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大日本帝国の轍 出版日が決まりました。 土方 聡

みなさん
はじめまして

土方 聡(ひじかた そう)と申します。

この度、「大日本帝国の轍」と言うタイトルの電子書籍を

2014年1月15日から

Appstoreより発売する事となりました。

本編では書く事ができない
実際にロシア・中国・日本の各地で取材した事柄をこの場をお借りして
発信したいと思っております。

なぜ 日本が戦争をしなければならなかったのか!
戦争を避ける事はできなかったのか。
数々の事件現場に行って取材してまいりました。
問われる歴史認識の参考にして頂ければと思っております。

是非読んでほしい!日本人として知って欲しい歴史の真実を!


大日本帝国の轍ホームページ

大日本帝国の轍  著者 土方 聡 ひじかた そう

大日本帝国の轍 電子書籍 表紙

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取材日記について 土方 聡

大日本帝国の轍 著者 土方 聡(ひじかた そう)です。

様々な国や場所へ行き色々な事が分かったのもそうですが

その場所では今の日本では当たり前に出来る事が出来ず困った事、

交通事情が整っていない為、現地に行くことが困難であったり。

色々な経験をして来ました。

 この日記では本書では掲載しない裏のお話しをさせて頂きます。

きっと楽しんでいただけるでしょう。

では またお会いしましょう。

 大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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尼港事件の現場を訪ねて その1 ハバロフスク空港  土方 聡

みなさん 大日本帝国の轍 著者 土方 聡です。

ロシア沿海州の北端、と言えばアムール川河口近くの町、ニコラエフスク・ナ・アムーレが頭に浮かびます。

戦前は尼港(にこう)と呼ばれ、日本人も多く住んでおり、オホーツク海で取れる海産物の中継基地として、また加工場としても栄えていました。
木材の集積地としても重要な地点になっていたのです。
この町に悲劇が襲ったのは1920年(大正9)の春、尼港守備隊と民間人を合わせて734人の日本人全員が虐殺された現場なのです。
歴史の渦に葬り去られた尼港事件、果たして今、現場はどうなっているのでしょうか。
私、土方聡は2011年(平成23)の6月に現地を訪れてみました。

日本からニコラエフスク(尼港)へ行くには、ハバロフスクを経由しなければなりません。
ハバロフスクからは週三便、何と不便な所でしょうか。
まずは成田空港へ・・・。  
成田空港からウラジオストック航空でハバロフスクまでは約3時間、飛行機は200人は優に乗れるのに乗客は25人しかいません。
それも日本人は私一人の心許無さ。
その年の3月11日に東日本大震災が起き、福島第1原発の放射能事故が世界の関心事になっていたことを考えれば、
それも止む無しというところか。 
 それでも飛行機は無事にハバロフスク空港に無事到着。

しかし、ここからがびっくりなのです。

飛行機は空港ターミナルなどまったく見えない隅の方に追いやられて立ち往生、1時間は梨の礫になってしまいました。

でも同乗のロシア人たちは何の疑問も持たないのか、誰一人として不満が出ないのです。

きっと機内放送で事情がわかっていたんでしょうね。理解出来ないのは私だけかも・・・。

その内、外を眺めていたら、

アポロ11号のアームスロング船長のような宇宙服を身につけた10人ばかりが近づいてきて、
放射能測定器のような器具を持って何やら飛行機の廻りをうろちょろし始めたのです。
(こりゃ何だ!)

まったく状況を知らない私には何が起こっているのかさっぱりわからず、

狐につままれた気分でいると、今度は宇宙服の2人が機内に乗り込んできたのです。

そして、ガイガーカウンターのような探知機で一人づつ頭から足の先までチェックを始めたのには驚きました。

やっとの思いでタラップから降りると、すでに3時間が経過していました。   

広大な空港の一番隅っこに追いやられた成田発の飛行機。放射能に対する警戒感は所変われば品変わるか、チェルノブイリの教訓はこうやってロシア国民に受け継がれていたのです。


 いよいよ明日は尼港です。


 大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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尼港事件の現場を訪ねて その2  いよいよ尼港へ・・・

