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張作霖爆殺事件の現場を訪ねて(張作霖の足跡を追う)

瀋陽駅(旧奉天駅)を降り、待ち合わせの車に乗って20分ほど走ると

張作霖爆殺事件の現場に到着しました。


当時の新聞を読んでいたので、上を走る旧南満州鉄道と

下を通る京奉線の交差する陸橋の写真が頭に浮かんだ。

やっぱりそのままだ!

周囲こそ、ビルが建ち並び、アパート群が密集して当時とは違いますが、

線路の形態や陸橋の橋桁は当時のまま。

半分は爆発で崩れ落ちて新設したそうですが、

半分は当時のコンクリートがそのまま残り、

爆薬が仕掛けられた橋桁の回りはススで黒ずんでいました。


事件現場の陸橋の橋桁部分

         事件現場の陸橋の橋桁部分


事件現場となった陸橋の爆薬が仕掛けられたと思われる橋桁周辺には、

当時の爆薬のススがしみ込み黒ずんでいるのがわかる。

中国側はこの事件を皇姑屯事件と言いますが、

隣接するアパートの非常階段を上って踊り場から見ると、

確かに線路内の敷地に「皇姑屯事件の碑」と書かれた石碑が見えます。


皇姑屯事件と書かれた石碑

      皇姑屯事件と書かれた石碑が遠くに見える


1928年(昭和3)6月4日の早朝、

張作霖元帥の乗った特別列車はこの陸橋の下を通り抜けた瞬間、

橋桁に仕掛けられた爆薬によって列車が吹き飛ばされ、

奉天軍司令部内にある張作霖の自室に担ぎ込まれました。

1週間後に死亡の発表がありましたが、

張作霖の死が何者の仕業によるものだったのか。

そして何の目的があったのか。

いずれにしても、張作霖の死が帝国日本の進路に

多大な影響を及ぼしたことは間違いない。

張作霖とはどんな人物だったのか。

事件に至るまでの足跡を追ってみました。

張作霖は馬賊出身の頭目であった!

日露戦争の最中、スパイ容疑で日本軍に1人の男が捕らわれました。

その男、小柄な恰幅ですが、

双眸の奥に秘められた鋭い光は到底凡人とは思えない何かを感じさせていた。

日本側はこの男に死刑を宣告しますが、

使える男と見た日本帝国陸軍・満州軍総参謀長の児玉源太郎は、

その男の命と引き替えに「味方になれ」と誘うのでした。

その男の名は張作霖

遼寧省海城県出身の馬賊上がりの熱血漢でした。

海城は遼陽の南50㎞ほどにある、旅順から哈爾浜まで続く

東清鉄道・南満州支線の沿線にある小さな町です。

遼東半島の鉄道地図

          遼東半島の鉄道地図


1875年(明治8)に貧しい農家の家に生まれた張作霖は、

父と死に別れてからは継父に育てられますが折り合わず、

突然、家を飛び出して吉林省に渡り馬賊に身を投じます。

しかし、1904年(明治37)に日露戦争が始まると、

満州の中でも遼寧省や吉林省は戦場となり、

張はロシア軍のスパイとして活躍していました。

児玉源太郎大将の計らいで命拾いした張作霖。

でも、そう簡単に逆スパイを承知しません。

そこで児玉は、ある部下に張作霖を説得するよう命じるのですが、

その部下こそ、

後に政友会から首相となって張と大きく関わる田中義一(当時は少佐)でした。

張は田中少佐の執拗な説得に促されると、その旨を承諾。

今度は日本軍のスパイとしてロシア軍の駐屯地へ潜入し、

数多くの有益な情報を日本軍にもたらせました。

満州(東3省)という地域は、

もともと清朝・中央政府の命令や統制が浸透しにくいところであり、

警察力も弱く、非合法の組織が乱立するという、

そんな中で張作霖は成長します。

日露戦争が終結すると、張は日本軍を離れて清朝に帰順。

それは清朝政府が馬賊や軍閥に優遇政策をとった為で、

この行為で張は2000人以上の清朝軍を率いる部隊長に昇格。

すると、張のもとには各地から人が集まり、

顕然たる勢力に拡大してゆきます。

その時、張は阿片売買で財源を稼ぎ出し、

その金を目当てに再び人が集まるという好循環を繰り返し、

見る見るうちに大軍閥に成長してゆく。

地域の大軍閥として君臨する張作霖。

小軍閥を吸収して満州の事実上の支配者にのし上がると、

日本とは持ちつ持たれつの関係を保ちながら

満州全体を席巻していく姿勢をみせます。

日本の満州政策は南満州鉄道が基盤に!

