼港へ駆け付けます。が、氷で閉ざされた尼港へは簡単には近づけません。

ハバロフスクからアムール川を下って尼港に入る部隊と、もう一つは樺太から間宮海峡を通ってアムール川を上ってくる部隊です。 解氷時期を待って、この川を駆け上がってきた多門二郎大佐率いる北海道第7師団。

もう少しのところで救出できたのに・・・。

残念ながら居留民と守備隊の734人は全滅、無念の一語に尽きます。風化させてはいけない事件ですね。

 明日は尼港守備隊の兵舎跡、それに、「お菊さん」という女性が経営していた遊郭跡を訪ねたいと思います。 


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