 1920年(大正9)に起きた尼港事件の取材から始めます。ハバロフスク空港で私を出迎えたのは、イーゴリーという地元出身のロシア人。日本語は専門学校で学んだという38歳のイケメン。日本の歴史にも詳しく、今回の取材には頼もしい助っ人になりそう。

 ロシアは日本よりも西に位置するはずなのに、時差は日本より2時間プラスするというロシア独特の時間制を採用しています。3時間の放射能ロスタイムがあった為にホテルに着いたのは4時を過ぎてしまいました。明日の尼港(ニコラエフスク)行きの飛行機は朝9時発。イーゴリーと別れた私は、1人でアムール川を散策することにしました。

 ホテルから5分ほど歩くと、そこは雄大なるアムール川。水源から測ると全長4000㎞を超す大河です。中国との国境線を為して流れ、ウラジオストック方面から流れるウスリー川とはハバロフスク市内で合流、一段と水量を増してオホーツク海に向かって流れてゆきます。 
 
 川沿いには「文化と憩いの公園」という、市内でも有数な大きな公園があり、土曜日ということもあってたくさんの人が集まっていました。

ハバのコンサート
          アムール川に沿った公園にある野外音楽堂

 小さな野外コンサート場では、市民オーケストラが日頃の成果を披露しようとロシア民謡を奏でているし、展望台からの眺めは、河畔で日焼けを楽しむビキニスタイルのカワイコチャンたちの姿がどうにも目に眩しい。

ハバのアムール河畔
          アムール川のハバロフスク桟橋


 長い冬から抜け出した開放感か、短い夏を満喫しようと、こんな光景が随所で見られるのは、まさにヨーロピアン情緒といったところでしょうか。

 夜9時を廻ると、中国側の方向に真っ赤に染まった夕日が沈みかけます。市内周辺の川幅は約2、川面はまさにダイヤモンドの輝き。

 雄大なロシアの大地に身を任せるように流れてゆくアムール川。ここから800㎞下ったところに尼港(ニコラエフスク)はあります。 

ロシアの夕日
        アムール川を照らすハバロフスクの夕日

 翌日、ハバロフスク発、ニコラエフスク行きは朝9時ちょうどに離陸しました。

30人乗りの小型ジェット(イリューシン社製)は周3便で飛んでいるそうで、乗務員は機長と副操縦士の2人だけ。
乗降口も最後部という日本では見られないスタイルに唖然としました。

私とイーゴリーが最前列に座ろうとすると、そこは郵便物の置き場だそうで、下がるように指示されたのには参りました。

結局、私たちの前列は大きな麻袋に入った荷物がいっぱい。これは3日遅れの便りなのか。

上空からのアムール川
             雄大なシベリア平原を走るアムール川
 
 飛行時間は1時間30分、眼下には大シベリア平原を流れる壮大なアムール川が・・・、まるで大蛇のように曲がりくねり、大小の支流を吸収して益々肥大してゆく。天気が良いせいか、大湿原地帯がよく望め、そのスケールの大きさに感動してしてしまいました。  
 
 あと20分で着陸というアナウンスが機内に流れると、(もちろんロシア語ですが)その時、イーゴリーが急に携帯電話をかけはじめるのです。

 私は思わず、「おい、まずいだろ!」
 たしなめると、イーゴリーは悠然と、
 「大丈夫ですよ」
 と、全く意に介さない。

 気まずくなった私は、バツ悪そうに後ろを振り返ったのですが・・・、(何ていうことだ)20人程度の乗客のほとんが携帯電話をしているではありませんか。他国では考えられないことですよ。

それでも飛行機は、無事にニコラエフスク空港に到着。降りると、そこは滑走路の端っこ、駐機場もありません。出迎えの人たちが自家用車で滑走路まで乗り込んでくるのです。当然、管制塔もなければターミナルもない、原っぱの飛行場なんですよ。

尼港の飛行場
            ニコラエフスク(尼港)の空港ビル

 そして、私たちのところにも28歳の運転手、ニコライが4WDのワンボックスで迎えにきていました。 いよいよ市内へ。15分ほど走るともう市内、丘の上には歓迎の看板、そしてミグ戦闘機のオブジェ。この町の創立は1850年だそうで、日本に置き換えるとペリーが黒船で浦賀に現れる3年前のことです。