ポーツマス条約の締結後、

吉林省・長春以南は南満州鉄道として日本側が管理運営することになり、

鉄道運営や沿線のインフラ整備を行う会社として、

1906年(明治39)に南満州鉄道株式会社(通称・満鉄)が設立されました。


南満州鉄道株式会社の本社跡 (大連市)

      南満州鉄道株式会社の本社跡 (大連市)


1911年10月10日、孫文による辛亥革命が勃発すると、

清朝に代わって中華民国が成立し、孫文の後を引きついだ袁世凱は

満州の支配者になりつつあった張作霖に一目置くようになります。

しかし、袁世凱が1916年に死去すると、

待ってましたとばかりに張作霖は満州の覇権争いに乗り出します。

40万の兵力を擁し奉天軍と名付け

日本側の顔色を窺いながらも北京政権にちょっかいを出し始めたのです。

一方、日本側は1919年(大正8)に関東州(旅順・大連周辺の租借地)の

防衛と満鉄の権益保護のために旅順に関東軍司令部を設置し、

満鉄が行う沿線の町づくりに協力して体制を強化してゆきます。


関東軍司令部跡  大連市旅順区

         関東軍司令部跡 大連市旅順区


満州東3省の地図 1931年頃

        満州東3省の地図 1931年頃


1924年(昭和3)には東3省の人口は3000万人を

越える勢いを見せていました。

張作霖、大元帥に就任。

中華民国の主権者に!

張作霖という人物、いったいどうやって中央政界に打って出たのか。

袁世凱が1916年(大正5)に急死してからは、

中央政権を担う北洋軍閥にまとまりがなくなってしまいます。

すると、北洋軍閥は直隷派と安徽派に分裂し、直隷派の代表、

馮国璋と安徽派の代表、段祺瑞の2大勢力が対立しながら北京政権を担っていました。

そんなところに奉天派を代表する張作霖が顔を出したもんだから、

政権は大混乱に。

3者牽制する中、張は自分が政権を奪取して中国の覇者になろうと、日本を味方につけて優位に立とうと画策します。


紫禁城 北京市

          紫禁城 (北京市)


1924年1月24日、混乱する北京政府を余所に、

孫文は中国国民党第1回大会を広東州・広州で開催したのです。

第1次国共合作と呼ばれるこの大会、

ここで始めて共産党を引き入れた中国国民党が成立し、

軍閥を主体とした北京政府に対抗するため、「北伐」と称して

華北への進攻を宣言しました。

この大会には湖南省を代表して参加していた1人の青年がいました。

その人の名は毛沢東、言わずと知れた将来の中国共産党の指導者でした。


1920年の安直戦争に始まり、

1922年と24年には第1次、2次奉直戦争を経て、

1924年10月23日には馮玉祥が北京政変を起こして孫文に北上を要請すると、

孫文は北京に入り、

北京政府には一時的にせよ統一という一文字が見え始めてきました。

しかし、ここで予想外のことが起こってしまいます。

体調を崩して孫文が急死してしまうのです。

その後は再び軍閥同士の勢力争いに・・・。

孫文の後継者と目された蒋介石は国民革命軍を率いて動き出だします。

1926年7月1日、国民政府は第1次北伐を発表。

と同時に北京を目指して進攻が開始されたのです。(第1次北伐)

張作霖に運が向いてきた!

孫文の死後は奉天派が実権を握りつつ、

張作霖はこれなら「国民革命軍に勝てる」と思ったのか、

自分が中国を統一しようと考え始めました。

それは北上してくる国民革命軍が寄せ集め軍隊だったからです。

北京政府は張作霖の一人舞台に!