ミグ戦闘機
       ニコラエフスク(尼港)にあるミグ戦闘機のオブジェ

尼港看板
       ニコラエフスク(尼港)市内に入る看板

 私たち日本人が忘れてはならない事件の一つ、それが尼港事件です。1920年(大正19)の3月から5月にかけ、この町に住んでいた734人の日本人全員が赤軍パルチザンに虐殺されてしまいました。その事件からすでに91年が経ち、今、この町に足を踏み入れようとしています。町はどのように変貌したのか。当時あった大日本帝国領事館は如何に・・・。


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尼港事件の現場を訪ねて その3  レストラン・Hong Kong(香港) 

 現在のニコラエフスクの人口は1万5千人。事件当時もそうでした。

1850年に軍事拠点として建設されたのをきっかけに、樺太やオホーツク海から運ばれる物資の積み替え基地として栄えたのです。

ロシア沿海州地図
     ロシア沿海州の地図


 日本人の居留民が増えたのは、1918年(大正7)に始まったシベリア出兵の時からです。

いち早く日本陸軍が尼港の町を占領すると、守備隊が置かれ、夏場には邦人が1000人を越えることもあったようです。

当時の状況では、11月から5月までの間は氷で閉ざされた町になってしまい、すべての交通機関は停止して尼港に入ることはできませんでした。事件はロシア革命(1917)が終わり、白系ロシアの町であった尼港に革命の波が押し寄せてきた時に起こりました。
 
 まずはホテルへ・・・。

この町にホテルは一つしかありません。その名はセーベルホテル。

どういうわけか常に満室の状態なのです。

たぶん、火力発電所が建設されて、そのメンテナンスの労働者が利用するのでしょう。イーゴリーとチェックインした私は、荷物を置いてニコライの車で町の要所を見て廻りました。

尼港発電所                   アムール川河畔にある火力発電所

当時の尼港町並みその1                     当時の尼港の町並み(当時の絵はがき)

現在の尼港の町並みその2
               現在の尼港の家並み

(どうしたんだろう、この町は・・・)

 窓越しの景色は、まるで時間が止まったような感じ。事件当時にタイムスリップした感覚を受けてしまいます。

それはなぜか。

当時の絵ハガキと比べてみても、街並み、道路の幅、区画、そして位置関係までもが殆ど昔のままなのです。

当時を想像しながら、30分ほど廻って再びホテルへ戻りました。

 セーベルホテルの前は大きな広場になっています。ここは昔の人民広場、ロシア革命時には市民が集まって、革命か帝政かの議論をした場所です。

現在の中央広場                    セーベルホテル前の中央広場

当時の人民会議                当時の広場の様子(ロシア革命時の人民会議)



 私たちはここで、ある女性が来るのを待つことにしました。

尼港事件に詳しい人を前もってイーゴリーが探し当てていたのです。

10分ほど待つと、2人の女性が向こうから歩いてきました。1人はニコラエフスク資料館の元館長ソーニャさん、年格好は70前後か。もう1人は娘さんのエレーナさんでした。

ちょうどお昼時だったので、ランチを誘ったのですが、驚くことなかれ、この町にはレストランが1件しかありません。

ホテルもランチはなし。

しかたなく、私たちは町外れにある唯一のレストランといわれる「HongKong(香港)」に足を運ぶことにしました。

レストラン香港                       レストラン香港



 この一帯は、昔から中国系の人が多く住むチャイナタウンで、現在でも中国系の人が多く住んでいるとのこと。


ソーニャ元館長の話では、事件当時、この町は日本人よりも中国系や朝鮮系の人の方が多く住んでいたとのことでした。

木材の切り出しや海産物の塩漬けを作るのに労働力は不可欠。

この二つは尼港の産業でした。したがって他国からも多くの人が働きに来ていたのでしょう。

 運転手ニコライを含めた総勢5人は、この町で唯一とされるレストラン、「Hong Kong」に入ってみました。

店内にはロシア人と思しき家族連れが3組いて、普段から結構繁盛している様子。

店内の装飾にしても、赤、白、黄を基調にした中国独特な煌びやかさ、銀座のチャイニーズレストランも顔負けといったところか。カラオケセットが置かれ、それにステージまで備わっている。

 でも、味はどうなのか。

 それぞれがお好みで注文すると、出てきた物は回鍋肉(ホイコーロー)や青椒肉絲(チンジャオロース)、餃子といった日本の定番ばかり。ひょっとすると、これらはロシアでも定番だったのかもしれませんね。

そして料理の味は・・・、いや〜 これが実にうまい! 

一瞬、自分がシベリアの果てにいることなど、しっかり忘れてしまうほどに感激。

中国人夫婦2人が切り盛りするアットホームなレストラン。シベリアでもチャイナタウンは不滅でした。

 レストランからチヌイラフ方向に5分ほど車を走らせると、アムール川の河口が良く見える地点を発見しました。

アムール川の河口     
             アムール川の河口を望む


あの河口の向こうがオホーツクだ。

 91年前、事件を知った日本政府は陸軍に救援隊を要請。

2方向から尼港へ駆け付けます。が、氷で閉ざされた尼港へは簡単には近づけません。

ハバロフスクからアムール川を下って尼港に入る部隊と、もう一つは樺太から間宮海峡を通ってアムール川を上ってくる部隊です。 解氷時期を待って、この川を駆け上がってきた多門二郎大佐率いる北海道第7師団。

もう少しのところで救出できたのに・・・。

残念ながら居留民と守備隊の734人は全滅、無念の一語に尽きます。風化させてはいけない事件ですね。

 明日は尼港守備隊の兵舎跡、それに、「お菊さん」という女性が経営していた遊郭跡を訪ねたいと思います。 


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尼港事件の現場を訪ねて その4  尼港守備隊兵舎 

 尼港事件は、何故、起きてしまったのでしょうか。
 歴史の裏に隠された真実とは・・・。


1918年(大正7)8月から始まった連合国のシベリア出兵。

もともとはロシア革命に対する干渉、出来れば革命を失敗に終わらせたいとする連合国の思惑が働いていました。

もちろん、アメリカにとってはチェコ軍の救済という名目もありましたが・・・。

それでは日本の場合はどうなのか。アメリカからの誘いを良いことに、

シベリアに大軍を出兵させた日本政府。

その背景には、ロシア沿海州での傀儡政権樹立という領土的野心が見え隠れしていました。

8月に干渉軍がウラジオストックに集結すると、
日本軍は早くも9月に単独行動で尼港を占領してしまいます。

軍事拠点としての評価が高かったのでしょう。

ウラジオストックの景色
         ウラジオストック港を望む


当時、尼港(ニコラエフスク)には400人近い日本人居留民が生活していました。

日本帝国領事館を設置し、ロシア沿海州の中心地にしようとする日本政府。
定航船(小樽〜尼港)まで導入して交流を図りました。


尼港山頂からの写真
           尼港市街全景を望む

尼港を占領した日本軍は、さっそく守備隊と海軍電信隊に351人を配置します。
もともとの居留民は383人。
1920年(大正9)1月の時点で、734人の邦人が尼港に滞在していました。

尼港守備隊が駐屯していたレンガ造りの兵舎が、今でもその雄姿を残しています。

尼港 守備隊兵舎その1
              尼港守備隊兵舎跡


(これが尼港守備隊の兵舎か・・・まるで当時のままだ)

何やら、胸に迫るものが・・・。

車から降り、私は兵舎跡の写真を撮り始めました。

そして、5分ほどたった頃でしょうか、
玄関前にいた元館長の娘、エレーナさんが急に大声を上げたのです。
どうしたんだろうと思って近づいていくと、 今度はイーゴリーが驚いた様子で、

「中に誰か人がいますよ。あッ!こっちを向きました」

おっかなびっくり、私も覗いてみると、
くしゃくしゃの顔した老人がもの凄い形相でこっちを睨んでいるじゃありませんか。

まるで「オペラ座の怪人」だ。

尼港 守備隊兵舎その2
               尼港守備隊兵舎跡


(これはまずい)

と、思った瞬間、

大柄で毛むくじゃらの怪人がドアを開けて飛び出してきたのです。
迫力ある怒鳴り声で。(ロシア語ですから意味は不明ですが)

ソーニャ元館長、そしてエレーナさんも急いで車の方へ駆け出しました。

イーゴリーも逃げの一手。

(おい!私を置いていくのか!お前たち、そりゃないだろ〜〜〜!)