蒋介石の国民革命軍は共産党を引き入れていたために、

背後のソ連と共産党の影響を考え、日本政府は張作霖を支援してきました。

この考えは欧米列強にも共通することです。

そんなこともあり、1926年(昭和元年)12月に

張作霖は北京で大元帥に就任。

自らが中華民国の主権者であることを宣言したのです。

ここで、張は将来を見据えて、何かと注文つけて

うるさく言ってくる日本よりも、このところ自分に好意を寄せる

欧米への歩み寄りを優先しようとします。

この辺から張作霖と関東軍との間に確執が見え隠れするようになります。

張作霖の勢いはここまでだった!

蒋介石の国民革命軍が北伐を開始し、

1927年3月に南京を占領したときのことでした。

革命軍の一部の兵隊が日・英・米などの領事館を襲撃する事件が起きます。

南京事件です


新聞 南京事件

 南京事件の記事  1927年(昭和2)3月26日 東京朝日新聞


蒋介石はこの事件を共産党分子の仕業と判断。

国民党内部の共産党勢力の拡大を憂慮し、

また、欧米諸国を味方につけるためにも共産党は排除すべきと決意します。

そして翌月、4月12日に

上海で共産党を弾圧するクーデターを起こしたのです。


新聞 上海クーデター

上海クーデターの記事  1927年(昭和2)4月13日 東京朝日新聞


蒋介石は内部を固めるために北伐の中止を決定。

南京に戻って北京政府とは別に新たな国民政府を樹立したのです。(南京政府樹立)

ここに第1次国共合作は崩壊。

背後に潜む共産主義を排したことで、蒋介石は欧米諸国からの

信任を得ることに成功します。

それに答えるように欧米諸国は、張作霖から蒋介石へ乗り換える姿勢を見せ始めます。

日本の山東出兵!

日本政府は張作霖の援護と居留民保護を名目に

第1次山東出兵を敢行しますが、このときは国民革命軍が山東省に入らなかったために撤兵。

    
新聞 1927年5月29日  第1次山東出兵の記事

           第1次山東出兵の記事 
     1927年(昭和2)5月29日 東京朝日新聞



1928年4月、蒋介石は改めて国民革命軍を改編し、

今度は欧米の指示を取り付けて再び北伐を開始したのです。(第2次北伐)

このとき、日本政府は第2次山東出兵を決めました。

日本軍が山東省の省都、済南城を包囲すると、ちょっとした情報の錯綜で、

日本軍と国民革命軍との間で武力衝突が発生。


5月8日には日本軍が済南市を総攻撃するという済南事件が発生してしまいました。


しかし、城内を占領してみると、そこに国民革命軍の姿はなし。

蒋介石率いる国民革命軍はすでに脱出して北京へ進軍していたのです。

日本軍は無防備な済南市民だけを殺戮するという、

非難こそあれ、益はなし。

中国国民にさらなる抗日・反日の口実を与えてしまう、

とんでもない事件だったのです。

どうしてこんな事件を起こしてしまったのか。

普通なら敵であっても相手は大軍。

軍の移動は察知できたはずなのに・・・。

そんなことがあってか、

蒋介石と日本軍部の中枢とで暗に密約が交わされていたのではないか、

という情報まで飛び交う始末に・・・。

果たして蒋介石との密約はあったのか・・・。


それは、蒋介石が中国統一を成し遂げるのを日本軍は邪魔しない。

それと引き替えに満州へは国民党軍を差し向けないとする条件の取り決めです。


済南城の景色

            済南城の景色 
(超然楼から眺める大明湖と済南市街。 城内で凄まじい日本軍の攻撃がありました)


張作霖の北京脱出が決定!

日本政府は張作霖政権を応援するため山東出兵を計3回繰り返しましたが、

この時の首相が、日露戦争の当時、児玉総参謀長の命令で

張作霖の命を救ったあの田中少佐、政友会の田中義一なのです。

田中首相は張作霖の命を救ったのは自分である。と、

何かにつけて御託を並べる。

何としても生かして再起を図らせようとする首相と、

張作霖は今や不要と判断した関東軍との間に大きな確執が生じていました。

関東軍に不穏な動きが!