ファントムに追いかけられる私たち(笑)

車に逃げ込むように乗って立ち去りましたが、本来は倉庫のはずなのに、

誰か住み着いてしまったんですね。

それにしてもあの形相は恐ろしかった。

尼港の町並み
              ニコラエフスクの現在の住居

建物は当時の歴史を物語っていますが、ファントム・オブ・ザ・ニコウにはお気をつけを・・・。


これから遊郭跡へ・・・。




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尼港事件の現場を訪ねて その5

守備隊兵舎から西へ300mほど行くと、そこは当時、繁盛していたと言われる遊郭跡があります。

やはり、この世界は町の外れにあるんですね。

今は空き地になって殺風景な感じですが、おそらく93年前(1920年)の事件以降も、
この場所には建物が建つことはなかった。

そんな印象さえ受けます。

何せ、ニコラエフスク尼港事件後もほとんど街並みが変わっていないんですから。

尼港の遊郭跡地
              尼港の遊郭跡地

尼港の遊郭には2件の遊女屋があったそうですが、

その一つに

「お菊さん」という名物「お姐さん」がいたそうです。

   名前は「お菊さん」。

娼家名は夕霞楼か朝日館か、それはともかく地元ではたいそう人気の「お姐さん」だったようです。

元館長ソーニャさんによると、20年近く前に日本から小説の題材にしようと、
資料館に問い合わせがあったというから、その名は語り継がれていたのかも知れません。

遊郭近くにある家並み
             遊郭近くにある家並み 

それにしても日本人の商魂はたくましい限り。

こんなシベリアの果てまで遊郭をつくってしまうんですから。

   しかし、   よーく考えてみると、

日本人がただの助兵衛ということではなく、
むしろ日本の伝統的文化と解釈すべきなのではないでしょうか。

この時代、満州でもこの手の商売は流行っており、

「色恋、時と場所を選ばず」とはよく言ったもの。

それだけ町が活気づいていたという証拠でしょう。

遊郭跡地で戯れるイーゴリー
            遊郭跡地で戯れるイーゴリー 

1920年(大正9)1月、トレピーチン率いる赤軍パルチザンが尼港(ニコラエフスク)の町を包囲します。

このトレピーチンという男、

第1次世界大戦ではロシア軍の下士官として出征しましたが、その後はウラジオストックの赤軍パルチザンに入隊し、
最近になってハバロフスク支部で革命教育を受けていました。

ロシア革命の終盤、ロシア中の町が革命か帝政かで揺れ動いており、

ペテルブルグからモスクワ、

そして東方面へと革命軍が順次勢力を伸ばしつつあり、

ついに尼港(ニコラエフスク)にも革命の嵐が迫っていたのです。

尼港に赤旗を!

ハバロフスク支部より指令を受けたトレピーチンは、
副官としてレベデワ(女性)を伴って尼港を目指します。

ハバロフスクから尼港までは陸上で約800kmの距離。

もちろん、アムール川を含めて海上輸送は氷に閉ざされて不可能です。


陸路の長い遠征で2人は恋仲に・・・。

彼らは、

ハバロフスク支部より尼港(ニコラエフスク)の町を革命派に属するよう指示を受けていたとはいえ、

正規の共産党員でもなく、所詮は一旗揚げよう組の一派です。

徒党のゆえ、残忍極まりない無法者に成り下がる可能生もありました。

その間にも、ロシアに点在する町々には、革命派の手が忍び寄っています。

トレピーチン一党が尼港(ニコラエフスク)に辿り着いたときは
4000人を超える支持者で膨れ上がっていました。

町からも革命派に寝返る人たちが激増、帝政派(白系ロシア)は日毎に不利になって行く状況に・・・。

そして1月中旬、

ついに町は戦乱の渦に突入・・・。

緒戦は、あっという間に革命軍の勝利となります。

当時の尼港市街図



ここで、現地住民たちは日本の尼港守備隊に町の防衛を託します。

衆寡敵せずとはいえ、守備隊長の石川正雅少佐は最後の臨みを託して、

町に夜間外出禁止を出して守りを固めます。

ここに乾坤一擲の戦いが始まろうとしています。

守備隊を含めた734人の居留民。

この中には当然、女性や子供も含まれています。
それと白系ロシア人との混成部隊がどうやって赤軍パルチザンと戦うのか。

若者や女性、そして民間人までもが自警団や義勇軍を結成して守備隊の傘下に入りました。

果たして「お菊姐さん」はどうしていたのか。その運命は如何に!

これから、パルチザン本部跡へ行ってみましょう。






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尼港事件の現場を訪ねて その6

中央通り沿いにあるセンター街から1kmほど空港方面(西方向)に行くと、
右側に赤軍パルチザンの陣地跡が見えてきます。

その一角を右折して100mほど進むと、


イーゴリーが興奮気味に、

「ありましたね! トレピーチンの本部が・・・」

「 この緑の建物がそうです」

赤軍パルチザン本部建物
            パルチザン本部建物

入り口の看板には、当時の様子が書かれてあります。

この建物にもファントム・オブ・ザ・ニコウがいるのではないか

と回りをキョキョロ見渡しますが、その気配はなし。

でも、

何となく怖い・・・。

看板には、1920年3月12日、この本部で11人の勇敢なパルチザン兵士が死亡したと書いてあります。

赤軍パルチザン本部入り口にある看板
        パルチザン本部の看板

そう、
この建物で壮絶なる戦闘が、日本隊(民間人を含む)と赤軍パルチザンとの間で繰り広げられたのです。

1920年2月28日、赤軍パルチザンの隊長、トレピーチンは尼港(ニコラエフスク)の町に革命政府樹立を宣言しました。

これに対し、尼港の治安を託された守備隊長の石川少佐は、帝国領事館に下士官を集めて作戦会議。

そこで出た結論は起死回生の策、赤軍本部への夜襲でした。

しかし、

ここで日本側に大きな問題が発生してしまいます。

1ヵ月前の戦いで海軍の電信設備が破壊されてしまったのです。

したがって、ハバロフスクやウラジオストックの日本軍司令部との交信ができません。

最後の電文が残っています。

「尼港の町は赤軍に包囲され、全員、玉砕で臨む」

当時の日本帝国領事館(ニコラエフスク資料館所蔵)
        日本帝国領事館 (ニコラエフスク資料館所蔵)

乾坤一擲の戦いは、1920年(大正9)3月12日の早暁と決まりました。

日本隊は陸軍守備隊を中心に海軍電信隊、それに義勇軍と自警団、およそ120人の戦士です。

ついにその日がやってきます。

石川隊長以下の70人は正面から、そして50人ほどが裏側に回って合図を待ちます。


「突撃!」

石川隊長の声と同時にドアが蹴破られます。

「続け!」

「タン、タン、タン!」

三八式歩兵銃の乾いた銃声と、投げつけた手榴弾の爆風と閃光。

不意を突かれた赤軍も反撃。

両者の間で凄まじい銃撃戦が展開されました。

しかし、この戦いで石川隊長は胸を打ち抜かれて絶命という不運に・・・。

それでも勇猛果敢に攻め抜く日本隊。

応援に駆け付けてきた赤軍兵士たちとの壮絶な戦いが繰り広げられる中、
時間と共に優劣は否めません。

圧倒的な敵軍に血まみれの敗走を余儀なくされるという事態に陥り、

這々の体で帝国領事館か守備隊兵舎に・・・。

その日本隊の中には20歳に満たない青年や女性の姿もあったといいます。

元館長から話を聞いていたイーゴリーは声を詰まらせ、

「何ていうことだ!」

赤軍パルチザン本部周辺の風景
          赤軍パルチザン本部周辺の風景


これから悲劇の戦場となった日本帝国領事館の跡地へ行ってみましょう。






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尼港事件の現場を訪ねて その7

ニコラエフスク空港から市街地に入ると、アムール川沿いに大きな空き地が見えてきます。

そこが日本帝国領事館のあったところです。

右側が領事館跡
             右側が領事館跡                                                                                           
道路脇に車を止めて、私たちは敷地内に入って写真を撮ることにしました。