この動きを一番心配していたのが宮中の側近たちでした。

元老・西園寺公望を筆頭とする宮中穏健派と呼ばれる陛下の信任が厚い人たちです。

何か事件が起きなければ良いが、と軍部に度々の注意を促していました。

張作霖が中央政権を担って2年4ヵ月が経った今、

張作霖元帥は蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)に追われ、

奉天へ逃げ帰るしか手立てがなくなりました。

帰還する途中で何か異変が起きるのでは・・・。

そんな懸念の中、元帥は安全な飛行機に乗らず、

あえて鉄道を使って帰る手段を選びます。

張作霖元帥ついに北京脱出!

6月2日午後11時、北京・正陽門駅の貴賓室では張作霖元帥が奉天まで帰るまでの警備体制の話し合いが行われていました。


旧・正陽門駅 現在は鉄道博物館になっています (北京市)

 旧・正陽門駅 現在は鉄道博物館になっています (北京市)


1928年(昭和3)6月4日  東京朝日新聞

1928年(昭和3)6月4日 東京朝日新聞



6月3日午前1時、小柄な大元帥は、軍楽隊の演奏と儀仗兵による礼砲に送られ、見送りの人たちと握手を交わして車中の人に・・・。

午前1時20分、張作霖を乗せた20両編成の特別列車は、満天の星空の下、

汽笛を鳴らして北京を後にします。

正陽門を出ると、環城線を使って北京城を一周して京奉線へと入っていきます。そこからは天津、山海関、錦州、新民府、奉天へと続く約750㎞の道程。


北京城の周囲を走る環城線

         北京城の周囲を走る環城線


北京~奉天  鉄道地図

           北京~奉天  鉄道地図


警戒心の強い張作霖は列車を通常通りには運行させませんでした。

天津までは一気に突っ走り、そこで2時間の休憩をとったり、

5本の列車をダミーとして先に行かせるなどして用心を怠りません。

山海関に到着した時は予定時間を大幅に過ぎていました。

ここからはいよいよ満州入りです。

6月4日午前5時30分、張作霖の乗った列車が奉天瀋陽駅から1つ手前の駅、

皇姑屯駅を通過して南満州鉄道との立体交差の陸橋に差し掛かります。



皇姑屯駅(瀋陽市)

        皇姑屯駅(瀋陽市)


張作霖の乗った貴賓車は先頭から8両目、

鮮やかなコバルトブルーの車両が爽快に陸橋に入りかけた時、

その時でした。

「ドドッ、ドカーン」

強烈な爆発音が地響きをともなって、

瞬く間に炎と黒煙が暁暗を破って空に突き上げたのです。

現場は京奉線と満鉄本線が立体交差する陸橋で、

上を満鉄本線が通り、下を京奉線がくぐる形になっていました。

皇姑屯駅と奉天瀋陽駅の中間辺りでした。


爆殺現場の地図 奉天 1928年頃

       爆殺現場の地図 奉天 1928年頃


1928年(昭和3)6月5日 東京朝日新聞

     1928年(昭和3)6月5日 東京朝日新聞


現在の張作霖爆殺現場列車は脱線

       現在の張作霖爆殺現場


列車は脱線。


付近は火薬の匂いと黒煙が充満し、

怒号と銃声が鳴り響く極度の緊張状態になりました。

煙の間から見えてくるのは、焼けただれて外枠だけが残り、

上部の屋根が破壊された無残にも脱線した貴賓車でした。

張作霖大元帥は偶然にも通りかかった奉天軍の憲兵司令車に

乗せられて奉天城へ担ぎ込まれます。

そして帥府からは重体との発表が。

実はこのとき、元帥はすでに死亡していたのではないかとの憶測が・・・


現存する奉天城の城壁

          現存する奉天城の城壁


張氏帥府

          張氏帥府(奉天軍司令部)


新聞は

「南軍便衣隊の仕業か、怪しき支那人捕らわれる」

などど報道しましたが、この事件、だれが見ても関東軍の仕業としか思えませんでした。

事件が落ち着くと、奉天軍からは張作霖の死と、長男の張学良がその跡を引き継ぐことが公表されました。

張作霖爆殺事件は、昭和という時代の幕開けに起きた事件です。

その後の日本の方向性が、この事件によって形づけられたといっても過言ではないでしょう。


3年後の1931年9月18日、満州事変の勃発とともに大日本帝国は中国大陸にどっぷりと足を踏み入れ、

延いては太平洋戦争へと突入してしまうのです。






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