ニコラエフスク資料館元館長のソーニャさん、

娘さんのエレーナさん、

運転手のニコライ、

そしてイーゴリーと

私の5人は、

当時の領事館で起きた出来事について話し合っていました。

イーゴリーが地面に生えている雑草をかきわけると、

建物の基礎がそのまま残っていました。

「まだコンクリートの土台が残っていますね。この場所も当時のままなんですよ」

日本帝国領事館跡地
         日本帝国領事館跡地
                            
よく見ると

確かに建物の基礎部分が残っているではありませんか。

守備隊兵舎では日本隊が武器を捨てて投降したために焼けませんでしたが、

領事館では両者による壮絶な戦いが繰り広げられ、

副領事を含めた邦人全員が自らの命を絶つか、

銃撃戦によって死亡したので建物も焼失してしまったのです。

在りし日の日本帝国領事館
          在りし日の日本帝国領事館


1920年(大正9)1月中旬、

尼港(ニコラエフスク)はトレピーチン率いる赤軍パルチザンに包囲されました。

白系ロシア人による尼港防衛隊は緒戦で赤軍パルチザンに敗北してしまい、

そのあとの治安を日本の尼港守備隊に委ねます。

治安を任された尼港守備隊長の石川正雅少佐は、この日本帝国領事館を本部として下士官を集め、

前回で紹介した赤軍パルチザン本部への急襲を

3月12日の早暁に決行したわけです。                

しかし、

石川少佐は無念の戦死。                       

同胞たちも死闘の末、

守備隊兵舎に逃げ込むか、

帝国領事館に退却するしかありませんした。

石田副領事とご家族の記念写真
 石田副領事とご家族の記念写真(ニコラエフスク資料館所蔵) 
       

ところで、
日本隊の急襲を受けたトレピーチンはどうしていたのか。


実は腕に負傷を負い、

危機一髪のところでレベデワを連れて2階の窓から飛び降り、

近所の家に逃げ込み九死に一生を得たのです。

12日の朝10時頃になると、

続々と駆け付けてきた赤軍に守備隊兵舎と日本帝国領事館は猛攻撃を受けることになります。

日本帝国領事館でも当初は200人ほどが抗戦していましたが、

13日の夜が明けると、たったの28人しか生存者はおりませんでした。

ほとんどが撃ち殺されたか、投降したかのどちらかです。

13日の朝、怒ったトレピーチンは赤軍全員に指令を出します。


それは、

「日本人を皆殺しにしろ」

という命令でした。

昼になると、昨日の戦闘で逃げ遅れた兵士や居留民、

そして投降した白系ロシア人たちがアムール川に引きずり出されて残虐な処刑が始まりました。

戦乱で崩壊した当時の尼港
   戦乱で崩壊した当時の尼港(ニコラエフスク資料館所蔵)  
                       

日本帝国領事館跡地3
           日本帝国領事館跡地


いよいよ日本帝国領事館にも赤軍の恐怖が襲いかかってきます。
                         
彼らは副領事に武装解除を強要してきたのです。 
                               
しかし、それは死を意味すること。

石田副領事は毅然として拒絶し、その答えは、 

「文官といえども武士である」               

残った人たちの自害を見とどけた石田副領事は、

妻子を殺害したのち三宅駐在武官と刺し違えて自決するという、

何とも無念の最期を遂げたのでした。

アムール川の川底で発見された日本帝国領事館の看板
アムール川の川底で発見された日本帝国領事館の看板
(ニコラエフスク資料館所蔵)



さて、領事館の跡地内で元館長ソーニャさんから尼港事件のあらましを聞いていると、               

突然、

中央通りから大きな声が・・・。

制服を着た公安らしき2人が

怖い顔して私たちを呼びつけているのです。

何やら容易ならざる事態に全員が顔面蒼白・・・。

元館長が我々一行の代表ということで公安事務所に連れて行かれる始末・・・、

帰ってきたのは何と2時間後でした。

得体の知れぬ数人が、たむろして空き地で写真なんか撮っていると、

こんな羽目に遭うのでしょう。

てっきりスパイ行為とでも思ったのか・・・。                                 

こんなところにも

「ファントム・オブ・ザ・ニコウ」がいたとは、

これから思いやられそうだ。


ソ連が崩壊したとはいえ、まだまだロシアにはお気を付けを!


意気消沈した我々は本日の探索を打ち切り、

暗い気持ちになって各々が帰途に・・・。

明日の桟橋見学は大丈夫かな。   



つづく!





大日本帝国の轍 土方 聡 ひじかたそう


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尼港事件の現場を訪ねて その8 虐殺現場の桟橋

昨日のアクシデントの余韻も覚めやらぬ中、

尼港事件探索のため、

我々一行はニコライの運転する車でホテルを出発しました。

現在のニコラエフスク市内は、

93年前の尼港事件当時とほとんど街の区画が変わっていません。

空港から市内へ入る中央通りは町の東西を走るメイン通りですが、

通りの南側はアムール河畔で、

東に進むとチヌイラフ方面へと続きます。

中央通りのちょうど真ん中付近が、市役所などの行政機関や銀行、

そして商業店舗が立ち並ぶセンター街になっています。


現在のニコラエフスク市役所
          現在のニコラエフスク市役所


ニコラエフスク資料館もその一角にあります。

今の場所は、

当時の日本商工会の会長を務めた島田商会の跡地に建てられたとのことです。

資料館の話は次回にすることにして、

もう少し中央通りを東方面に車を進めると、

左に映画館を発見しました。

映画の看板が手書きとは恐れ入った。

それはまるで、昭和30年代の日本のようです。 

上映している映画は恐怖映画なのか。

聞くところによると、ロシア版黄金バットだとか。

映画館の前で笑顔を見せるイーゴリー


ニコラエフスク市内の映画館
          ニコラエフスク市内の映画館



映画館の真向かいには、

当時の市民生活の物資を一手に扱っていた商社、チューリン商会が当時の面影を残していました。

現在は家具の製造会社になっていますが、

建物は当時のままだそうです。

もちろん、修復はしているでしょうがね。


当時のチューリン商会
           当時のチューリン商会


チューリン商会の脇の道を下って行くと、

ニコラエフスク市内で唯一の市民公園に突き当たります。

アムール川に沿って整然と緑が敷き詰められた市民公園。

そこに建つ慰霊碑には、

ロシア革命で犠牲になった人や、

尼港事件のロシア人犠牲者の氏名も刻まれていました。


ニコラエフスク市民公園にある慰霊碑
        ニコラエフスク市民公園にある慰霊碑



公園の中心にある記念オブジェ。

この場所で記念写真を撮ろうとイーゴリーが言いだし、

尼港事件私設調査団と銘打った我々はここで写真に収まりました。



尼港事件私設調査団の面々
           尼港事件私設調査団の面々



市民公園のすぐ目の前がアムール川です。

そこには桟橋があり、そこから望むアムール川は絶景かな。

向こう岸は山々が連なり、まるで手が届きそうな距離。

それでも川幅が6kmもあると聞いて驚愕

目の錯覚か。


ニコラエフスク桟橋から望むアムール川
         ニコラエフスク桟橋から望むアムール川



でも、よ〜く眺めると、

川の真ん中に貨物船らしき姿が・・・。

それが小さく見えることからも、とてつもなく大きな川なのに納得します。



この桟橋は、事件当時もまったく同じ位置にありました。

その時の写真がこれです。



事件当時の桟橋で撮られた記念写真
     事件当時の桟橋で撮られた記念写真
      (ニコラエフスク資料館所蔵)


現在の桟橋
            現在の桟橋                               



桟橋で写真を撮っていると、

イーゴリーが息を切らして近寄ってきました。

「この場所が処刑場だったそうですよ」

「えッ」


思わず、その一言に私は息を呑んだ。

尼港事件で亡くなった人は、

邦人734名を含む3000人以上といわれています。

そのほとんどが一般人でした。

当時、赤軍パルチザンに河畔に引きずり出され、

有無も言わさず虐殺された邦人や白系ロシア人たち。



その処刑現場だと聞いて胸が痛む思いに・・・。



何だか、やるせない気持ちが脳裏をかすめました。



赤軍の指導者であったトレピーチンについては、

ハバロフスク博物館にも彼の功績が掲げられているそうですが。

「そんなの許せない!」

と思うのは日本人だからでしょうね。

ロシア側から見れば、日本のシベリア出兵には領土的野心が背景にあった、

という認識の上に成り立っているので、

当時の赤軍革命の正当性からトレピーチンを擁護しているのかも知れません。


崩壊した尼港の町
       崩壊した尼港の町 (1920年)
        (ニコラエフスク資料館所蔵)



これからニコラエフスクのセンター街に行ってみましょう。





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